第85話 魔王の正体と、研究者の握手
ソフィアが涙を拭い終え、研究者の顔に戻った頃。
研究室の扉が、ノックもなしに開いた。
「失礼するわ」
濃紺のローブ。金糸の髪。宝石の埋め込まれた杖。
フランが、堂々と研究室に踏み込んできた。
「……誰ですか。アポイントはありませんが」
ソフィアが警戒の目を向けた。フランはそれを完全に無視し、テーブルの上に広げられた羊皮紙の束に目を留めた。
「ナギ、これが例のデータね」
「フラン、勝手に入ってこないでください」
「急を要する案件よ。昨夜、転写した複製の方を検証していたら、第三系列のデータに興味深い異常値を見つけたの。原本と照合したくて来たわ」
フランが遠慮なくテーブルに歩み寄り、羊皮紙の束を手に取った。
「ちょっと! それは私が読んでいるところです!」
ソフィアが立ち上がった。
「あら。あなたがソフィアね。王立魔法学院を追放された魔脈研究者」
「……人の経歴を初対面で並べるのは失礼ではありませんか」
「事実よ。事実に失礼も何もないわ」
フランがソフィアを正面から見据えた。
「私は氷炎の才媛フラン。元宮廷魔導師候補。現在はナギの……チームの戦術担当よ」
「氷炎の才媛……。名前は聞いたことがあります。学院では天才と呼ばれていたとか」
「天才と呼ばれていたわ。過去形ね。今は六十点で合格を出せる天才よ」
ソフィアが眉をひそめた。「六十点で合格」の意味がわからないらしい。
フランは構わず、羊皮紙の一枚を指差した。
「この第三系列。深層魔脈の流速データだけど、三百年前にノイズのような不規則変動がある。これ、あなたの間接指標にも対応するデータはある?」
ソフィアの目が変わった。
警戒が消え、研究者のスイッチが入った。
「……あります。三百年前の地表魔素濃度データに、原因不明の急速な回復期が存在します。通常の自然回復では説明できない速度で、一時的に魔素濃度が上昇している」
「それよ。この直接観測データでも、同時期に流速が異常に増加している。自然現象ではあり得ないレベルで。つまり——」
「何らかの外的要因で、魔脈が一時的に活性化した可能性がある」
「ええ。そしてその後、反動で流速がさらに低下している。まるで——」
「無理やり搾り出した後の枯渇のように」
二人の視線が交差した。同じ結論に、別々のルートからたどり着いていた。
「……あなた、面白いわね」
フランが初めて、微かに笑った。
「あなたもです。ギルドの受付の仲間にしては、知性が高すぎる」
二人はテーブルを挟んで向かい合い、データの議論を始めた。五分もしないうちに、声のテンションが上がり、十分後には二人とも立ち上がって壁の図表を指差しながら早口で言い合っていた。
だが、三十分ほど経った頃、議論が壁にぶつかった。
「この第四系列の観測データ」
ソフィアが羊皮紙の一枚を指差した。
「深層魔脈の分岐点における魔素波長の周波数特性が記録されている。極めて重要なデータだけれど、観測手法が記載されていない。どうやって測定したの? 人間の技術では、深層の波長特性を直接観測する方法は存在しないはず」
フランが部屋の隅に視線を向けた。
「ディアさん。このデータの資料管理者はあなたよね。観測手法について補足できる?」
ディアブラが一瞬、硬直した。
フードの奥の赤い瞳が、俺を見た。
俺は小さく頷いた。
ディアブラが壁から背を離し、テーブルに歩み寄った。フランとソフィアの間に立ち、第四系列のデータに指を置いた。
「この観測は、地表からではなく、深層魔脈に直接アクセスできる地点で行っている」
低い声だった。助手の「ディア」の声ではない。数百年の知識を持つ者の声だ。
「具体的には、魔王城の地下に存在する魔脈露頭。地表から深層魔脈が直接露出している、世界でも数カ所しかない観測点。人間の技術では到達できない。魔族の耐魔素体質がなければ、近づくだけで魔素中毒で死ぬ」
ソフィアの動きが止まった。
眼鏡の奥の目が、ディアブラに向いた。
「……魔王城」
「ああ」
「魔族の……耐魔素体質」
ソフィアの瞳が、計算式を追う時と同じ速度で動いた。データポイントを一つずつ接続していく。魔王城。魔族。数百年分の縦断データ。直接観測技術。
