第100話 五百年前の親友と、凍った涙
記憶の間の扉が開いた。
エレノアは、立っていた。
いつもの安楽椅子ではなく、部屋の中央に。
昨日フランが卓上に置いた報告書が、椅子の横の小卓に置かれていた。頁の端が何箇所も折られている。一度ではなく、何度も読み返した跡だった。
「お早うございます」
エレノアの声は、穏やかだった。
だが、昨日までの声とは、何かが違っていた。仮面の厚みが、一枚ぶん、薄くなっている。
「昨夜、報告書を拝読いたしました。……よくまとめられた資料ですわ」
「ありがとうございます」
フランが短く応じた。
「数値に関して、いくつか確認したい点がございます。ですが——それは、後で結構ですわ」
エレノアが、部屋の奥の壁に手を触れた。
壁紙と同化していた扉が、静かに開いた。
螺旋階段が、地下へ続いている。壁は世界樹の幹そのもの。樹液が淡く光って、階段を照らしていた。
「ついてきてくださいまし」
エレノアは振り返らずに降り始めた。
俺、リゼ、フラン、ソフィア、ティアラが続いた。
階段を降りるにつれ、壁の樹液の光が変わっていった。翠から、灰色がかった緑へ。所々に、暗い色が混じり始める。
フランが無言で計測を続けている。ソフィアが数値をメモしている。二人の表情が、段を降りるごとに険しくなった。
最深部。
広い地下空間。円形のドーム。中央に——世界樹の主根が、太く垂れ下がっていた。
太さは巨大な石塔ほど。
だが。
主根の下半分が——黒ずんでいた。
上部だけが健やかな翠色を保っている。下半分は暗灰色。脈動も上と下で違っていた。上は規則正しく、下は途切れ途切れ。
フランが立ち尽くした。
「……報告書の予測モデルは、外殻データからの推定だった。実物は——予測より、進行している」
ソフィアが息を呑んだ。
「臨界点の到達時期を、前倒しで再計算する必要があります」
エレノアが、黒ずんだ根に、そっと手を当てた。
樹液が手のひらに反応して、かすかに光り——すぐに散った。
「これが。私が五百年間、隠してきたものです」
静かな声だった。
告白ではあったが、追い詰められた者の声ではなかった。一晩かけて覚悟を固めた者の声だった。
「世界樹は、エルフ王と魔素的に同期しています。王の心の状態が、世界樹に影響します」
「フランの仮説が——」
「仮説ではありません。事実ですわ」
エレノアが振り返った。
「五百年前。私は心を凍らせました。その日から、根が蝕まれ始めたのです」
ティアラが両手で口を覆った。
「おばあさま……」
「ティアラ。あなたには、ずっと話すべきでした。五百年、遅くなりましたわね」
エレノアが、孫娘に、小さく微笑んだ。
仮面の微笑みではなかった。苦く、申し訳なさそうな、人間の微笑みだった。
*
エレノアが語り始めた。
根元の薄暗い光の中で、千年の女王が、五百年前の記憶を解凍していった。
「あの子は、アルマと申しました」
名前が部屋に落ちた瞬間、空気の温度が変わった。
「魔族の女将軍でした。大断絶戦争が始まる前、文化交流で我が国を訪れたのが最初でした。武人でしたが、剣より歌が好きな人でした。私もそうでした」
声は淡々としていた。千年ぶんの会話術が、感情を声に乗せまいとしている。だが、その丁寧さが——どれほど大切な記憶であるかを証明していた。
「互いの宮廷を何度も行き来しました。最後に会った日、あの子が私にくれたのが——」
エレノアが視線を上げた。記憶の間を。止まった時計を。窓辺の額縁を。
「あの押し花です。魔族の領地に咲く花だと。私は約束しました。次の春に、白百合を押し花にして送る、と」
声が、ほんのわずかに揺れた。
「次の春は、来ませんでした」
戦争が始まった。講和は閉ざされた。最終局面は世界樹の麓。魔族軍の精鋭が、魔素を奪うために攻め込んできた。
「指揮官は——アルマでした」
エレノアの目が、閉じた。
「魔王陛下の命令だったのでしょう。あの子は背けなかった。私もそうでした。世界樹を守ることは、王の義務です」
「だから——」
「ええ」
短い沈黙。
「私が、自らの手で、討ちました」
一行の言葉だった。
千年ぶんの罪が、圧縮されていた。
「最後に、アルマは何も言いませんでした。私も何も言えなかった」
エレノアが目を開いた。黒ずんだ根を見つめている。
「あの子が息を引き取った後、私は城に戻り、時計の前に立ちました。そして——振り子を、止めました」
ティアラの目から、涙がこぼれていた。
「それからは、何も変えたくなくなりました。何も変えなければ、もう誰も失わなくて済む。新しい関係を作らなければ、新しい喪失も生まれない」
「だから——千年、全てを止めた」
「ええ」
エレノアの声が震えた。五百年ぶんの重みを持つ震えだった。
「変化は喪失を伴います。変わらなければ、もう誰も——」
声が、途切れた。
俺は、何も言わなかった。
フェンリルの言葉を、守っていた。心を開くのは彼女の仕事だ。
だが——彼女は、もう、開いていた。
自分で、選んで、開いた。
だから俺は、一つだけ、返した。
「エレノア様」
「……はい」
「アルマ様のお葬式は、なさいましたか」
エレノアの肩が、揺れた。
「……いいえ」
「お墓は」
「ありませんわ」
「アルマ様の思い出を、誰かと分かち合われたことは」
「一度も」
俺は、静かに頷いた。
「五百年間、お一人で、抱えてこられたんですね」
「……はい」
「悲しみは、凍らせても、消えません」
エレノアが、俺を見た。
「凍らせている間は、それ以上深まらない。でも、消えてもいない。流れていかないまま、ずっと、心の中に在り続けます」
「……」
「悲しみは、流れていくものです。涙と一緒に、言葉と一緒に、誰かと分かち合うことで——少しずつ、外に出ていく」
俺はこれ以上、言葉を重ねなかった。
十分だった。
扉は、もう開いている。
「……おばあさま」
ティアラが、エレノアの隣に立った。
二百年間、礼儀正しく距離を保ってきた孫娘が——初めて、祖母の手に、自分の手を重ねた。
「アルマ様は、どんな歌がお好きでしたか」
「……古い、北方の旋律を。短調の、少し物悲しいけれど、優しい歌を」
「いつか、教えてくださいますか。私に」
「……ええ」
「私がその歌を覚えたら、アルマ様の歌は——おばあさまがいなくなっても、私が覚えています」
エレノアの頬を、涙が伝った。
千年ぶりの涙だった。
止まった時計の上で、止まっていた水が——ようやく、流れた。
声を上げての慟哭ではなかった。
ただ、静かに、五百年ぶんの水が、頬を伝っていく。
ティアラが祖母の手をぎゅっと握り、自分も泣いていた。
フランが目を伏せた。ソフィアが眼鏡を外して、袖で目元を拭った。
リゼが俺の袖を、強く掴んだ。何も言わなかった。
俺も何も言わなかった。
言葉は、もう、要らなかった。
世界樹の根元で、二人の手が重なっている。
その手のひらの下で——黒ずんだ根の表面が、ほんのわずかに、脈動を取り戻したように見えた。
気のせいかもしれない。
でも——悲しみが流れ始めた時、何かが動き始めるのは、いつもそうだった。




