第91話 六つの声と、一つの宣言
五日後。貴族議会。
半円形の議場。階段状の議席。約四十名の出席者。前回と同じ光景だが、空気が違った。
最上段のヴァルター公爵は、腕を組んで黙っている。灰色の目が演壇を見据えている。前回のような殺気はない。だが、賛成もしていない。待っている。王が何を言うかを。
傍聴席には、リゼ、フラン、ルナ、セラフィーナ、アリス。そしてフードを深くかぶったディアブラ。
リゼが俺の方をちらりと見て、小さく頷いた。大丈夫、という合図。
フランは羊皮紙を膝に置き、記録の準備をしている。
議長が開会を宣言した。
リヒャルト王が、上座から立ち上がった。
議場がざわめいた。通常、王は着席のまま発言する。立ち上がるのは、重大な宣言をする時だけだ。
「本日、議題第三号『人魔和平プロジェクト』について、王としての裁定を述べます」
ざわめきが止んだ。全員の目がリヒャルトに向いた。
「私は、長らくこの件について判断を保留してまいりました。各方面の意見を聞き、慎重に検討すると。……ですが、それは判断の保留ではなく、判断の放棄でした」
議場に衝撃が走った。王自ら、自分の怠慢を認めている。
「和平に反対する声には、正当な理由があります。魔族の侵攻で家族を失った方々の怒りは、決して無視できるものではありません」
リヒャルトの視線が、一瞬だけヴァルター公爵に向いた。公爵の表情は変わらなかった。だが、握りしめた拳が微かに緩んだように見えた。
「同時に、対話の可能性を探ろうとする声にも、正当な理由があります。戦い続けるだけでは、失われる命が増えるだけだ」
「双方の意見を聞いて、双方の正しさを認めた上で——」
リヒャルトが、議場全体を見渡した。穏やかな目だった。だが、そこには迷いがなかった。
「私は、王として決断します」
声が、議場に響いた。張り上げてはいない。だが、壁の隅まで届く声だった。
「人魔和平交渉の公式開始を宣言します」
議場が爆発した。
「陛下! 正気ですか!」
「魔族と交渉など——!」
「まだ審議が十分では——」
反対派の貴族たちが一斉に立ち上がり、怒号が飛び交う。教団の代表が「神の御意思に反する」と声を上げ、軍部の高官が「武装解除は認められん」と叫んだ。
リヒャルトは動じなかった。
「ただし」
一言で、議場が静まった。王の声には、穏やかさの中に鋼があった。
「交渉は慎重に進めます。期限を設け、定期的に議会に報告し、各派閥の懸念を一つずつ検討する場を設けます。即座の和平ではない。対話の開始です」
リヒャルトが演壇の方を見た。俺を見た。
「冒険者ギルドのナギ殿を、和平交渉の特任調停官に任命します。彼と彼のチームに、交渉の実務を委ねます」
俺は傍聴席から立ち上がり、一礼した。
「反対の方もおられるでしょう」
リヒャルトの視線がヴァルター公爵に向いた。
「公爵。あなたの怒りを、私は否定しません。あなたが和平に反対する理由は、正当です。ですが、私は王として、対話を試みる道を選びました。あなたの意見を切り捨てたのではない。あなたの意見を聞いた上で、なお別の道を選んだのです」
ヴァルター公爵は黙っていた。
数秒の沈黙の後、公爵がゆっくりと口を開いた。
「……王の決断は王のものだ。臣下がそれを覆す権利はない」
賛成したわけではない。だが、王の権限を認めた。軍人としての矜持が、そう言わせたのだろう。
「ただし」
公爵の灰色の目が、俺を射抜いた。
「あの受付の男が信頼に足るかどうかは、まだ判断しておらん。結果で示せ」
「……はい」
議場のざわめきが、少しずつ収まっていく。
反対派は消えていない。不満は残っている。全員が賛成したわけではない。
