第89話 玉座の傾聴者
貴族議会の継続審議まで、あと五日。
フランが作成したロードマップによれば、議会で和平交渉の公式開始を宣言させるためには、その前にリヒャルト王本人の明確な意思表示が不可欠だった。
「王が決断しない限り、議会は永遠に『継続審議』のままよ。委員会が審議し、各派閥が意見を出し、誰も責任を取らないまま時間だけが過ぎる。典型的な意思決定の空洞化だわ」
フランの分析は的確だった。リヒャルト王は善良だ。誠実だ。民を想っている。だが、その善良さが「全方向への配慮」という形で機能不全を起こしている。
俺は王城への面会を申し入れた。議会の場ではなく、非公式の個人面談として。
リヒャルトは快く応じた。むしろ、待っていたような反応だった。
朝食の席で「行ってきます」と言った時の、リゼの小さな頷きを思い出す。フェンリルの言葉を思い出す。三つ目。今日は魔脈の話をしない。データも数字も使わない。ただ、聴く。
*
王の私室は、想像と違っていた。
玉座の間の荘厳さとは無縁の、むしろ質素な部屋だった。木製の机に革張りの椅子、窓際に小さな本棚。壁には家族の肖像画が一枚だけ飾られている。若い頃のリヒャルトと、亡き王妃、そして幼い王子。王妃の手が、幼い王子の肩にそっと置かれている。柔らかい筆致だった。
飾り気のない部屋だ。王としてではなく、一人の人間として過ごすための場所。カウンセリングに向いている。クライアントが鎧を脱げる空間かどうかは、初回の五分で決まる。この部屋は合格だった。
「どうぞ、楽にしてください」
リヒャルトが向かいの椅子を勧めた。自ら茶を淹れている。侍従を下がらせたらしい。茶器の扱いに迷いがない。慣れている。普段からこうして、一人で茶を淹れているのだろう。
「……王自ら茶を淹れてくださるんですね」
「ええ。こういう時くらいは、自分の手で」
茶を受け取った。温かい。ハーブの香りが立っている。セラフィーナが今朝くれたものとは違う種類だが、胃に優しい味だった。
「今日はカウンセリングですか」
リヒャルトが穏やかに笑った。自覚があるらしい。
「カウンセリングというほど大げさなものではないです。ただ、議会の前に、陛下のお考えを整理するお手伝いができればと」
「整理……ですか」
リヒャルトが自分の茶を一口飲み、カップを両手で包んだ。湯気が顔にかかり、一瞬だけ目を細めた。
「では、聞いてください」
俺は頷いた。ここからは俺の領分だ。データは使わない。数字も出さない。王の言葉だけを聴く。それが、今朝決めたことだ。
「私は、王に向いていないのかもしれません」
その一言は、予想していた。だが王自身の口から聞くと、重さが違う。予想していたことと、受け止められることは別だ。
「父王は即断即決の人でした。決めたことは絶対に覆さない。反対する者は粛清こそしませんでしたが、徹底的に遠ざけた。そのやり方で、王国は安定していました」
俺は何も言わなかった。聴いた。
「私にはそれができない。誰かを遠ざけることが、怖いのです」
リヒャルトが肖像画に目を向けた。若き日の自分と、亡き家族の姿。
「父が亡くなり、王位を継いだ時、私は思いました。全員の声を聞こう、と。父のように一方的に決めるのではなく、貴族も平民も、教団も軍部も、全ての意見を汲み取って、皆が納得する結論を出そうと」
「それ自体は、立派な志ですね」
「ええ。そう信じていました」
リヒャルトの声が低くなった。湯気の向こうで、表情が翳る。
「ですが、全員の意見を聞けば聞くほど、何が正しいのかわからなくなるのです」
カップの中の茶が微かに揺れた。リヒャルトの手が震えている。
「ヴァルター公爵は『魔族を許すな』と言う。彼の怒りには正当な理由がある。娘を——家族を奪われたのです。その痛みの前で、和平などという言葉を口にできますか」
「…………」
「学術機関は『データに基づいて判断せよ』と言う。正しい。教団は『神の導きに従え』と言う。信仰の力も否定できない。商人たちは『戦争は経済に悪い、和平を進めろ』と言う。もっともだ。軍部は『備えあれば憂いなし、武装は解くな』と言う。それもわかる」
リヒャルトが顔を上げた。俺の目を見ている。助けを求める目ではなかった。答えを知っている人間が、それでもなお苦しんでいる目だった。
「全員が正しいのです、ナギ殿。それぞれの立場から、それぞれの論理で、正しいことを言っている。……それなのに、全員の意見が矛盾している。全員を満足させる結論など、存在しない」
「…………」
「だから、私は決められない。誰かを選べば、他の誰かを切り捨てることになる。切り捨てられた者の悲しみを想像すると、手が止まる。結局、『もう少し検討しましょう』と言い続けるしかなくなる」
リヒャルトが苦笑した。自嘲の色が濃かった。
「あなたの仲間の魔法使いが、メモに『典型的な決断回避』と書いていたのは見えていましたよ」
バレていた。フランに後で伝えよう。メモは見えない角度で書け、と。
「……彼女の分析は正確です」
俺は正直に言った。ここで取り繕っても意味がない。嘘をつけば、二度と誰もお前の前で泣けなくなる。フェンリルの言葉が脳裏をよぎった。
「陛下。一つ、きつい言い方をしてもいいですか」
「どうぞ。良薬は苦いものです。大丈夫です、私は殴りませんよ」
ヴァルター公爵のことだろう。俺の頬の腫れはセラフィーナの微弱ヒールでだいぶ引いたが、まだ薄く黄色い跡が残っている。
「全員の意見を聞くのは、誰の意見も聞かないのと同じです」
リヒャルトの目が見開かれた。
「全員に耳を傾けること自体は間違いではありません。でも、全員の意見を等しく重みづけした結果、何も決まらないのなら——それは聞いていないのと同じです。むしろ、全員の時間を奪っている」
沈黙が落ちた。
リヒャルトの手がカップを握りしめた。指の関節が白くなっている。
「……わかっています」
低い声だった。
「わかっているのです。だからこそ、毎晩——」
声が詰まった。リヒャルトが目を伏せ、息を整えた。数秒かかった。
「——毎晩、城の廊下で立ち尽くすのです。窓の外を見て、街の灯りを見て、『今日もまた先延ばしにしてしまった』と」
あの日。議会の後、廊下で一人呟いていたリヒャルトの姿が蘇った。
「王の仕事は、全員を満足させることではありません」
俺は声を落とした。
「全員が不満でも、最善の選択を自分で決めること。それが王の仕事です」
リヒャルトが顔を上げた。だが、その目には反発があった。穏やかな人間が見せる、静かで根深い抵抗。
「最善の選択が何かわからないから、決められないのです」
声は穏やかだった。だが譲る気はなかった。




