第101話 真実の原因と、同じ人を失った二人
エレノアが泣き止むまで、長い時間がかかった。
ティアラがずっと祖母の手を握っていた。フランとソフィアは根の計測を続けていた。リゼは俺の隣で、黙って立っていた。
やがてエレノアが、ゆっくりと涙を拭った。ハンカチで、丁寧に。所作だけは、千年ぶんの優雅さを失わなかった。
「……お見苦しいところを」
「いえ」
「ナギ様。これで、おわかりいただけましたでしょう。世界樹の衰弱は、私が——」
「陛下」
フランの声が、割り込んだ。
冷静な声だった。感情に流されない、学者の声。
フランは根の前にしゃがみ込み、手のひらに微弱な探査魔法を灯したまま、こちらを振り返った。
「計測が終わりました。結論から申し上げます」
エレノアが、フランを見た。
「この根の壊死パターンは、感情同期による内的崩壊ではありません」
部屋の空気が、止まった。
「……何ですって?」
「感情同期が原因であれば、壊死は根の中心核から放射状に広がるはずです。王の心が凍れば、同期点である中心核が最初に壊死し、そこから周辺に波及する」
フランが根の断面図を空中に魔力で描いた。
「ですが、実際の壊死パターンは、根の末端から中心に向かって進行しています。これは——外部からの魔素供給が断たれたことによる、栄養失調型の壊死です」
ソフィアが補足した。
「王立学院で七年間研究してきた魔脈データと照合しました。世界樹の根の衰弱が始まった時期は、五百年前——大断絶戦争の前後です。この時期は、世界全体の魔脈総量が急激に減少し始めた時期と一致します」
「魔脈の……」
「ええ。世界樹は、地下の魔脈から魔素を吸い上げて生きています。魔脈が枯渇すれば、世界樹も衰弱する。これは、陛下の心の状態とは無関係に起こる現象です」
フランが立ち上がった。
「エレノア陛下」
フランの声は、冷静だった。だがその冷静さの底に、研究者としての確信があった。
「これは——あなたのせいではありません」
エレノアの顔から、表情が消えた。
仮面ではない。本当に、何も浮かんでいない顔だった。
「……私の、せいではない?」
「はい。世界樹の衰弱は、魔脈枯渇という世界規模の現象の一部です。あなたが心を凍らせたことと、時期が重なっただけです」
「でも——同期は——」
「同期は実在します。ですが、同期が原因で壊死が起きたのではない。魔脈枯渇が原因で壊死が起き、あなたの感情の凍結は——おそらく、衰弱に対処する力を奪っただけです」
エレノアが、黒ずんだ根に目を落とした。
五百年間、自分を罰し続けてきた根拠が——崩れた。
「私は……五百年間……自分のせいだと……」
声が、震えていた。
さっきの涙とは違う震えだった。
「五百年間、自分の心が世界樹を蝕んでいると信じて……だから誰にも言えなかった……認めれば、罪が何倍にも重くなると……」
「その罪は、存在しなかったのです」
ソフィアが、静かに言った。
「ですが——」
ソフィアの声が、少しだけ厳しくなった。
「五百年間、何も動かなかったことで、対処の機会は失われました。五百年前に魔脈の異常に気づいていれば、他国と連携して対策を取れた可能性があります」
エレノアが、唇を噛んだ。
「罪があるとすれば——世界樹を壊したことではなく、世界樹を救えたかもしれないのに動かなかったことです」
厳しい言葉だった。だが、嘘はなかった。
エレノアは、長い間、黒ずんだ根を見つめていた。
「……そう、ですわね」
小さな声だった。
「私は、自分を罰することに逃げていたのかもしれません。罰していれば、動かなくて済みましたから」
ナギが言うべき言葉を、エレノアが自分で見つけていた。
俺は、何も言わなかった。
言う必要がなかった。
*
地下から記憶の間に戻った。
エレノアが、俺に向き直った。
「ナギ様。一つ、お話しし忘れていたことがございます」
「はい」
「アルマのことです」
エレノアが、少し間を置いた。
