第94話 翠緑の門と、千年の沈黙
馬車が止まった。
御者席のフランが「着いたわ」と短く告げ、俺は幌の隙間から外を覗いた。
巨木だった。
門柱の代わりに、二本の古木が街道を跨ぐように枝を伸ばし、天然のアーチを形成している。幹の太さは馬車三台分。樹皮には苔が幾層にも重なり、年輪が何千と刻まれているのが触れずともわかった。
そして、その向こうに広がる森は——
静かだった。
異常なほどに。
王都の喧噪はとうに消えている。街道を走る間にも、人の声や馬蹄の音が薄れていくのは感じていた。だが、ここは次元が違う。
鳥の声。
風が梢を揺らす音。
それだけだ。
足音すら、森に吸い込まれるように消えていく。
美しい、と思った。
同時に——息が詰まる、とも。
「……きれい」
隣でリゼが呟いた。俺の袖を掴んだまま、窓の外を見ている。
「うん。でも、なんか……」
言葉を探して、見つからなかったらしい。リゼが首を傾げた。
「わかります」
俺が代わりに言った。
「きれいなのに、寂しい」
「……うん。それ」
馬車を降りた。
「しーんとしてるねー」
ルゥが背伸びをしながら、間延びした声を出した。次の瞬間、両肩から力が抜けるように落ちて——目つきが鋭くなる。
「……静かすぎる。鳥の声以外、何も聞こえない。死角が多いわ。気を抜くな」
昼から夜への切り替え。一秒ぶんの遅延もない。研修の成果だ。
「了解です」
俺は短く返した。森の奥から飛んできた一羽の小鳥が、ちょうど梢の影に消えた。
石畳の道が、巨木のアーチの向こうへまっすぐに伸びている。苔むしてはいるが、模様は完全に均一だった。補修の跡もない。割れてもいない。千年間、寸分の狂いもなく保たれている。
新しくもなく、古くもない。ただ、止まっている。
「止まれ」
低い声がした。
アーチの影から、一人のエルフが姿を現した。
長い耳。細身の体躯。淡い銀色の髪。手には細い槍。動作は洗練されていて無駄がない。
だが、目に光がなかった。
義務で立っている目だ。そこにいる理由を、とうの昔に忘れた人間の目。
前世で何度も見た。燃え尽きた教師。惰性で通い続ける会社員。形だけ笑う窓口の職員。
「……通行許可証を」
声も平坦だった。
俺がギルドの公式文書を取り出そうとした、その時。
「レイン。お待ちなさい」
馬車の後方から、澄んだ声が響いた。
振り返ると、森の木陰から一人の少女が歩み出てきた。
外見は十八歳ほど。長い銀緑の髪を編み込み、白と翠のローブを纏っている。所作の一つ一つが流れるように美しい。微笑みは完璧で、声は鈴のように透き通っていた。
「ティアラ様……!」
レインと呼ばれた警備兵が、初めて表情を動かした。驚き。そして、わずかな戸惑い。
「この方々は私の客人です。通していただけますか」
「は、はい。しかし、女王陛下からの正式な……」
「正式な許可は、私が取ります。今は通してください」
柔らかい声だった。だが有無を言わせない響きがある。外交官の声だ。
レインが槍を引き、道を空けた。
ティアラが俺たちの方へ歩いてきた。一人一人の顔を見回す。
その視線が、俺の後ろに立つ深いフードの人物——ディアブラに留まった。
ほんの一瞬。
フードの陰から角の輪郭が滲み出るほど近くではない。だが、ティアラは確かに「何か」を見た。
俺の半歩後ろで、ディアブラの呼吸が止まったのがわかった。マントの裾が揺れない。指先が動かない。気配を消すというより、存在そのものを薄くしようとしている。魔王城の玉座で堂々と腕を組んでいたあの人が、いま、息を殺している。
ティアラの視線が、ディアブラからゆっくりと俺に戻った。
何も言わなかった。問いもしなかった。微笑みは少しも揺らがない。
外交官の判断だ。今は追及しない。
ディアブラの呼吸が、ようやく一つぶん戻った。
「冒険者ギルドのナギ様ですね。ティアラと申します。お待ちしておりました」
「ナギです。こちらこそ、招待状をありがとうございます」
「いえ。……正直に申し上げれば、あの招待状は私の独断です。おばあさまの正式な承認は、まだ得ておりません」
あっさりと言った。隠す気がないらしい。
「ですが、あなた方が王都で成し遂げたことは、ここにも届いています。人間の王が和平を宣言した。魔王が剣を置いた。……千年間、何も変わらなかったこの国に、風を入れたいのです」
ティアラの瞳が、一瞬だけ揺れた。決意と、微かな不安が混在している。
「……ご案内します」
一行が動き出した。
巨木のアーチをくぐり、森の奥へ。
道の両側には、並木が整然と続いている。一本一本の間隔が完璧に等しい。枝の伸び方まで揃っている。
「この並木は、千年前に植えられたものです」
ティアラが振り返らずに言った。
「一本も植え替えられていません。枯れたものもありません。魔素で保護されているので」
「……千年間、同じ木が」
「ええ。この国の全てがそうです」
