第90話 決断の王 ── 六十点の覚悟
「ヴァルター公爵の前で、和平を口にすることの意味がわかりますか、ナギ殿。あの人は娘を失っています。十二年間、木の人形を彫り続けています。その人に『魔族と手を組む』と告げる。それは——あの人の十二年間を、否定することにはならないでしょうか」
重い問いだった。公爵の涙を知っている俺には、なおさら重い。
「否定にはなりません」
「なぜ、そう言い切れるのですか」
「公爵と直接、話をしたからです」
リヒャルトが息を呑んだ。
「公爵の怒りの下には、悲しみがありました。十二年間、娘の不在を一日も忘れたことがない。あの人が和平に反対しているのは、魔族を憎んでいるからだけではない。和平を認めてしまったら、娘の死に意味がなくなると——そう思い込んでいるからです」
「…………」
「でも、娘さんの死に意味を与えるのは、和平か戦争かという選択ではありません。公爵自身が、これからどう生きるかです。それは俺が言ったことではなく、公爵自身が、あの日——泣きながら、自分でたどり着いた答えです」
リヒャルトの目に光が揺れた。だが、まだ手放さなかった。
「……公爵は一人です。ですが、私の前には何千人もの国民がいる。公爵と同じように家族を失った者が、何百人もいる。全員に、あなたのように個別に向き合うことはできない」
「できません」
俺は認めた。
「一人のカウンセラーに救える人数には限界があります。俺は目の前の一人しか救えない。それが俺の限界です」
「ならば——」
「だから、陛下が必要なんです」
リヒャルトの言葉が止まった。
「俺は目の前の一人を聴くことしかできない。でも陛下は、一つの決断で国全体の方向を変えられる。その決断の先に、公爵のような人が自分の答えにたどり着ける道を作れるのは、王だけです」
「……それは」
「俺にできないことを、陛下にお願いしています」
リヒャルトが椅子の背にもたれた。天井を見上げた。長い沈黙だった。
窓から差し込む午後の光が、少しずつ角度を変えている。肖像画の上を光の帯がゆっくりと動いていく。亡き王妃の微笑みに光が当たり、やがて通り過ぎた。
「……ナギ殿」
「はい」
「正直に言います」
リヒャルトが天井から視線を下ろした。その目は疲れていた。王として何年も決断を避け続けた疲労が、そこに全部出ていた。
「私が怖いのは、失敗することではないのです」
「…………」
「失敗した時に、国民から見放されることです」
声が震えた。
「父は強い王でした。間違えても、揺るがなかった。だから民はついてきた。私にはあの強さがない。もし和平を宣言して、それが失敗したら——交渉が決裂し、魔族が攻めてきたら——国民は私を見限るでしょう。『やはりあの王は無能だった』と。本当に父の息子なのかと」
肖像画を見た。若き日のリヒャルトの隣に立つ、壮年の王の不在。描かれていない父の影が、この部屋に重く漂っていた。
「父のようになれないことは、とうに受け入れました。ですが——父の築いたものを、私の決断で壊してしまうことが、怖い」
その告白の重さに、俺は口を開けなかった。
これは「決断できない王」の話ではなかった。「見捨てられることを恐れる人間」の話だった。リゼと同じだ。表層は違うがコアは同じ。王と冒険者、立場も責任も全く違う。だが、根の部分に流れている恐怖は同じものだった。
——見捨てられたくない。
その恐怖が、全方向への配慮という形で発露している。全員の意見を聞くのは、全員に嫌われたくないからだ。決断を避けるのは、決断の結果として誰かに見放されるのが怖いからだ。
臨床心理士として、ここが核心だとわかった。だが同時に、ここを無理にこじ開けてはいけないこともわかっていた。王のプライドがある。一国の主が「見捨てられるのが怖い」と認めることの重さは、計り知れない。
だから、俺は別の角度から入った。
「陛下。一つ、お聞きしてもいいですか」
「どうぞ」
「今、この部屋で俺に本音を話してくださいました。全員の意見を聞いても決められないこと。毎晩廊下で立ち尽くすこと。お父上のようになれないこと。——それを、他の誰かに話したことはありますか」
リヒャルトの目が揺れた。
「……ありません」
「誰にも?」
「王が弱音を吐けば、臣下の士気が下がります。王妃が存命の頃は——彼女にだけは話せたかもしれません。ですが今は」
声が途切れた。
今は、誰もいない。
この人もまた、一人で背負っていた。ヴァルター公爵が十二年間の怒りを一人で抱えていたように。ソフィアが四年間の正しさを一人で信じ続けていたように。ディアブラが五百年の孤独を一人で耐えていたように。
王都に来てから、何人目だろう。一人で全部を背負い込んで、限界まで黙っている人間は。
「陛下」
「はい」
「今、話してくださいました。それだけで、一つ変わったことがあります」
「何が変わったのですか」
「陛下はもう、一人で抱えていません」
リヒャルトの表情が固まった。
「俺が聞きました。陛下の迷いも、恐れも、お父上への想いも。全部聞きました。それは俺の中に残ります。陛下が一人で持っていた荷物の一部を、今、俺が受け取りました」
「……ナギ殿」
「これはカウンセリングの基本です。話すことで、重さは消えない。でも、半分になる。誰かが知っているというだけで、孤独の形が変わる」
リヒャルトが目を閉じた。長い呼吸をした。肩が上がり、下がった。もう一度。
窓の外で鳥が鳴いた。王都の午後の音が、遠く聞こえていた。
目を開けた時、リヒャルトの目は濡れていなかった。だが、赤かった。泣くのを堪えた目だった。王として、涙は見せないと決めているのだろう。それもまた、この人の強さだった。
