第83話 ポーションの匂いと、Aランクの鼻
一時間が過ぎた頃、ソフィアが突然黙った。
「…………あなた」
「はい」
「全然わかってないでしょう」
……後半はかなり怪しかった。
「正直に言います。計算式の部分は全くわかりません」
「でしょうね。あれは学院の教授でも三人に一人しか追えないレベルです」
「すみません」
「……でも」
ソフィアが眼鏡を外し、レンズを白衣の裾で拭いた。手が微かに震えていた。
「でも?」
「あなたは、一時間も聞いていた」
ソフィアがレンズ越しに俺を見た。
「学院の査読委員は十分で打ち切った。教団の審問官は五分で席を立った。あなたは……一時間」
「あなたがこの研究に人生を懸けていることは、わかります。計算式はわからなくても、それはわかります」
ソフィアが眼鏡をかけ直した。
その手元で、机の端にあった空のポーション瓶が、からん、と乾いた音を立てて倒れた。ソフィアはそれに気づかなかった。あるいは気づいていて、直す余裕がなかった。
数秒の沈黙の後、ソフィアがようやく瓶を起こし直した。指先が震えていた。
「……半分で、その要約ができるのですか」
「要約は得意です。受付業務の基本なので」
「…………」
ソフィアが何かを言いかけて、飲み込んだ。代わりに壁の図表をもう一枚指差した。
「……ここが重要な部分です。魔脈の減少が事実だとした場合、何が起きるか」
止まらなかった。
俺は黙って聞き続けた。ジャッジしない。評価しない。正しいか間違っているかを判定する力は俺にはないし、今この人にそれは必要ない。
必要なのは、ただ、聞いてもらうことだ。
「それと」
さらに三十分ほど経った頃、俺はソフィアの顔を見た。目の下の隈。痩せた頬。荒れた唇。
「三日は寝てないでしょう」
ソフィアが固まった。
「……なぜわかるのですか」
「カウンセラーです。顔を見ればわかります。まず寝てください」
「研究者に睡眠は不要です。思考が止まっている時間は損失です」
俺は思わず天を仰いだ。
「……フランと同じこと言ってるな……」
「フラン? 誰ですか」
「俺の仲間の天才魔法使いです。完璧主義。以前は三日徹夜が当たり前でしたが、今は六十点で合格を出せるようになりました」
「六十点で合格……? 研究に六十点はありえません」
「あなたの体は六十点どころか赤点です。まず寝て、食べてください。研究は逃げません」
「研究は逃げませんが、私の寿命は有限です」
「寿命を縮めてどうするんですか」
「…………」
ソフィアが口を噤んだ。反論を探しているが、見つからないらしい。
「今日は帰ります。でも、明日また来てもいいですか」
「……なぜ」
「続きを聞きたいからです。計算式の部分、もう少し噛み砕いて教えてもらえると助かります」
ソフィアが信じられないという目で俺を見た。
「……あなた、本当にただのギルドの受付ですか」
「ただのギルドの受付です」
「受付が魔脈の研究に興味を持つ理由がわかりません」
「理由はあります。でも、それは明日話します」
俺は立ち上がり、椅子を元の位置に戻した。論文の山を崩さないように慎重に。
「じゃあ、明日。それまでに栄養のあるものを食べてください」
「……栄養のあるもの」
「パンと果物くらいは。空のポーション瓶しか見当たらないんですが、まさかポーションだけで生きてるんじゃ……」
「魔力回復ポーションには最低限の栄養素が含まれています」
「食事じゃないです、それは」
「効率的です」
「効率的に死にますよ」
ソフィアが口角を微かに動かした。笑ったのかどうかは判然としない。この人の表情筋は、長い間使われていなかったのだろう。
俺は扉に向かった。ふと足を止め、上着のポケットからりんごを一つ取り出した。昨日、ディアブラが全員に配ったうちの、食べそびれていた一個。論文の山の隙間に、そっと置いた。
振り返らずに出た。振り返ると、この人は「やっぱり来なくていい」と言うだろう。そういう人だ。
扉が閉まった。
路地を数歩歩いたところで、背後から微かな声が聞こえた。
扉の向こう。閉め切った研究室の中。
「……変な人」
小さな声だった。
それが、ソフィアが数年ぶりに他人に向けた、拒絶以外の言葉だった。
* * *
宿に戻る道すがら、角を曲がったところでリゼがいた。
壁に背を預け、腕を組んで立っている。
「……遅い」
「リゼ。なんでここに」
「ナギが昼前に出て行って、三時間戻ってこないから」
三時間。一時間のつもりだったが、ソフィアの研究説明が止まらなかった時間を含めるとそうなる。
「心配かけてすみません。大丈夫です。研究者に会ってきました」
「研究者?」
「ええ。魔脈の研究をしている人で——」
「女?」
リゼの目が、すっと細くなった。
「……研究者です」
「女かって聞いてんの」
「……女性です」
沈黙。
リゼが壁から背を離し、俺の横に並んで歩き出した。
二、三歩歩いたところで、リゼが不意に顔を近づけた。俺の袖を、くんと嗅いでいる。
「……なんか、埃とポーションの匂いがする」
「……リゼ」
「三時間も一緒にいたら匂いつくよね。密室で。二人きりで」
「研究の話を聞いていただけです」
「密室で」
「研究室です」
「二人きりで」
「他に人がいないんです」
「それが問題だって言ってるの」
リゼが俺の袖を掴んだ。嗅ぐのはやめたが、離す気はないらしい。
「……どんな人」
「眼鏡で、白衣で、三日寝てなくて、ポーションだけで栄養を摂ってる人です」
「また明日行くの」
「行きます」
「……一人で?」
「研究の話を聞くだけです」
リゼは数秒黙った後、小さく溜息をついた。
「……また新しいのが増える予感がする」
「増えません」
「ナギ、自分で気づいてないだけだよ。三時間も女の人の話を聞いて、明日も行くって。……そのパターン、あたしの時と同じ」
「あなたの時はカウンセリングです。今回は研究のヒアリングです」
「同じだよ。ナギは目の前で困ってる人がいたら、絶対放っておけない。それがどんな人でも」
リゼが俺の袖を握る力が、少しだけ強くなった。
「……それが、ナギの一番厄介なところだよ」
言葉は刺があるようで、声は柔らかかった。怒っているのではない。心配しているのだ。
「帰ろ。夕飯、みんなで食べるって約束したでしょ」
「……しましたっけ」
「した。あたしの中では」
それは約束ではなく一方的な宣言では。
だが、リゼの手を振り払う理由もない。
夕暮れの王都を、二人で歩いた。リゼの手は俺の袖を掴んだまま、離れなかった。




