第86話 世界の残り時間
■まえがき
4/29前後編だった話を整理し話数を変更しました。内容に変更はありません。
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握手の余韻が消える前に、フランが動いた。
「感動的だけれど、ここからが本番よ」
フランがテーブルの上に新しい羊皮紙を広げた。昨夜の追加検証結果だ。
「ディアブラ。原初魔素の結晶が校正基準なら、第四系列のデータ精度は従来の推定を大幅に上回る。再計算が必要だわ」
「ああ。その通りだ」
ディアブラがテーブルに歩み寄り、フランの隣に立った。フードを下ろしたままの白い髪と小さな角が、魔灯の光を受けている。
三人がテーブルを囲んだ。ソフィアが壁の図表を指差し、フランが数式を書き、ディアブラが観測データの数値を読み上げる。
俺は椅子に座ったまま、三人の議論を見守った。
学術的な内容は追えない。だが、空気の変化はわかる。
最初は三者がそれぞれの言語で話していた。ソフィアは間接指標の用語、フランは魔法理論の体系、ディアブラは数百年の実地観測に基づく感覚。
だが十分もしないうちに、三つの言語が一つに溶け始めた。データという共通言語が、種族も立場も超えて三人を繋いでいる。
ディアブラの声が、変わっていた。
玉座の間で部下に命じる声でもなく、俺のカウンセリングで虚勢を張る声でもない。研究者としての声だった。正確で、慎重で、データに対して誠実な声。
この人は本来、こういう人だったのかもしれない。
力で世界を変えようとする前の、知識で世界を理解しようとしていた頃の声。
一時間が経った。
フランがペンを止めた。ソフィアも同時にペンを置いた。ディアブラが腕を組んで、完成した図表を見下ろした。
研究室の壁に、新しい図表が三枚追加されていた。ソフィアの間接指標、フランの魔法理論、ディアブラの直接観測データ。三つを統合した、世界初の魔脈総合解析図。
「……結論を述べます」
ソフィアの声が、硬かった。
「魔脈の損傷は、約五百年前の大断絶戦争が起点です。両陣営が使用した禁忌の魔法兵器が、深層魔脈を物理的に傷つけた。データがそれを裏付けています」
ディアブラが引き継いだ。
「以降、損傷部位から魔素が漏出し続けている。傷口から血が流れ続けているのと同じだ。五百年間、一度も止まっていない」
フランが数式を指差した。
「原初魔素基準で校正し直した結果、魔素の総量は五百年間で約四十パーセント減少している。減少速度は加速傾向にあり、このまま推移した場合——」
「三百年から四百年で、地表の魔法行使に壊滅的な影響が出ます」
ソフィアが続けた。
「回復魔法、防衛魔法、農業魔法、通信魔法。文明を支える全ての魔法の出力が、現在の半分以下に低下する。実質的な魔法文明の崩壊です」
重い沈黙が、研究室に落ちた。
「さらに」
ソフィアが声を落とした。
「魔物の異常発生。近年、辺境で報告が増えている魔物の大量出現は、魔脈損傷の症状です。損傷部位から漏出した魔素が地表で凝縮し、魔物を生成している。魔物が増えているのは、世界が壊れかけている証拠なんです」
「それを修復する方法は?」
俺が聞いた。
三人の視線が交差した。
「理論上は、一つだけ」
ソフィアが言った。
「全種族の魔素波長の同期です」
「どういうことですか」
「人間、魔族、エルフ、ドワーフ。それぞれの種族が持つ固有の魔素波長が異なるため、単独の種族の魔力では損傷部位に干渉できません。全種族の波長を揃えて初めて、深層魔脈の修復に必要な共鳴が起きる」
「つまり——」
「全種族が協力しなければ、修復できない」
ディアブラが低い声で言った。
「私はこれを、ずっと伝えようとしていた」
その声には、何百年分の疲労が詰まっていた。
「人間の王に。エルフの長老に。ドワーフの族長に。書簡を送り、使者を出し、会談を申し入れた。全て拒絶された。魔王の言葉など、誰も信じなかった」
「脅しだと思われた」
