第87話 胃薬と、お願いの四文字
その日の夕方、俺は宿の屋上にいた。
王都の宿屋には、屋上に小さなテラスがついているところがある。洗濯物を干すための場所らしいが、夕方には誰も来ない。石造りの手すりの向こうに王都の屋根が並び、遠くに王城の尖塔が夕焼けに染まっている。
今日一日の情報を整理するために、一人の時間が欲しかった。ソフィアとフランの研究統合は順調に進んでいる。議会への資料提出の段取りも固まりつつある。ヴァルター公爵の次回面会は三日後。ディアブラの変装は今のところ問題ない。
頭の中で、タスクを一つ一つ並べ替える。プロジェクトマネージャーの仕事だ。カウンセラーの仕事でもある。人の心を扱う仕事は、自分の頭の中が散らかっていてはできない。
ポケットに手を入れた。
胃薬の瓶を振る。音がしない。
空だ。昨日で切れていたのは知っていた。補充する暇がなかった。
「……買いに行かないとな」
独り言が夕風に消えた。
その時、背後で屋上の扉が開いた。
「やっぱりここにいた」
リゼだった。
いつもの軽装ではなく、白いシャツに革のベスト、膝丈のスカート。木剣は持っていない。買い物にでも行くような、年相応の格好だった。
「どうしました」
「ナギが部屋にいないから探した。フランは『屋上の確率が七十二.四パーセント』って言ってた」
「正確ですね」
「ナギ、疲れてる時は高いところに行く癖があるって。フランがデータ取ってた」
あの女、俺の行動パターンまで解析しているのか。
リゼが手すりに寄りかかり、俺の隣に並んだ。半歩の距離。いつもの距離だ。
しばらく二人で、夕焼けの王都を眺めていた。
屋根の向こうに煙突が並び、夕餉の煙が立ち上っている。大聖堂の鐘が六時を告げた。鳩が飛び立ち、夕日の中を横切っていく。
「……きれいだね」
リゼが言った。
「ええ」
「ねえ、ナギ」
「はい」
「昔はさ、こういうの全然興味なかった」
リゼが手すりに頬杖をついた。銀髪が夕風に揺れている。
「一人で剣を振ってればよかった。きれいなものを見ても、美味しいものを食べても、どうでもよかった。隣に誰もいなかったから」
「…………」
「今は違うよ」
リゼが俺を見た。夕日が、銀色の瞳を赤く染めている。
「こうやってナギの隣で夕焼け見てるの、すごく好き」
まっすぐだった。いつも通り、真っ直ぐに打ってくる。
俺の鼓動が一拍早くなった。カウンセラーの冷静さが「状況分析だ」と言い訳をしたが、嘘だ。
「……ありがとうございます」
「あー、また『ありがとうございます』だ」
リゼがむっと頬を膨らませた。
「それ、仕事の言葉でしょ。今はナギの仕事の時間じゃないよ」
「……すみません」
「謝るのも仕事の言葉」
逃げ場がない。
「……俺も、好きです。この景色」
「景色じゃなくてあたしの話してるんだけど」
「わかってます」
「わかってるなら!」
「わかってます。わかってるから、難しいんです」
リゼが口を閉じた。
数秒の沈黙。夕風だけが吹いている。
「……うん。今はそれでいい」
リゼが笑った。少し寂しそうで、でも穏やかな笑顔だった。以前の彼女なら、ここで「見捨てないで」と縋りついてきただろう。今は、待てるようになっている。
待てることは、強さだ。
* * *
「あ、そうだ。本題」
リゼが急に声のトーンを変えた。作戦を思い出した兵士のような、切り替えの早さ。
「本題?」
「うん。ナギ、胃薬切れてるでしょ」
心臓が跳ねた。別の意味で。
「……なぜわかるんですか」
「昨日の夜、ナギの部屋の前を通った時。ポケットの瓶を振る音がしなかった。いつもはカラカラ鳴るのに」
