第92話 「研究顧問の壁と、七つ目の署名と、七人分のジェラシー」
王都を発つ前日の朝。
俺は最後にもう一度、ソフィアの研究室を訪ねることにした。
蔦に覆われた扉を押し開ける。錆びた蝶番がきしむ音は、もう三度目だから慣れた。薬品と古い羊皮紙の混じった匂いが鼻をつく。青白い魔灯の光が、窓のない室内をぼんやりと照らしている。
——足が、止まった。
壁が変わっていた。
昨日まで古い魔脈地図が貼られていた一面に、見覚えのない図表が隙間なく並んでいる。棒グラフ、折れ線グラフ、散布図。丁寧に定規で引かれた軸線、几帳面に記されたラベル。
——だが、ところどころ、羽ペンを握りしめすぎたのか、インクが滲み、紙が破れるほど強い筆圧で書かれている箇所があった。横軸はすべて日付だった。
七月十二日。初訪問。滞在時間、三時間十七分。発話回数、百四十二回。笑顔回数、四回。
七月十三日。第二回訪問。滞在時間、四時間二分。りんご持参。被験者は入室後八分で上着を脱いだ。括弧、室温への適応か心理的安全性の上昇か要検証、括弧閉じ。
七月十四日。第三回訪問。フラン同席。被験者の視線がフランと観測者の間を往復した回数、二十三回。観測者への視線滞留時間、平均一・七秒。フランへの視線滞留時間、平均〇・九秒。有意差あり。
全部、俺のデータだった。
壁一面に、俺という人間が数値化されて貼り出されていた。
「おはようございます、ナギさん」
奥の机で、ソフィアが羊皮紙に何かを書きつけていた。羽根ペンを止めずに、こちらを見る。魔灯の光が眼鏡のレンズに反射して、その奥の表情が読めない。
「今日の入室時刻、七時四十三分。昨日より二分早い。変数の候補は朝食の摂取速度、もしくは宿を出る際の同行者の有無。どちらですか」
「……ソフィアさん」
「私の研究を理解できる人間は貴重です。データは正確に取りたいので、ご協力ください」
声に後ろめたさは一切なかった。自分がやっていることが完全に科学の範疇にあると、本気で信じている目だった。
俺は臨床心理士として、この種の目を知っている。本人にとっては合理的な行動が、客観的に見ればすでに逸脱の領域に入っているケース。ただ、それを今ここで俺が指摘すべきかというと——
「へえ。面白いわね」
背後から声がした。
振り返る。扉の前にフランが立っていた。花の図鑑を小脇に抱え、眼鏡の奥の目がソフィアの壁を見上げている。いつから居たのか。気配がなかった。
フランは靴音を響かせて壁の前まで歩いた。指先で折れ線グラフの一つをなぞる。
「視線滞留時間の有意差検定まで取ってる。サンプルサイズは三日分じゃ足りないけど、手法自体は悪くないわ」
ソフィアの羽根ペンが止まった。
「……あなたに評価される筋合いはありません」
「評価じゃないわ」
フランが振り返った。壁のグラフを背にして、ソフィアと向き合う。
「忠告よ」
研究室の空気が変わった。魔灯の光が二人の天才の間で揺れている。
「これは観測じゃない。執着よ」
ソフィアの肩が跳ねた。小さく、だが確かに。椅子の肘掛けを掴む指が白くなっていた。
「私は、研究者として——」
「わかるわ」
フランの声が少しだけ柔らかくなった。ほんの少しだけ。刃物の先端を布で包んだような、切れ味を隠しきれない優しさだった。
「私にも覚えがあるから」
ソフィアが息を止めた。
「ナギの行動を記録して、パターンを抽出して、次の行動を予測する。そうすれば安心できる。相手を理解できていると思える」
フランが一歩、近づいた。
「でもそれは理解じゃない。管理よ。そしてその衝動の正体は——失うことへの恐怖」
椅子が鳴った。ソフィアが立ち上がっていた。
「うるさい」
低い声だった。研究者の冷静さが剥がれた、剥き出しの拒絶。
「うるさく思うのは、自覚があるからでしょう」
フランは動じなかった。二人の視線がぶつかっている。俺はその間に立たなかった。立つべきではないと判断した。