だが、決断は下された。
六十点の、不完全な、全員が不満を持つ決断。
それでも、ゼロ点の先延ばしとは、次元が違う。
* * *
傍聴席の隅で、ディアブラが動かなかった。
黒いフードの奥から、リヒャルト王の背中を見つめていた。
弱いと思っていた。優柔不断で、何も決められない、玉座に座る飾り物だと。
だが、この男は迷った末に自分で決めた。反対派の怒号を浴びながら、立ち続けた。
ディアブラは自分の手を見た。
数百年間、全てを一人で決めてきた手。部下の意見など聞かず、反対する者は力で黙らせ、自分だけが正しいと信じて突き進んだ手。
あの王は、全員の意見を聞いた上で、全員の反対を受け入れた上で、それでも自分で決めた。
私は、部下に何かを決めさせたことがあっただろうか。
部下の意見を聞いて、その上で判断を下したことが、一度でもあっただろうか。
独裁は効率的だ。一人で決めれば、会議は要らない。反対意見も出ない。即断即決。だがそれは、組織の全てを一人で背負うことと同義であり、やがて自分自身が潰れる。
あの人間の王は、別の方法を選んだ。遅くて、不格好で、全員に不満を残す方法を。
だが、あの王の背中には、孤独がなかった。
……私の背中には、何が残っていた?
フードの下で、ディアブラは唇を噛んだ。
* * *
議会が閉会した後、リヒャルトが俺を呼び止めた。
議場の出口近く。他の貴族たちが去った後の、静かな空間。
「ナギ殿。一つ、お願いがあるのですが」
「何でしょうか」
「あなたを、王室付きの相談役として正式に迎えたいのです」
俺は一瞬、言葉に詰まった。
「冒険者ギルドの受付としてではなく、王室の専属カウンセラーとして。報酬も地位も、それ相応のものを用意します。あなたのような人材は、この王国に必要だ」
悪い話ではない。むしろ、プロジェクトを進める上では有利な立場になる。
だが、俺が返事をする前に。
「「「「「「却下」」」」」」
六つの声が、完璧にユニゾンした。
傍聴席の出口から、ヒロインたち全員が雪崩れ込んできた。
「ナギは冒険者ギルドの受付です! 王室に取られたら毎日会えなくなるじゃん!」
リゼが真っ先に叫んだ。
「ナギの所属変更は、プロジェクト全体のリソース配分に影響するわ。現時点での組織変更は非合理的よ」
フランが即座に論理武装した。
「お兄さんは、みんなのお兄さんだもん! 王様だけのものにしちゃだめ!」
ルゥが腕を振り回した。
「ナギ様を王室に閉じ込めるなど……! かつての私と同じ過ちですわ!」
セラフィーナが胸に手を当てて訴えた。自分の過去をエビデンスにするあたり、成長している。
「先生は自由に動ける方が、より多くの人を救えます! 勇者として断言します!」
アリスが聖剣を掲げた。議場で聖剣を抜くな。
そして。
「却下だ」
六人の中で、一番大きな声が響いた。
低く、重く、議場の壁に反響するほどの声量。明らかに「助手のディアさん」の声域を超えている。
リヒャルトが目を丸くした。
「あ、あなたは……?」
「助手です」
「……ずいぶんと、声の大きな助手ですな」
「……風邪気味でして。声の調節が利かないのです」
ディアブラが咳払いをした。フードの位置を直している。フランがさりげなく魔力遮断の術式を上書きした。セラフィーナが聖属性のコーティングを重ねている。連携が手慣れすぎていて逆に怪しい。
リヒャルトが俺を見た。
「……にぎやかな、チームですな」
「お察しの通りです」
「王室付きの件は……撤回します。あなたには、今の立場の方が合っていそうだ」
リヒャルトが苦笑した。穏やかな笑顔だった。決断した後の顔は、前より少しだけ軽い。