「…………」
「中身が空ってこと。で、今日も補充してない。さっき部屋を見た時、机の上にも鞄の中にも新しい瓶がなかった」
「……部屋を見たんですか」
「探したって言ったでしょ」
Aランク冒険者の索敵能力を、俺の生活必需品の在庫管理に使わないでほしい。
リゼが懐から、小さな紙袋を取り出した。
「はい」
中身は、瓶だった。胃薬の瓶。しかも、安物ではない。王都の調合薬房で扱っている上等のやつだ。
「リゼ、これは——」
「あたしが買ってきた。今日の午後、アリスの挨拶回りに付き合った帰りに寄ったの」
「いくらでしたか。返します」
「いらない」
リゼの声が、静かになった。夕焼けの光の中で、彼女の横顔が少し翳った。
「ナギがさ」
「はい」
「自分で全部やろうとするの、たまに寂しいんだよね」
風が吹いた。リゼの銀髪が揺れ、夕日の粒を散らした。
「胃薬も自分で買う。疲れても自分で何とかする。誰かに心配されても『大丈夫です』って笑う」
「…………」
「あたしがさ、見捨てられるのが怖かったみたいに。ナギは、頼るのが怖いんでしょ」
言葉が刺さった。
カウンセラーの防壁を、するりとすり抜けて。
リゼの言葉は、いつもそうだ。理屈ではない。エビデンスでもない。ただ真っ直ぐに、芯を突いてくる。剣のように。
「あたしはナギに助けてもらった。見捨てないでって泣いて、ナギは見捨てなかった」
「……ええ」
「だから今度は、あたしがナギを助けたい」
リゼが胃薬の瓶を、両手で俺に差し出した。
「でもね、ナギが何も頼んでくれないと、助けられないんだよ」
俺は瓶を見つめた。
ガラスの中で、白い錠剤がカラカラと揺れている。銀貨二枚分の、ただの胃薬だ。
だが、それを「お願いします」と受け取ることが、俺にはひどく難しかった。
自分が救われる側になることへの、根深い抵抗。前世から引きずっている呪い。他人の痛みを拾うのは得意なのに、自分の弱さを差し出すことが——
「ナギ」
リゼが瓶を持ったまま、一歩近づいた。半歩ではなく、一歩。
「受付で相談に来た人に、いつも言ってたでしょ。『一人で抱えすぎてたんですよ』って」
「……言ってました」
「あれ、自分には言えないの?」
完全に、刺さった。
自分が他人に向けてきた言葉が、そのまま返ってきた。鏡のように。
「……俺は」
声が掠れた。
「俺は、人に頼り方を知らないんです。前の世界でも、ずっとそうだった。相談員は聞く側で、差し出す側で。受け取る側に回ったことがなかった」
「うん」
「だから、その。こういう時、何て言えばいいのか——」
「『お願い』でいいよ」
リゼが笑った。
簡単なことのように。実際、言葉にすれば簡単なことだ。たった四文字。
「……じゃあ」
俺は深呼吸した。
ポケットの中で、空の瓶に指が触れた。からっぽの感触。目の前には、リゼが差し出す新しい瓶がある。その数センチの距離が、前世から数えて何十年ぶんの重さだった。
「お願いします」
リゼの顔が、ぱっと咲いた。
「うんっ!」
胃薬の瓶が、リゼの手から俺の手に渡った。ガラスが触れ合う小さな音。その向こうに、リゼの指先が温かかった。
「大事に飲んでね。なくなったらまた買ってあげるから」
「……ありがとう」
今度は「ございます」をつけなかった。
リゼが目を丸くし、それからにっと笑った。
「今の、仕事の言葉じゃなかった」
「……ええ。仕事じゃないです」
「うん。わかる」
リゼが嬉しそうに俯いた。銀髪の隙間から、赤い耳が見えた。
* * *
夕日が沈みかけていた。
屋上のテラスに、二人分の影が長く伸びている。