これはフランの仕事だ。
先にカウンセリングを受けた者が、後から来た者の手を引く。セラフィーナがアリスにそうしたように。ルゥとルナが互いにそうしたように。この連鎖が、俺一人では届かない場所まで手を伸ばす。
「四年間、一人で研究を続けて」
フランの声が静かに響いた。
「やっと自分の言葉を聞いてくれる人が現れた。手放したくないのは当然よ。でもね、ソフィア」
名前を呼んだ。敬称なしの、対等な呼び方で。
「データで人を繋ぎ止めることはできないの。それは私が六十点を受け入れる前にやっていた失敗と、同じよ」
沈黙が降りた。
ソフィアは何も言わなかった。視線が壁のグラフに戻っていた。自分が作り上げたものを、初めて別の角度から見ているような目だった。長い沈黙だった。魔灯がちりちりと音を立てた。
「——午後に」
ソフィアが口を開いた。声が小さかった。
「もう一度来てください」
それはフランに向けられた言葉だった。壁にでも、俺にでもなく。
「何のために?」
「……観測方法の見直しを、相談したいだけです」
フランが微かに笑った。唇の端がほんの数ミリ上がっただけの、控えめな笑み。
「六十点でいいのよ、最初は」
* * *
研究室を出た。蔦の絡む廊下を歩きながら、フランが隣に並んだ。朝の光が窓から差し込んで、彼女の眼鏡を白く光らせている。
「ナギ」
「はい」
「あの壁、どう思った?」
正直に答えることにした。ここで嘘をつくとフランには見抜かれる。
「怖かったです。でも——少し、嬉しかった」
フランの足が止まった。
振り返ると、呆れたような、怒ったような、それでいてどこか諦めたような顔をしていた。表情の情報量が多すぎて処理が追いつかない。
「あなた、そういうところが問題なのよ」
「すみません」
「謝らなくていいわ。ただし自覚はしなさい。あなたが無防備に喜ぶから、ソフィアの行動が強化されるの。オペラント条件づけの基本でしょう」
「臨床心理士に条件づけの講義をしないでください」
「知っていてなお無防備なのが問題だと言っているの」
返す言葉が見つからなかった。フランは鼻を鳴らして歩き出した。俺はその半歩後ろをついていく。
* * *
午後。宿の広間に全員を集めた。
出発は明日の早朝。その前に、議題が一つある。
テーブルの上に王都の地図を広げ、全員の顔を見回した。リゼが窓際の椅子に座り、フランが壁に寄りかかり、ルゥがテーブルに頬杖をつき、セラフィーナが背筋を伸ばして正面に座り、アリスが地図の端をいじり、ディアブラが部屋の隅でフードを目深に被っている。
「ソフィアさんを、旅の同行者として正式に招きたいと思います」
広間の温度が二度下がった気がした。
リゼの目が細くなった。ルゥの頬杖が外れた。セラフィーナの組んだ手に力が入った。アリスが地図の端を握りしめた。ディアブラのフードの奥で赤い瞳が鋭く光った。
フランだけが表情を変えなかった。壁に寄りかかったまま腕を組んでいる。今朝の件で、こうなることを予測していたのだろう。
「理由を聞かせて、ナギ」
リゼの声は穏やかだった。だが甘えの色はない。Aランク冒険者として任務の説明を求める声だった。
「各国を回って魔脈のフィールドデータを集める必要があります。ソフィアさんの間接指標測定技術がなければ、地表から深層魔脈の状態を推定できません。彼女の研究が、この旅の根幹になります」
「研究者としての必要性は理解するわ」
フランが壁際から口を開いた。
「問題はそこじゃないのよね」
六人が同時に頷いた。見事な同期だった。
「淑女協定v2.0、第七条」
アリスがどこからともなく羊皮紙を取り出した。広げると、びっしりと条文が書き込まれている。
「新規メンバーの加入には、既存メンバー全員の承認投票を必要とする。——では、投票を行います」
「リゼさん」
「反対」
「フランさん」
「反対」