「ああ。『魔脈が枯渇するから協力しろ』は、人間の耳には『従わなければ世界が滅ぶぞ』という脅迫にしか聞こえなかったのだろう」
ディアブラが自分の拳を見つめた。
「だから、力で統一しようとした。協力させられないなら、従わせればいいと。……結果は、お前が知っている通りだ」
沈黙。
俺は立ち上がった。
「このデータを、すぐに貴族議会に提出すべきでしょうか」
フランが即座に頷いた。
「当然よ。これは人類の存亡に関わるデータだわ。早急に——」
「しません」
フランの言葉を、俺が遮った。
三人が俺を見た。
「このデータは、今の段階では公開しません」
「……なぜ?」
フランの声が、冷たくなった。
「世界が滅びるかもしれないデータを握り潰すというの? 非合理的よ」
「握り潰すんじゃない。タイミングの問題です」
俺は壁に貼られた魔脈総合解析図を見た。三人の研究成果。世界の真実。
「恐怖で人を動かすのは——」
一拍、間を置いた。
「ディアブラが失敗した手段と同じです」
部屋の隅で、ディアブラの肩がびくりと動いた。
俺は彼女を見なかった。だが、確実に彼女に向けて言っていた。
「『魔脈が枯渇する、だから協力しろ』。正しい。データも正しい。でも、それを突きつけて従わせるのは、力の代わりにデータを使った支配です。形が変わっただけで、本質は同じだ」
「ナギ」
フランが一歩前に出た。
「感情論で判断しないで。データは事実よ。事実を提示することと、脅迫は——」
「違います。受け取る側の心の準備ができていなければ、事実は凶器になる」
俺はフランの目を見た。
「ヴァルター公爵を覚えていますか」
フランが口を噤んだ。
「あの人の怒りは、十二年分の悲しみの上に積み重なっている。魔族が信用できない理由がある。家族を殺された理由がある。そこに『魔脈が枯渇するから協力しろ』と突きつけたら、どうなりますか」
「…………」
「データは正しい。だがデータだけでは、あの人の心は動かない。むしろ、また拒絶される。『魔族の脅しだ』と。……ディアブラが五百年前に経験したのと、全く同じことが起きる」
研究室が静まった。
「このデータは武器じゃない」
俺は、テーブルの上の羊皮紙に手を置いた。
「全種族が同じテーブルに着いた後で、共有するものです。信頼が先。データは後。順番を間違えたら、何百年分の研究が全部無駄になる」
フランが唇を噛んだ。
「……非合理的よ。信頼の構築には時間がかかる。その間にも魔脈は——」
「わかっています。だから急いでいるんです。ただし、急ぐ方法を間違えない」
フランは数秒間、俺を見つめた。
「……あなたの判断は、データに基づいていないわ」
「ええ。心に基づいています」
「…………」
フランが目を閉じ、深く息を吐いた。
「……前にも言ったわね、あなた。『理屈で説得しても心がついてこなければまた壊れる』と。それと同じことを言っているのね」
「はい」
「……わかったわ。条件付きで従う。ただし、信頼構築のタイムリミットを設定してちょうだい。無期限は認めない」
「三ヶ月。貴族議会の継続審議の期限に合わせます」
「了承するわ」
ソフィアは議論に口を挟まなかった。ただ、俺とフランのやり取りを、研究者の目で観察していた。
ディアブラは、テーブルの端に立ったまま動かなかった。
俺が「恐怖で人を動かすのはディアブラが失敗した手段と同じだ」と言った瞬間から、表情が凍りついている。
自分の名前が出た。この場で、この文脈で。ナギが自分を見ずに、しかし確実に自分に向けて言った。
それは、批判ではなかった。ナギの声に怒りはなかった。
だからこそ、刺さった。
* * *
ソフィアの研究室を出たのは、日が傾いた頃だった。
フランは先に宿へ帰った。追加の計算作業があるらしい。ソフィアは研究室に残り、データの整理を続けている。「明日も来ます」と言ったら、今度は「来なくていい」とは言わなかった。代わりに「サンドイッチは必要ありません」と言った。翌朝、アリスに作ってもらおう。
宿への帰り道。
ディアブラが、俺の半歩後ろを歩いていた。フードを被り直した横顔は、街灯の橙色の光に照らされている。
