第10話 睡眠管理は専属契約ではありません
翌朝。
出勤した俺を迎えたのは、机のど真ん中に置かれた羊皮紙の分厚い束だった。
表紙には達筆で【休養管理暫定プロトコル案 改訂第二版】とある。ペラリと捲ると『深夜活動の定義』『違反時の再発防止策』など、生活改善というより軍規みたいな項目が並んでいた。
昨夜のフランの「あなたが基準を決めるべきね」という声が蘇る。
自分で止まれない人間に、外から線を引く。理屈はわかるが、これをそのまま採用したら彼女は余計に息が詰まるだろう。
俺はそっと束を閉じ、新しい羊皮紙を引き寄せた。
今必要なのは、完璧な規程じゃない。「ここでやめていい」と言い訳できる、最低限の補助線だ。
『フラン用・生活改善ルール(仮)』
一、深夜の訓練は禁止。
二、就寝前一時間は魔導書を開かない。
三、食事は一日最低二回。
四、魔力計測は一日一回。
五、眠れなくてもベッドから出ない。
これくらいでいい。完璧に守れなかった瞬間に自分を処刑し始める人間に、厳密なルールを渡しても意味がない。
「何書いてるの?」
「うおっ」
横から不意に声がして、肩が跳ねた。
いつの間にかリゼが俺の横に立って手元を覗き込んでいる。最近この人、出現の気配が薄い。Aランク剣士の隠密性能を相談窓口で発揮しないでほしい。
「おはよう、ナギ。ふらん用、生活改善ルール?」
「天才魔法使いの睡眠を、人類向け仕様に落とし込んだ結果です」
俺が答えると、リゼは俺が書いた一枚と、横に積んである分厚い束を見比べた。
「下の分厚いやつは?」
「本人が持ってきた原案です。違反時のペナルティとか書いてあります」
「睡眠にペナルティあるの? 怖いね。それ、あの子に渡すの?」
「仕事なので」
リゼは不満そうに、少しだけ頬を膨らませた。
「私にもルール作ってくれていいのに」
「あなたのルールは『ギルドにいない時間を増やす』です」
「それはだめぇ」
秒で却下された。
* * *
昼前。ギルドがいつもの喧騒に包まれ始めた頃、濃紺のローブを纏ったフランが時間通りに現れた。
昨日より少しだけ肩の力みが抜けている。俺という外部基準ができたせいだろう。
「おはよう、ナギ。昨夜は追加指示がなかったので既存判断で動いたわ。睡眠は三時間よ」
「少ないですが、ゼロよりは前進ですね。で、これがあなたの基準です」
俺が羊皮紙を差し出すと、フランは高位魔導書でも読むような真剣な顔でそれに目を通した。
「……随分と曖昧ね。『深夜』の定義は?」
「日付が変わる前後を目安に」
「目安、では運用が揺れるわ。二十四時と明記すべきでしょう。『食事』の量や栄養素は?」
「食べたと言える程度で。スープだけでも可です」
「基準が甘いわ」
フランは不満そうに紙を見下ろした。完璧主義者にとって、この「あそび」のあるルールは逆にストレスなのだろう。
「いいですか、フラン。これはあなたを縛るためのものじゃありません」
俺は紙を軽く指で叩く。
「自分で『休む』許可を出せない時に、代わりにこのルールへ責任を押し付けるんです。あなたが怠けたんじゃない、外のルールに従っただけ。そういう逃げ道です」
「……休むための理屈を、外に置くのね」
フランの表情が、少しだけ柔らかくなった。初めて“自分で決めなくていい免罪符”に触れた人の顔だ。
「わかったわ。あなたが推奨するなら、治療プロトコルとして受領する。ただし」
出たな、ただし。
「初期運用には観測期間が必要だわ。エラーの早期発見と修正のために、報告間隔は短い方がいい。だから逐次報告するわ」
生活改善をシステム不具合への対応みたいに言う。
「わかりました。じゃあ簡単な報告だけでお願いします」
「ええ、任せてちょうだい」
その台詞が一番信用ならない。
* * *
そして夕方。依頼帰りの冒険者でギルドが一番騒がしい時間帯。
「ナギ。第一回、中間報告よ」
やたら澄んだ声と共に、フランが分厚い手帳を抱えてカウンターに現れた。
「簡単な報告では?」
「かなり削ったわ」
削ってそれか。フランはぱらりと手帳を開き、文字がびっしり書き込まれたページを読み上げる。
「昨夜の就寝時刻、二十三時四十五分。入眠まで四十七分。途中覚醒二回――」
「ストップ」
俺は両手でTの字を作った。
「細かいです。途中覚醒の回数も、疲労感の十段階評価もいりません」
「曖昧な運用は失敗率を上げるわ」
フランが真顔で言い返してくるが、やがてその声が少しだけ小さくなった。
「でも、あなたが見てくれないと……私、自分が正しい状態にあるのかわからないもの」
理屈で固めているが、中身は「自分で決められないから確認してほしい」という切実なSOSだ。
「……わかりました、報告は受け取ります。でも、もう少しざっくりでいいです」
「努力するわ」
フランが手帳を閉じた時、斜め四十五度の定位置から、ジトッとした低い声が飛んできた。
「……何それ」
リゼだ。頬を膨らませ、かなり機嫌が悪い。
「なんで、あいつがナギにそんな細かく報告してるの」
「治療経過報告よ。私の休養管理は現在ナギの基準で運用されているの。だから共有は必要」
俺が止める前に、フランが涼しい顔で答えた。
「必要って何! それ、専属みたいなものじゃないの!?」
リゼが俺の袖をギュッと掴む。
「専属じゃありません」
「でも、寝る時間までナギが関わってる!」
「補助です」
俺の苦しい弁明に、フランが追い打ちをかける。
「少なくとも、朝から居るだけの人よりは目的が明確だわ」
「私は“お水飲んだ”とか可愛い報告してただけだけど!?」
「自己評価が高すぎるわ」
「フラン、煽らない。リゼも剣に触らない」
周囲の冒険者が面白そうにこっちを見始めたので、俺は深く息を吐き、二人にフラットな声で告げた。
「睡眠管理は専属契約ではありません。フランは自分で止まれないのを補助しているだけ。リゼは一人で動ける時間を増やしている最中。競う話じゃないんです」
リゼは唇を尖らせ、フランも納得しきっていない顔だが、ひとまず武器は出なかった。
「……わかったわ。報告の形式は簡易版に修正する」
先に引いたフランが、手帳を抱え直して言う。
「では、今夜また来るわ」
「はい?」
「終了報告を出すために」
「だから終了報告って何ですか」
「今日の活動をどこで切り上げるか、あなたの確認が必要でしょう? あなたが“もう終わりでいい”と言ってくれないと、私の中ではまだ運用中なの」
理屈はわかるが、重すぎる。
「では、後ほど」
フランは止める間もなく優雅に一礼し、踵を返して去っていった。
残された俺と、袖を掴んだままのリゼ。
「……ナギ。終了報告って何」
「俺が聞きたいです」
こころの相談窓口、開設十日目。
俺は最強剣士の帰る場所になりかけていて、天才魔法使いの睡眠終了判定まで任されようとしているらしい。前世だったら、間違いなく業務範囲外だ。