結論に到達するまで、五秒。
「……あなた」
ソフィアの声が、静かになった。
「このデータを集めたのは、あなた自身ですね」
ディアブラが動かない。
「五百年分の連続観測。魔王城の地下からのアクセス。魔族としての耐性。そしてこの筆跡——」
ソフィアが観測記録の端に走る走り書きを指差した。
「この走り書き、さっきあなたが補足メモを書いた時の筆跡と同じです」
研究者の目は、誤魔化せない。
ディアブラがフードに手をかけた。
俺を見た。フランを見た。
フランが小さく頷いた。
フードが、ゆっくりと下ろされた。
紫黒の髪が零れ落ちた。額の小さな角が、魔灯の青白い光を受けて淡く光った。灰色の瞳が、ソフィアを見つめていた。
「……魔王ディアブラだ」
研究室の空気が張り詰めた。
フランが杖に手をかけている。万が一の備え。俺も身構えた。
ソフィアがどう反応するか。恐怖か。怒りか。拒絶か。
ソフィアは数秒間、ディアブラの顔を凝視した。
角を見た。赤い瞳を見た。白い髪を見た。
そして、視線を下に落とした。
テーブルの上の、第四系列の観測データに。
「……第四系列の測定点は、魔脈露頭のどの位置ですか。深度と方位角を教えてください」
俺とフランが同時に脱力した。
「……驚かないのですか」
ディアブラが、呆然とした声で聞いた。
「驚いていますよ。あなたが魔王であることにではなく、このデータの精度にです」
ソフィアが観測記録をめくりながら、淡々と続けた。
「五百年間、単独で縦断観測を維持した。観測点の校正も定期的に行っている。欠測期間がほぼない。これは……一人の研究者として、尊敬に値します」
「…………」
「あなたが魔王であることは、このデータの価値を一切損ないません。むしろ、魔族の生理機能を持つ観測者が直接測定したという事実は、データの信頼性を飛躍的に高めます」
ソフィアが顔を上げた。
「ですから、測定点の深度と方位角を。それから、校正に使用した基準魔素の種別も教えていただけると」
ディアブラは、しばらく言葉を失っていた。
拒絶されなかった。蔑まれなかった。「化け物」とも「敵」とも呼ばれなかった。
ただ、一人の観測者として、データの詳細を求められた。
十分前、ソフィアは「同じことを考えていた人がいた」と泣いた。一人じゃなかったと。
その相手が、目の前にいた。
数百年の孤独の中で、誰にも理解されずにデータを集め続けた魔王。数年の孤独の中で、誰にも信じてもらえずに間接指標を積み上げ続けた研究者。
同じ真実を、別々の場所で、一人ずつ見ていた。
「……深度は地表から約三百メートル。方位角は魔脈の主流方向に対して垂直。校正基準は、原初魔素の純粋結晶を使用している」
ディアブラの声が、微かに震えていた。
「原初魔素の結晶……!」
ソフィアの目が輝いた。涙の跡が残る頬に、純粋な学術的興奮の光が灯る。
「それが校正基準なら、このデータの精度は私の推定をさらに上回る」
ソフィアが立ち上がり、ディアブラの正面に立った。
眼鏡越しに、赤い瞳を真っ直ぐに見据える。
「ディアブラさん。あなたは五百年間、一人でこのデータを守り続けた。私はたった三年で心が折れかけた。……あなたの孤独は、私の比ではなかったはずです」
「…………」
「先ほど、私は『一人じゃなかった』と泣きました。でも本当に一人だったのは、あなたの方だ」
ディアブラの赤い瞳が、揺れた。
何か言おうとして、唇が動いた。だが言葉にならなかった。
代わりに、ソフィアが右手を差し出した。
「共同研究者として、よろしくお願いします。……魔王であろうと、データを持つ者は対等な研究者です」
ディアブラが、その手を見つめた。
差し出された手。何百年ぶりだろう。敵意でも恐怖でもなく、対等な敬意を持って差し出された手は。
ディアブラが、ゆっくりとソフィアの手を握った。
「……よろしく頼む」
掠れた声だった。
部屋の隅で、俺は黙ってその握手を見ていた。
研究者と魔王。人間と魔族。
種族の壁を越えた最初の握手は、政治の場ではなく、廃墟の研究室で交わされた。