「アルマには、親友がおりました。魔族の中で、たった一人、心を許せる相手だと、アルマは言っていました」
俺の背中で、何かが動いた気配がした。
廊下の方から。
「その方の名を——ディアブラ、と」
部屋の空気が変わった。
ティアラが息を呑んだ。
「アルマは、よくその方の話をしていました。『あの子は不器用で、感情の出し方がわからなくて、いつも一人で抱え込む。でも歌だけは一緒に歌ってくれる』と」
廊下で、足音が止まった。
「アルマが亡くなった後、その方が——どうなったか、私は知りませんでした。魔族側の情報は、戦後、完全に途絶えましたから」
エレノアが、扉の方を見た。
「ですが、初日に、あなた方の中にいらした、あの方——フードの下の角の形が、魔族の古い血筋のものでした。アルマと同じ世代の。……もしかして、と思いましたが、確信はありませんでした」
エレノアが、扉に向かって、声を上げた。
「そこにいらっしゃいますわね」
沈黙。
数秒の後、扉がゆっくりと開いた。
ディアブラが立っていた。
フードを下ろしていた。長い角が、部屋の魔灯に照らされている。
目が——赤かった。
壁が世界樹と一体化したこの建物の中では、地下の会話は、樹液を通じて微かに廊下まで届く。
全て、聞いていた。
「……アルマは」
ディアブラの声が、低かった。
「——私の、唯一の友だった」
声を言い直した。千年の魔王としての口調が、一瞬崩れた。
「歌が好きだった。戦うより歌う方が向いていると、本人も言っていた。……私に歌を教えてくれたのは、アルマだけだ」
エレノアの目が、揺れた。
「アルマが死んだ日から、私は——歌わなくなった」
「……私も、ですわ」
二人の女が、向き合っていた。
友を殺した女王と、友を奪われた魔王。
千年と五百年の時間を超えて、同じ一人の女の名前が、二人を繋いでいた。
「アルマは」
エレノアが、静かに言った。
「最後まで、あなたのことを心配していましたわ。『あの子は私がいなくなったら一人になる。誰か、あの子の隣にいてくれる人が見つかるまでは、死ねない』と」
ディアブラの肩が、震えた。
「……そんなことを」
「ええ。あの子の最後の心配事は、国のことでも、戦争のことでもなく——あなたのことでした」
ディアブラが、目を閉じた。
長い沈黙。
千年の魔王の頬を、一筋の涙が伝った。
「……馬鹿な奴だ」
震える声だった。
「自分が死にかけている時に、私の心配をしていたのか」
「アルマらしいでしょう?」
「ああ。……あいつらしい」
二人が、同時に、かすかに笑った。
泣きながら。
同じ一人の友人を思い出して。
*
俺は、後ろに下がっていた。
この場面に、俺が立ち入る必要はなかった。
二人の間に流れているものは、五百年前から始まっている。それを今受け止めている二人の前で、第三者である俺は、ただ立ち会うだけだ。
リゼも何も言わなかった。俺の隣で、息を整えていた。
しばらくして、エレノアが静かに口を開いた。
「ディアブラ様。明日、もう一度、根元に降りてくださいますか」
「……根元に」
「アルマの友であるあなたに、見ていただきたいのです。……あの子が最後にいた場所を。そして——私が五百年間動かなかったせいで、救えなかったかもしれないものを」
「……承知した」
ディアブラが頷いた。
二人の王が、初めて、同じ方向を見た。
*
退出の途中、廊下の角を曲がる前、俺はもう一度振り返った。
記憶の間の扉が、わずかに開いていた。
扉の陰で、ティアラが両手で口を覆って、泣いていた。
声を上げない。ただ、涙だけが止まらなかった。
祖母が五百年ぶりに仮面を下ろした。その向こうにあったのは——自分を罰し続けてきた、一人の女性の顔だった。
そして、その罰が、間違いだったと知った顔だった。
俺は何も言わずに、廊下を歩き続けた。
明日、もう一度、根元に降りる。
今度は——三人の王と、一人のカウンセラーで。
五百年止まっていたものが、ようやく動き始めていた。