しばらく無言だった。
「……ナギ」
「はい」
「今日、お前が言ったこと」
ディアブラの声は低く、静かだった。怒りはない。だが、重い。
「恐怖で人を動かすのは、私が失敗した手段と同じだと」
「はい」
「あの場で、私の名前を出した」
「出しました」
「……なぜだ」
「あなたに聞いてほしかったからです。ソフィアやフランにではなく」
ディアブラが足を止めた。俺も止まった。
王都の裏路地。人通りはない。街灯の光が二人の影を石畳に落としている。
「お前は、私が失敗した理由を知っているのだな」
「知っているというより、あなたが自分で話してくれました。玉座の間で」
「……ああ」
「力で世界を統一しようとした。恐怖で従わせようとした。対話を諦めた。結果、誰もついてこなかった」
「…………」
「データも同じです。正しいデータを突きつけて従わせるのは、力の代わりにデータを使っているだけだ。相手の心が準備できていないうちに真実を押しつければ、また拒絶される。あなたが五百年間経験してきたことの繰り返しです」
ディアブラが拳を握った。ローブの下で、白くなるほど強く。
「……わかっている」
「はい」
「わかっているから……苦しいのだ」
声が、掠れた。
「私は正しかった。データも正しかった。だが方法が間違っていた。それは認めた。お前のカウンセリングで認めた。だが——」
ディアブラが俺を見た。赤い瞳に、街灯の光が反射している。
「お前の方法は、正しいのか」
「…………」
「信頼を先に。データは後に。それで、間に合うのか。三百年で世界が壊れるのだぞ。お前の言う信頼の構築に、何十年もかかったらどうする」
正当な問いだった。
俺は即答できなかった。
「……わかりません」
「わからない、だと?」
「はい。俺の方法が正しいかどうかは、やってみなければわからない。ただ——」
俺はディアブラの目を見た。
「少なくとも、あなたが試した方法では失敗した。五百年かけて。なら、別の方法を試す価値はある」
「別の方法が、成功する保証は?」
「ありません」
「……保証がないのに、やるのか」
「カウンセリングに保証はないんです。人の心は、データのように予測できない。やってみて、失敗して、修正して、またやる。その繰り返しです」
「…………PDCAか」
「本物のPDCAです。毒でも死でも呪いでもない方の」
ディアブラが、ほんの一瞬だけ口元を緩めた。自嘲ではない。もっと柔らかい、疲れた笑いだった。
「……お前に会う前の私なら、こんな悠長な方法は一蹴していただろう」
「今は?」
「今は……」
ディアブラが空を見上げた。王都の夜空に、星が瞬いている。魔王城からは見えなかった星だ。
「お前を信じてみようと思っている。根拠はない。エビデンスもない」
「それで十分です」
「……口約束だがな」
「口約束で世界を救いましょう」
「馬鹿な男だ」
「よく言われます」
二人で歩き出した。
宿の灯りが見えてきた頃、ディアブラが小さく呟いた。
「……あの研究者。ソフィアという女」
「はい」
「握手をしてくれた」
「ええ」
「対等な研究者として。私がデータを集めたことを、尊敬に値すると言った」
「…………」
「あれは、数百年で初めてだった。種族ではなく、仕事で評価されたのは」
ディアブラの声が、微かに震えた。
「五百年分のデータを集めた意味が、今日やっとわかった気がする。力で世界を変えるためではなく、いつか誰かに届けるためだったのだと」
俺は何も言わなかった。
言う必要がなかった。
宿の扉を開けると、案の定、ヒロインたちが総出で待ち構えていた。
「遅い! ナギ、また誰かのカウンセリングしてたでしょ!」
「お兄さんのご飯、冷めちゃうよー」
「ナギ様のお席は温めてありますわ」
「先生! 今日のサンドイッチの感想を聞かせてください!」
騒がしい。
だが、温かい。
ディアブラが集団の最後尾に黙って加わり、食堂へ向かう一行の中に自然と紛れていった。
フードの下で、赤い瞳がいつもより少しだけ穏やかに光っていた。