「……面白い方ですね、あなたは」
「よく言われます」
「公爵を泣かせ、今度は王まで泣かせようとしている」
「泣かせるのが目的ではありません。ただ——」
「わかっています」
リヒャルトが微笑んだ。先ほどまでの自嘲ではなかった。もう少し温かい、諦めと受容が混じった笑み。
「決断しろと」
「はい」
「全員が不満でも、決めろと」
「はい」
「その結果を、全て私が背負えと」
「いいえ」
リヒャルトが目を見開いた。
「一人で背負う必要はありません。決断は王にしかできない。でも、その結果を支える人間は、王の周りにいます」
「……誰がいるというのですか。臣下は従いますが、それは忠誠であって——」
「ヴァルター公爵は、和平に反対していますが、王を見限ってはいません。あの人が怒るのは、王に期待しているからです。期待していなければ、議会に来ません」
リヒャルトの手が止まった。
「教団は厄介です。ですが、セラフィーナ——元聖女が俺たちの側にいます。軍部の懸念には、データで応えられます。商人たちは和平を望んでいる。そして——俺たちがいます」
「あなたたちが」
「はい。旅のカウンセラーと、妙な仲間たちが」
リヒャルトが小さく笑った。今度は声が出ていた。
「妙な仲間、ですか」
「Aランクの剣士と、天才魔法使いと、二重人格の少女と、聖女と、勇者と、優秀な助手と、偏執的な研究者が一人ずつ。それから水晶球の向こうにコンサルタントが一匹」
「……それは確かに、妙ですね」
「世界で一番妙なパーティーが、陛下の決断を支えます。六十点で構いません」
リヒャルトの目が揺れた。
「六十点……ですか。あなたの仲間が言っていた」
「風の噂で聞かれましたか」
「冒険者ギルドの天才魔法使いが、最近やたらと六十点を連呼していると」
フランの布教活動が王城にまで届いている。あの女の影響力は時々恐ろしい。
「最善かどうかは、やってみなければわかりません。完璧な答えを待っていたら永遠に動けない。六十点の決断でも、ゼロ点の先延ばしよりずっと価値があります。少なくとも決断すれば結果が出る。結果が出れば修正できる。先延ばしからは、何も生まれません」
リヒャルトが立ち上がった。椅子が鳴った。
窓辺に歩いた。背中を向けたまま、王都の街並みを見下ろしている。午後の光が、王の横顔を照らしていた。
長い沈黙だった。
俺は待った。何も言わなかった。ここから先は王の時間だ。カウンセラーが踏み込む場所ではない。
「……ナギ殿」
背中のまま、リヒャルトが口を開いた。
「一つだけ、確認させてください」
「はい」
「もし私が和平を宣言して——交渉が破綻したら。魔族との対話が失敗に終わったら。あなたはどうしますか」
「もう一度、やり直します」
「それでも駄目だったら」
「もう一度」
「何度でも、ですか」
「何度でも。それが俺の仕事です」
リヒャルトの背中が震えた。笑っているのか、泣いているのか。窓の光が逆光になって、表情は見えなかった。
「……非効率ですね」
「よく言われます」
「ですが——」
リヒャルトが振り返った。
その目は、迷いの目ではなかった。恐怖が消えたわけではない。怖さは残っている。見捨てられることへの恐れも、父の影も、国民への責任も、全部残っている。だが、その全てを抱えたまま、前を向いている目だった。
「——嫌いではありません」
フェンリルと同じ言葉だった。偶然だろう。だが俺には、この世界の人々の間に流れる、ある種の共通言語のように聞こえた。非効率で、遠回りで、それでも嫌いではないもの。
「私には、父のような強さはありません。即断即決もできない。反対者を遠ざける冷酷さもない」
「ええ」
「ですが」
リヒャルトが一歩、前に出た。窓辺を離れ、部屋の中央に立った。王の私室の、質素な机と椅子の間に。肖像画の家族に見守られながら。
「迷った末に、自分で決める。それならば、私にもできるかもしれない」
「……はい」
「迷わない王にはなれません。ですが——迷ってもなお決める王にならば」
その声には、震えが残っていた。堂々たる宣言ではなかった。喉の奥から絞り出すような、細い声だった。だがその細さの中に、折れない芯があった。
「次の議会で、和平交渉の公式開始を宣言します」
「……陛下」
「反対派は騒ぐでしょう。ヴァルター公爵は——激怒するかもしれません。教団も黙ってはいないでしょう。全員が不満を持つ決断になるかもしれない」
リヒャルトが俺を見た。
「ですが、あなたの言う通りです。全員の意見を聞いて何も決めないのは、全員への裏切りだ。ならば——全員が不満でも、前に進む方を選びます」
窓から風が入った。肖像画の隅が微かに揺れた。
「六十点で、合格を出します」
俺は深く頭を下げた。
「十分です、陛下」
頭を下げたまま、心の中で付け加えた。
決断した王を、独りにはしない。
顔を上げた。リヒャルトが手を差し出していた。
「ナギ殿。一つ、お願いがあります」
「何でしょうか」
「議会の日——あの場に、あなたもいてください。私が揺らいだ時に、あの廊下で声をかけてくれたように」
「もちろんです」
王の手を取った。硬い手だった。剣を握る手ではなく、書類を捌く手。ペンだこのある、文官の手。だがその握力には、今決めたばかりの覚悟が、確かに込められていた。
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スピンオフ短編はじめました。
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