第9話 天才魔法使いはブレーキが効かない
ギルドの営業時間が終わり、広間から喧騒が完全に消えた夜。
帳簿の整理をしていた俺の前に、彼女は現れた。
氷炎の才媛、フラン。
「……今日は、誰にも聞かれたくない話をしに来たの」
小部屋に入ってくるなり、彼女はそう言った。
いつものように背筋は伸びているが、その声には、日中には決して見せない切実な響きが混じっていた。
「どうぞ」
俺は椅子を勧め、温かい茶を淹れた。
フランは静かに腰を下ろし、両手でカップを包み込む。
あの修羅場……じゃなかった、グループセッションもどきの後から、フランの顔色はほんの少しだけマシになっている気がした。
しかし、根底にある危うさはまだ消えていない。
「それで。聞かれたくない話、ですか」
「ええ」
フランはカップの縁を見つめたまま、口を開いた。
「この前、あなたに言われたわね。私が休むこと、立ち止まることを恐れているって」
「はい」
「それを自覚できたことは『前進』だと」
「ええ。傷口の場所がわからなければ、治療はできませんから」
フランは小さく息を吐いた。
「私もそう思ったわ。恐怖の正体を言語化できたのだから、あとは論理的に対処できるはずだと。……でも、違ったの」
「違った?」
「いざベッドに入って休もうとすると、今度は『休もうとする自分』が許せないのよ」
フランの指先に、ぎゅっと力が入る。
「私はずっと、百点以外は失敗だと思って生きてきたわ」
「……」
「休めば、パフォーマンスは一時的に八十点に落ちる。頭では、それが回復のために必要な処置だと理解しているわ。でも、私自身が、その八十点を許容できない」
彼女は顔を上げ、俺を見た。
その蒼い瞳に浮かんでいたのは、恐怖ではなく、激しい自己嫌悪だった。
「自分で自分に、『今日はもう休んでいい』って許可が出せないの。……私の判断で休むことは、私にとってただの『甘え』であり、『敗北』なのよ」
それが、彼女の苦しみの核心だった。
休むべきだと分かっている。
限界だと分かっている。
それでも、自分の手で自分を止めることができない。
「誰かが『今は止まれ』と明確に命じない限り、私は止まれない。……なんて滑稽かしら。自分の身体一つ、コントロールできないなんて」
フランは自嘲するように唇を歪めた。
自分が壊れかけていることよりも、「自分で自分を律せられない」という事実そのものが、彼女の誇りを深く傷つけているのだ。
「フラン」
俺は姿勢を正し、彼女の目を真っ直ぐに見返した。
「あなたの問題は、意志が弱いことじゃない」
「……」
「むしろ逆です。意志が強すぎる」
さらさらと丸を三つ書く。
判断。
行動。
停止。
雑な図だが、今はこれでいい。
「普通の人は、疲れたらどこかで“今日はこのへんでいいか”に逃げる」
「逃げる、ね」
「ええ。でもあなたはそこに逃げない。逃げないどころか、疲れてからが本番みたいにアクセルを踏み込み続ける」
「……そうね」
「だから、行動と継続の機能は強い。でも、停止だけが壊れてる」
「停止だけが」
「休んでいい、を出す判断系統が、今のあなたの中ではまともに動いてないんです」
フランは図をじっと見つめた。
反発するでもなく、黙っている。
頭の中で、理屈として通るか検証している顔だった。
「自分の判断で休めないなら」
俺は言う。
「いったん外部ルールを使うしかありません」
「外部ルール」
フランの眉が、わずかに寄る。
「私に、自分の管理を手放せと言うの?」
「永久にじゃありません。補助輪です」
「補助輪」
「ブレーキが利かない馬車で坂を下る時に、“気合いで止まれ”とは言わないでしょう」
「……嫌な例えね」
「でも近いです。今のあなたは、走る力はあるのに、止まる仕組みだけがおかしい」
「……」
「なら、止まる線を外に置く。自分の気分や罪悪感で動かない線を」
フランは少しだけ視線を伏せた。
「屈辱的だわ」
「でしょうね」
「自分一人で完結できないと認めるのだから」
「でも、必要です」
「……」
沈黙が落ちた。
ランプの火が小さく揺れる。
外は静かだ。
昼間みたいにリゼが飛び込んできて空気をぶった切ることもない。
そのぶん、フランの沈黙の意味がよくわかった。
怒っているわけじゃない。
傷ついているのだ。
疲れていることより、自分で自分を止められないことに。
「ねえ、ナギ」
「はい」
「他の人に“休め”と言われると、腹が立つの」
「正直ですね、良い傾向です」
「無責任に聞こえるから。何も知らないくせに、綺麗な言葉だけ置いていく感じがするわ」
「……はい」
「その人が壊れかけた天才を気遣っている自分に酔っているように見える時もある」
その言い方に棘はあったが、嘘はなかった。
たぶん彼女は、そういう視線にずっと晒されてきたのだろう。
「でも、あなたの言葉は少し違う」
「俺ですか」
「ええ。あなたは、私を慰める前に観察する」
「観察は大事ですよ」
フランはカップを置いた。
「あなたは“かわいそう”とは言わない。まず事実を並べて、次に運用を直そうとする」
「まあ、そういう仕事です」
「だから、腹が立たないわけではないのだけれど」
「そ、そうですか」
「でも、守れそうだとも思ってしまうの」
それはあまり、聞き流していい台詞ではなかった。
この人の中で、俺の言葉が“助言”から別の何かに変わり始めている。
そういう感触があった。
「フラン」
「何かしら」
「確認しておきますけど、俺は支配者になりたいわけでも監督官になりたいわけでもありません」
「ええ」
「あなたの生活を一から十まで管理したいわけでもない」
「ええ」
「ただ、今は“自分だけで止まれないなら、外に線を置くしかない”と言ってるだけです」
「理解しているわ」
理解した上で、その目をしてるのが怖いんだよな。
「……理屈は通っているもの」
フランはゆっくりと背筋を伸ばした。
「私の判断系統は、休養に関してだけ正常ではない」
「はい」
「ならば、正常に動く外部基準が必要」
「はい」
「自分が甘えたのではなく、外のルールに従っただけだと思えれば、少なくとも止まる余地はある」
そこまではいい。
そこまでは、かなりいい。
問題は、この人がそこから先を異様な速度で詰めることだ。
「では」
フランはまっすぐ俺を見た。
「その基準は、誰が決めるべきなのかしら」
嫌な予感がした。
こういう時の予感は、だいたい当たる。
「……選択肢はいろいろありますよ」
俺は慎重に言った。
「ギルド全体の規則にするとか、書面にするとか、治癒術師の所見を挟むとか」
「でも、他の人ではだめだわ」
「即答ですか」
「ええ。他人に休めと言われると腹が立つもの」
そこはまったくぶれないらしい。
そしてフランは、ごく自然に、当然の結論みたいな顔で言った。
「では、あなたが基準を決めるべきね」
「……はい?」
その一言で、相談の角度が変わった。
ただ話を聞く段階ではない。
助言を渡すだけでもない。
この人は今、自分の停止権限を預ける先として、俺を見始めている。
静かな顔だった。
頬も赤くない。
声も熱っぽくない。
でも、だからこそ重い。
感情で飛びついてくるリゼとは違う。
フランは理屈を積み上げ、逃げ道を塞いだ上で、まっすぐこちらへ結論を置いてくる。
前世だったら倫理委員会案件だ。
この世界にも早く委員会を作った方が良いかもしれない。




