第84話 五百年分のデータと、「一人じゃなかった」
ソフィアの研究室を訪ねるのは、二度目だった。
蔦に覆われた建物の前に立ち、扉を叩く。昨日と同じ錆びた取っ手。同じ薬品の匂い。
だが、今日は違うものを三つ持ってきた。
一つ目。アリスが早朝から作った手作りのサンドイッチ。「先生の行き先に栄養が足りない人がいるって聞きました! 勇者の愛情弁当です!」と渡された時、パンの端にフリルのような飾り切りが施されていた。勇者のこだわりは食にも及ぶらしい。
二つ目。革の書類鞄。中身は、ディアブラが魔王城の書庫から持ち出した魔脈観測記録の写し。五百年分の縦断データ。フランが昨夜、転写魔法で複製を作った。
三つ目。ディアブラ本人。黒いフードを深くかぶり、俺の後ろに立っている。
「……本当に、私が行く必要があるのか」
ディアブラが低い声で呟いた。
「あなたのデータです。提供者が立ち会うのは自然なことです」
「素性を明かせないのにか」
「助手のディアさんが、資料の管理者として同席する。まずはそれだけです」
「まずは、か。……含みのある言い方だな」
「状況次第です」
「…………ふん」
ディアブラがフードの位置を直した。フランの三重の魔力遮断とセラフィーナの聖属性コーティングは、今朝も上書き済みだ。
扉を叩いた。
昨日より早く、鍵が開いた。
「……本当に来るなんて」
隙間から覗くソフィアの目が、昨日より少しだけ柔らかかった。ほんの少しだけ。
「約束しましたから。あと、これを」
俺はアリスのサンドイッチの包みを差し出した。
ソフィアの目が包みと俺の顔を往復した。
「……施しは受けません」
「施しではないです。俺の仲間が作った弁当の余りです」
「余り」
「はい。食べきれなかったので」
嘘だ。アリスが「先生のお友達のぶん!」と別に作ったものだ。だが、「あなたのために作った」と言えば拒否される。「余り物」なら、受け取るハードルが下がる。カウンセリングの小技だ。
ソフィアが包みを受け取った。受け取ってから、少しだけ匂いを嗅いだ。焼きたてのパンと、チーズと、ハーブの香り。
ソフィアの腹が、小さく鳴った。
沈黙。
「…………聞こえました?」
「聞こえてません」
「嘘をつかないでください。カウンセラーなのでしょう」
「カウンセラーは嘘をつきませんが、聞こえなかったことにする能力は持っています」
ソフィアが俺を睨んだ。だが、その手はしっかりと包みを握ったまま離さなかった。
「……中で食べます。立ち話は非効率ですから」
扉が、昨日より少し広く開いた。
* * *
研究室の惨状は、昨日とほぼ変わっていなかった。
ただ一つだけ違うのは、昨日俺が論文の山の隙間に置いていったりんごが、机の端に移動していたことだ。芯だけが残っている。食べたのだ。
ソフィアは俺の視線に気づき、すかさず芯をゴミ箱に投げ入れた。
部屋の隅で、ディアブラのフードが微かに動いた。りんごの芯を目で追っている。自分が選んだりんごが、見知らぬ研究者の命を一晩繋いでいたことに、気づいたのだろう。
「……あれは、研究の合間に栄養補給が必要だと判断しただけです。あなたの差し入れに感謝しているわけではありません」
「わかりました」
「その『わかっていますよ』という顔をやめてください。何か見透かされている気がして不快です」
カウンセラーの職業病だ。申し訳ない。
ソフィアがサンドイッチの包みを開け、一口齧った。咀嚼が止まった。
「……美味しい」
小さな声だった。何年も「美味しい」という言葉を口にしていなかった人の、錆びた感想。
「作ったのは勇者です」
「勇者がサンドイッチを?」
「フリル付きの勇者なので」
「……意味がわかりません」
ソフィアはわからないまま、二口目を齧った。三口目。四口目。速い。相当空腹だったのだ。
サンドイッチを半分食べたところで、ソフィアが手を止めた。
「……それで。今日は何を聞きたいのですか」
「昨日の続きを。それと、今日は一つ、お見せしたいものがあります」