「ルゥさん」
「反対、かなぁ」
「セラフィーナさん」
「申し訳ありませんが……反対です」
「アリスは反対です!」
「ディアブラさん」
「——反対だ」
満場一致。完璧な否決。
俺は息を吸った。
「仕事に必要です。プロジェクトリーダーとして、業務上必要な人員の確保は管理者権限の範囲内です」
「管理者権限の乱用よ!」
フランが声を上げた。
「第三条、『管理者はその権限を私的目的に使用してはならない』。明記されているわ」
「私的目的ではありません。公的な業務要件です」
「あなたのその『公的』の定義が毎回ざるなのよ!」
三十分の議論の末——妥協点が見つかった。
ソフィアの加入は「研究顧問」という準メンバー枠で承認。ナギとの個別行動には事前申請が必要。フランが研究監督として同席する権利を持つ。壁への行動記録グラフの掲示は全面禁止。
淑女協定v2.1。付帯条項が六つ増えた。
* * *
承認が決まった直後。
広間の空気が変わった。さっきまでの「議論」の空気ではない。もっとじっとりとした、品定めの空気。
リゼが立ち上がり、テーブルを回って俺の正面に来た。両手をついて身を乗り出し、銀色の瞳がまっすぐに俺を射抜く。
「一つだけ確認。あの研究者のこと、女として見てないよね?」
直球だった。取り繕う気がゼロの、剣のような問い。
「見てません。研究のパートナーとして必要だから招くだけです」
「じゃあ、なんで三時間も密室で二人きりで話を聞いてたの!? 帰ってきた時にポーションと埃の匂いがついてたのは!? りんごまで置いて栄養の心配してたのは!?」
リゼの追及を皮切りに、広間の空気が一気に弾けた。
「そうだよ! お兄さん、あの研究者のお姉さん、絶対お兄さんのこと好きだもん!」
ルゥがテーブルをバンと叩いて身を乗り出す。
「壁に先生の笑顔の回数とか書いてありましたよね!? 笑顔を数えるなんて、完全に恋する乙女の行動ですよ! 私も数えてますけど!」
アリスがフリルを揺らしながら参戦する。
「あの壁の執着……過剰な世話焼きや干渉をしてくる気配がいたしますわ。私の(元)専門領域を荒らす泥棒猫の予感がしてなりません」
セラフィーナが聖母の笑顔のまま、一切笑っていない目で宣告する。
「そもそも行動パターンを壁一面に記録するなんて、私の管理プロトコルへの明確な挑戦よ」
フランが冷たく言い放つ。そして、ルゥの瞳が一瞬で冷え切った。ルナだ。
「監視は私の領域だから。競合は絶対に許さないわ」
四方八方からの怒涛のクレーム。俺はテーブル越しに押し寄せるヒロインたちの圧に、思わずたじろいだ。
「ナギ」
リゼがさらにテーブルに体重をかけた。ぎしり、と木が軋む。
「話を聞いてくれて、水を出してくれて、『謝らなくていい』って言ってくれて……りんご置いて栄養の心配までして。それ全部、あたしにやったのと同じなんだけど」
「……」
「あたしはそれで落ちたの。ナギの行動パターンは、誰に対しても同じ。優しくて、丁寧で、相手の話をちゃんと聞く。それが全部、恋に見える。……見える方が悪いのかもしれないけど、でも」
リゼが俺の手を両手で包んだ。テーブル越しに。
「あの人が勘違いしても、あたしは文句言えないって思っちゃった。だから、聞いておきたかったの。ナギの口から。……もし仮に、万が一。あの研究者がナギに惚れても。先に好きだったのはあたしだからね。これはファクト」
背後でフランが呟いた。
「先着順に法的根拠はないわ」
「うるさい! 感情の話してんの!」
「感情をファクトと呼ぶのは論理的に——」
「今それ言う!?」
いつもの調子が戻ってきた。俺の胃が少しだけ軽くなる。
だが、部屋の隅で腕を組んでいたディアブラが低く呟いた。
「……くだらん痴話はどうでもいい。一つだけ確認する」
赤い瞳が俺を見た。
「あの研究者は、私の正体に気づいている。共同研究者だ。旅に加わるということは、私の素性を知る人間がまた一人増えるということだ。……信用していいのか」