そろそろ降りないと、全員に心配される。いや、もう心配されているだろう。フランのデータによれば、俺の屋上滞在が三十分を超えると、ルナが索敵を開始する確率は九十八パーセントらしい。
「降りましょうか」
「うん」
リゼが手すりから背を離し、屋上の扉に向かった。
その途中で、足を止めた。
振り返らずに。
「ナギ」
「はい」
「今度はちゃんと二人きりで、デートしたいな」
小さな声だった。夕風にさらわれそうな声。
「今日みたいに屋上で話すのもいいけど、もっとこう。お店に入って、ゆっくりご飯食べて。普通の女の子がするみたいなやつ」
「……考えておきます」
「えびでんすなしの口約束だけど」
リゼがようやく振り返った。
夕日の最後の光が、銀髪を赤く染めていた。目が少し潤んでいるように見えたが、泣いてはいない。泣かなくなったのだ、この人は。待てるようになった。
「信じるから」
その言葉は、かつて俺がリゼに言ったものと同じだった。
『見捨てません。約束します』。
あの時、血まみれの受付カウンターの前で交わした約束。口約束。エビデンスなし。だが、俺は守った。リゼは信じた。
今度は、逆だ。
「……守りますよ。その約束」
リゼが笑った。
泣いていた少女ではない。縋りついていた少女でもない。
自分の足で立ち、待つことを選び、それでもなお俺の隣にいたいと願う、一人の女の子の笑顔だった。
* * *
階段を降りて一階のロビーに戻ると、案の定だった。
「ナギお兄さん発見ーっ!」
ロビーのソファに陣取っていたルゥが飛び上がった。
「偶然ね。私もちょうどロビーにいたわ」
フランが本から顔を上げた。手元の羊皮紙に何やらメモを取っている。偶然ロビーにいる人間は、メモ帳を用意しない。
「先生! 屋上で二人きりで何してたんですか!? 浮気ですか!?」
アリスが階段の踊り場から顔を出した。聖剣を背負ったまま待ち伏せしていたらしい。
「ナギ様……屋上のお風通しは、お体に障りますわ。温かいハーブティーをご用意しておりましたのに」
セラフィーナが厨房の方から、湯気の立つカップを持って現れた。いつから淹れていたのか。
そして。
「……遅い」
ロビーの最も暗い隅から、低い声。
黒いフード。赤い瞳。壁と一体化するように立っているディアブラ。
通りかかった宿の従業員が、ディアブラの姿を見て小さく悲鳴を上げ、そっと引き返していくのが視界の端に映った。
「助手が上司より遅く戻るのは、業務上の問題だ」
「助手設定、都合のいい時だけ使いますね」
「ふん」
全員集合。
リゼが一歩前に出た。
「えびでんす!」
全員の視線がリゼに集まった。
「今、ナギと屋上にいたのは、淑女協定のローテーション枠消化後の自由時間。協定上、禁止されていない」
フランが羊皮紙をめくった。
「……確認するわ。v2.0の条文に、ローテーション枠消化後の自由時間における二者間の接触制限は……」
ページをめくる。
「……書いてないわ」
「でしょ!」
「ええ。v2.0の盲点ね。自由時間における二者間デートの条項が未整備だわ」
「じゃあセーフ!」
「グレーよ。次回の協定改訂会議で条文化する必要があるわね。全員に等しく適用される形で」
「「「「賛成」」」」
ルゥ、セラフィーナ、アリス、ディアブラが即座に乗った。
「ちょっと! あたしが見つけた盲点なのに、全員に適用されるの!?」
「平等は民主主義の基本よ」
「ナギ、何か言って!」
俺はロビーの天井を見上げた。
ポケットの中で、リゼがくれた胃薬の瓶がカラカラと鳴った。
さっそく一錠、飲もう。