声に誇りはなかった。どこか苦いものが混じっていた。
「——興味深いわね」
フランが眼鏡を押し上げ、並木の一本に手をかざした。指先から微弱な魔力が漏れ、樹皮の表面でちらりと反射する。
「魔素による生体凍結保存。理論上は可能だけど、千年スケールで安定運用した記録はないわ。これは独立した一つの大規模な研究領域として成立する」
その隣で、ソフィアが小さく頷いた。声は出さない。眼鏡の奥の目だけが、フランの指先と樹皮を交互に追っている。
言葉は要らないらしい。研究者同士、見ているものが同じだとわかれば、それで通じる。フランの眉が一ミリだけ動いた。気づいている。
ティアラのローブの裾が、苔むした石畳を擦る。その足取りだけが、この止まった景色の中で唯一、前に進んでいるものに見えた。
俺の視界の端で、何かが動いた。
振り返ると、さっきの警備兵——レインが、持ち場に戻ろうとしていた。だが、その足が一瞬だけ止まった。
ティアラの背中を見ている。去っていく客人たちを見ている。
そして、交代要員のエルフに「お疲れ様」と声をかけられ、ハッとしたように持ち場を離れた。
すれ違いざまだった。
レインが、ティアラに聞こえないほど小さな声で呟いた。
「……千年間同じ任務を続けていて、何のためにここに立っているのか、わからなくなりました」
独り言のつもりだったのだろう。誰に向けたわけでもない、こぼれ落ちた本音。
俺の足が止まった。
一瞬だけ。
「わからなくなること自体は、考え始めた証拠ですよ」
振り返らずに言った。歩き続けた。
背後で、足音が止まった気配がした。
誰かが、俺の背中を見ている。
だが俺は振り返らなかった。今は、それだけでいい。種を蒔くのは一瞬でいい。芽が出るかどうかは、その人自身の問題だ。
並木道を進む。
「……美しいですわね」
セラフィーナが胸の前で手を組み、空を見上げていた。並木の枝が頭上で組み合わさり、緑のトンネルを作っている。
「ですが——どこか、息苦しい」
俺と同じことを感じている。聖女の感受性は、こういう時に正確だった。
「祈りの空気と、似ているのです。教団の大聖堂と。……何百年も同じ祈りを唱え続けて、誰も疑わなくなった場所の」
声が静かだった。批判ではない。診断に近い。
ふと隣で、アリスがフリルのスカートを摘まみ、左右に揺らしてみせた。
「先生。この街、可愛い建物なのに……フリルがありません。レースもリボンもありません。寂しいです」
「……アリス」
「ぜんぶ綺麗で、ぜんぶ完璧で、なんか——息ができないです」
的外れな指摘のはずだった。
だが、本質を突いていた。
完璧であるということは、揺らぎがないということで、揺らぎがないということは、人の手の温度がないということだ。フリルもレースも、本来そこにあるべきはずの「無駄」も、この国にはない。
千年で、削ぎ落とされてしまった。
アリスは俺の顔を見上げ、不安そうに眉を寄せた。
「……変なこと言いましたか?」
「いえ」
俺は首を振った。
「正しいです」
アリスが少しだけ笑った。
やがて、森が開けた。
眼前に広がったのは——
街だった。
白い石壁。翠色の屋根。水路が街の中央を流れ、橋には蔦が絡んでいる。建物の角は丸みを帯び、窓枠には花が飾られている。通りには人影がちらほらと見えた。
美しかった。
息を呑むほどに。
だが。
建物の角の摩耗が、修繕されて元通りになっている。看板の文字が一字も掠れていない。水路の石組みが、一つも欠けていない。
古くない。
新しくもない。
ただ、完璧に保存されている。
時間が、止まっている。
左の袖が、強く引かれた。
リゼだった。
いつもの半歩の距離。だが、握る力が違った。爪が上着の生地に食い込みそうなほどに強い。
「ナギ」
「はい」
「……ここ、笑い声がしないよ」
短い言葉だった。
ナギが「墓地のようだ」と内心で名付けようとしていたものに、リゼは別の名を与えた。
Aランクの感覚は、いつも俺より早い。
通りには人がいた。市場には商品が並んでいた。子供らしき影もいた。だが——笑い声がない。怒鳴り声もない。生活の音がない。風と水の音だけが、街を満たしていた。
墓地のようだ、ではない。
笑い声がない街、だ。
リゼの方が、ずっと正確だった。
「……すごいな」
後ろで、ディアブラが低く呟いた。
「魔王城より、ずっと静かだ」
それは感嘆ではなかった。
同族の匂いを嗅いだ者の声だった。孤独の形は違うが、根は同じだと気づいた者の。
ティアラが立ち止まり、振り返った。
完璧な微笑みを浮かべている。だが、その目だけが——ほんの少しだけ、俺たちに何かを期待していた。
「ようこそ、翠嶺の国へ」
千年間、誰も言わなかった歓迎の言葉を。
この若い外交官は、自分の判断で口にした。
俺はポケットの胃薬に手を伸ばした。
長い旅になりそうだった。