全員が黙った。ディアブラの問いは、ラブコメの文脈ではなかった。安全保障の問いだった。だが、その声にわずかに混じっていた棘——あれは、嫉妬とは言わないまでも、「自分の領域に踏み込まれる不快感」に聞こえなくもなかった。
「信用しています。彼女は四年間、誰にも理解されなくても研究を続けた人です。一度信じた相手を裏切る人ではないと、俺は判断しています」
「…………ふん」
ディアブラがフードの位置を直した。
「お前の判断なら、従おう。——ただし、私の研究データに勝手に触れたら焼く」
それは研究者としての矜持の問題であって、決して独占欲ではない。たぶん。おそらく。
* * *
全員の視線をくぐり抜け、俺は広間の入口に向かった。
ソフィアがいた。
壁にもたれ、腕を組み、眼鏡の奥の目でこちらを見ていた。いつからそこに居たのかはわからない。だが、全てのやり取りを聞いていたのは確実だった。
「というわけで、よろしくお願いします。研究顧問として」
ソフィアは数秒間、俺の顔と、その後ろで睨みを効かせている六人の顔を交互に見た。
それから眼鏡を押し上げた。レンズの奥の目が一瞬だけ揺れた。それを隠すように、視線を壁の何もない場所に逸らす。
「……研究のためです。あなたのためじゃありません」
小さな声だった。
「感情的な意味は一切ありません」
「わかりました」
「わかったなら、変な期待をしないでください。私はあなたに何の感情も持っていません」
「はい」
「……明日、何時に出発ですか」
「朝の六時です」
「五時五十分に馬車の前で待ちます。遅刻しないでください」
十分前行動。几帳面な性格が滲んでいる。
「あなたの朝の行動パターンから推計すると、六時丁度に間に合う確率は八十七パーセント。残りの十三パーセントは寝坊か、あの剣士に袖を掴まれて遅れるか、あるいはあの理屈っぽい魔法使いに朝食の栄養素を説教されるケースです。変数を潰すためにも、私が起こしに行った方が効率的ですが——」
「来なくていいです」
「言われなくても行きません。淑女協定に抵触しますから」
……俺のデータ、完全に暗記しているじゃないか。壁に貼るのを禁止しても、頭の中のデータベースは消えていない。
ソフィアが踵を返した。蔦の絡む廊下に消えていく。
だが、角を曲がる直前。足が一瞬だけ止まった。振り返りはしない。振り返る代わりに、横顔だけが見えた。
「……明日から、毎日データが取れます」
独り言のような声量だった。俺に聞かせるつもりはなかったのかもしれない。だが、研究室のように反響する石の廊下は、その言葉を俺のところまで届けてしまった。
声のトーンには、喜びも執着も含まれていなかった。少なくとも本人はそう思っているのだろう。だが、あの瞬間だけ——眼鏡のレンズの向こうで、目尻がほんの少しだけ下がっていた。
ソフィアの足音が遠ざかっていく。
背後から、六つの視線が俺の背中に突き刺さっている。
「ナギ」
リゼの声。
「あの人、絶対に『何の感情もない』じゃないよね」
「…………」
「データに基づいて言ってるんだけど」
「……リゼ、そのエビデンス思考の使い方、フェンリルさんが聞いたら泣きますよ」
「泣かないでしょ、あの犬。事実として——あの人の耳、赤かったよ」
Aランクの目は鋭すぎる。
フランが俺の横に立った。
「v2.1の付帯条項、もう一つ追加するわ。『研究顧問は、ナギの行動データを頭の中で保持することを禁じない。ただし、それに基づいてナギの朝の行動を予測し、先回りして接触することを禁ずる』」
「……それ、実効性あります?」
「ないわ。でも書いておけば違反した時に制裁根拠になるでしょう」
淑女協定は日に日に分厚くなっていく。
俺はポケットの胃薬に手を伸ばした。
明日からの旅は、さらに賑やかになりそうだった。