「見せたいもの?」
俺は革の鞄を開き、羊皮紙の束をテーブルに置いた。
黄ばんだ紙。数百年の歳月を経た古い記録。だが、そこに記された数値と図表は、驚くほど精密だった。
ソフィアの目が、一瞬で変わった。
サンドイッチを置き、眼鏡を押し上げ、身を乗り出した。
「これは……」
「魔脈の観測記録です。約五百年分の縦断データ。深層魔脈の流量、魔素濃度、地表との相関」
「五百年分の……直接観測データ……?」
ソフィアの声が震えていた。
「人間側にはこの技術がないはずです。誰が、どうやって……」
「それは、このデータの提供者に直接聞いてもらう方がいいかもしれません。まずはデータを見てください」
ソフィアの手が、羊皮紙の束に伸びた。
最初の一枚を手に取った瞬間、指が震えた。
二枚目。三枚目。ページをめくる速度が上がっていく。目が走る。計算式を追い、数値を照合し、図表を読み解いている。
俺には追えない速度だった。この人の頭脳は、データを前にした瞬間、常人とは別の回転数で動く。
「……これは」
ソフィアが十枚目で手を止めた。
「私の間接指標による推定値と……このデータの直接観測値が……」
「一致しますか」
「一致どころではありません」
ソフィアの声が掠れた。
「私が三年かけて間接指標から推定した値と、この直接観測データの値が、誤差二パーセント以内で一致している。これは……私の手法が正しかったことの、決定的な裏付けです」
ソフィアが残りのページを捲り始めた。もう手は震えていなかった。研究者の手になっていた。正確で、速く、迷いがない。
だが、目は潤んでいた。
「さらに……ここ。この二百年前の急激な流量低下。私が遺跡の残留魔力から推定した変曲点と、完全に一致します。私のデータでは証拠が弱くて、学院に信じてもらえなかった部分です」
「……」
「ここも。百五十年前の地表魔素濃度の異常。私は農作物の魔法耐性データからこの時期に何かが起きたと推定していましたが、直接的な根拠がなかった。それが、ここに書いてある」
ソフィアが羊皮紙の束を胸に抱いた。
論文を抱くようにではない。もっと切実な、失くしたものを見つけた人の抱き方だった。
「私の研究に欠けていたピースが……全部、ここにある」
声が震えていた。
「私がいくら計算しても埋められなかった空白が。間接指標だけでは証明できなかった仮説が。全て、このデータで裏付けられる」
ソフィアが顔を上げた。
眼鏡の奥の目は、真っ赤だった。
「これを集めた人は……私と同じことを考えていたのですね。魔脈が減っていると。世界が少しずつ変わっていると」
「……ええ」
「私より、ずっと前から」
ソフィアの声が、ついに途切れた。
「一人じゃ、なかった……」
涙が、眼鏡のレンズを伝って落ちた。
何年も一人で、誰にも信じてもらえないまま、正しいと信じた研究を続けてきた人間が、初めて「自分以外にも同じことを考えていた存在がいた」と知った瞬間の涙だった。
俺はソフィアの前に座り、静かに言った。
「ソフィアさん。あなたの研究は正しかった。それは今日、証明されました」
「……」
「でも、一つだけ。正しいことを言って誰にも信じてもらえなかった苦しみは、研究の正しさとは別の問題です」
ソフィアが涙の滲んだ目で俺を見た。
「あなたが追放されたのは、研究が間違っていたからではない。世界が、あなたの真実を受け入れる準備ができていなかっただけです」
「…………」
「正しかったから孤立した。正しかったから焚書された。正しかったから追放された。あなたは間違っていなかった。ただ、早すぎたんです」
「……今は?」
「今は、準備ができつつあります。少なくとも、あなたの研究を必要としている人間がここにいる」
ソフィアが鼻を啜り、眼鏡を外して袖で拭いた。
「……サンドイッチ、残りは後で食べます」
「はい」
「栄養の摂取が研究の継続に不可欠であることは、認めます」
「それだけで十分です」