「ですが、相談役としての非公式な協力関係は続けていただけますか?」
「もちろんです。またおいしいお茶を飲ませてください」
「ええ。次は、もう少し美味しい茶葉を用意しておきましょう」
* * *
王城を出ると、夕暮れだった。
議場での緊張が解け、全員の足取りが軽い。リゼが「お腹空いた」と言い、ルゥが「お祝いのご飯食べよう!」と跳ね、アリスが「フリルのレストランがあるって聞きました!」と提案した。フリルのレストランとは何だ。
宿への帰り道。
リヒャルトの決断は成った。和平交渉の公式開始。だが、越えなければならないハードルがまだある。
「ナギ」
フランが隣に並んだ。
「リヒャルト王の宣言には、一つ条件がついていたわ。気づいた?」
「ええ」
議会の最後、リヒャルトが付け加えた一言。
『なお、本件については教団の正式な了承を得た上で進めるものとする』
教団。この世界の宗教的権威であり、政治的にも無視できない存在。セラフィーナが元々所属していた組織。
俺はセラフィーナを見た。
セラフィーナは、穏やかに微笑んでいた。だが、その目には覚悟があった。
「……私の出番ですわね」
「お願いできますか」
「ナギ様のためですもの。……それに、私はあの場所を知っています。教団の内側を」
セラフィーナが胸の聖印に触れた。
「出向という形で離れましたが、まだ正式には教団の聖女です。交渉の窓口になれるのは、おそらく私だけですわ」
ディアブラが、集団の後方で小さく呟いた。
「教団か」
その声に、苦みが滲んでいた。
「あの連中には、何度書簡を送っても焼かれた。使者を送れば殺された。魔族の言葉を聞く耳など、あの場所にはなかった」
「…………」
「私が最も対話に失敗した相手だ」
ディアブラの赤い瞳が、セラフィーナの背中を見つめていた。
フランが一歩前に出た。
「——ただし、今すぐは無理よ」
全員の視線が集まった。
「考えてみなさい。今この瞬間、教団にセラフィーナを送り込んだらどうなる? 王都の味方はリヒャルト王一人。しかもその王の宣言にすら『教団の了承を得た上で』と条件がついている。教団から見れば、一ギルドの受付が連れてきた出戻りの聖女が、一人で何か言いに来ただけよ」
「……門前払いですわね」
セラフィーナが苦笑した。自分が一番よくわかっている顔だった。
「ガレリウス枢機卿は政治家よ。多数派に逆らう理由がなければ動かない。逆に言えば——」
フランが指を立てた。
「教団が無視できないだけの支持を先に集めれば、交渉のテーブルにつかざるを得なくなる。エルフ、ドワーフ、獣人。複数種族が和平に賛同した状態で臨めば、これは『一ギルドの暴走』ではなく『世界の総意』になるわ」
フェンリルの言葉が脳裏に蘇った。『クライアントを増やしてから大口に挑め。ステークホルダーマネジメントの鉄則だ』。
「つまり——教団は最後だ」
俺が言い切ると、セラフィーナが頷いた。
「ええ。その間に私は準備をしますわ。内部の穏健派のリストアップ、古い人脈の確認……。包囲が完成した時に、内側から鍵を開ける役目は私が担います」
「一人で行かせません」
「ふふっ。ナギ様がそう仰ってくださるなら、百人力ですわ」
セラフィーナの笑顔には、もう空っぽの色はなかった。自分の意志で選んだ道を、自分の足で歩こうとしている人間の顔だった。
ディアブラが何か言いかけ、やめ、代わりにフードの位置を直した。
言える言葉が、まだ見つからないのだろう。
だが、赤い瞳だけは、セラフィーナの背中をまっすぐに見ていた。
夕日が王都の尖塔を赤く染めている。
和平交渉は、公式に始まった。
次の行き先は決まっている。
翠嶺の国。千年の森に閉じこもるエルフたちの元へ。




