第82話 五分だけと言った研究者は、一時間半止まらなかった
ヴァルター公爵の面会と、午後の強制休息から一夜明けた朝。
俺は宿を出て、王都の東端に向かっていた。
きっかけはリヒャルト王の何気ない一言だった。貴族議会の前日、継続審議の段取りを調整するために短い面会をした際、俺が魔脈の話を持ち出すと、リヒャルトは少し困った顔をした。
「魔脈の研究……ですか。実は、かつて王立魔法学院にそれを専門にしていた研究者がおりましてな」
「かつて、というのは」
「追放されたのです。教団との関係が悪化しまして。魔脈の研究は教団の教義に触れる部分がありましてな……私は止めたかったのですが、教団の圧力が強く……各方面の意見を聞いているうちに……」
また「各方面」が出た。フランがメモを書きかけて、途中でやめた。もう書くまでもないらしい。
「その研究者の名前は?」
「ソフィアといいます。今も王都の端に住んでいるはずですが……訪ねる者は誰もいないと聞いています」
昨日の午後、散策の帰りに蔦に覆われた建物の前を通りかかった時、あの青白い魔灯の光が気になっていた。あの中に、その研究者がいるのだろう。
宿に戻った後、フェンリルに水晶球で相談した。
「魔脈データの検証には、人間側の研究者が不可欠だ。合流させろ。ただし、学院を追放された人間は大抵二種類だ。狂人か、正しすぎた人間か。見極めろ」
フェンリルの助言は、いつも通り簡潔で、いつも通り的確だった。
* * *
昨日見た建物は、すぐに見つかった。
見つけたくなくても見つかる。なぜなら、それは廃墟にしか見えなかったからだ。
三階建ての石造りの建物。窓は全て閉め切られ、蔦が壁を半分覆い、玄関の扉は色褪せて取っ手が錆びている。隣の建物との間の路地には空のポーション瓶が転がり、かすかに薬品の匂いが漂っていた。
「……ここ、ですか」
俺は一人で来ていた。ヒロインたちにはそれぞれ別の仕事を割り振ってある。フランは議会向け資料の精査、ルナは情報漏洩元の追跡、セラフィーナは大聖堂での情報収集、アリスは勇者の知名度を活かした貴族への挨拶回り。リゼには昨日の疲れもあるから、宿で休んでもらっている。
ディアブラは宿で待機だ。「人間の研究者に会うのに、魔王が同行するのはリスクが高すぎる」とフランに止められ、不満そうにりんごを齧っていた。あの魔王、すっかりりんごに嵌っている。
扉を叩いた。
反応がない。
もう一度叩いた。
「……留守、ですかね」
だが、建物の中からかすかに光が漏れている。窓の隙間から、魔灯の青白い光。誰かがいる。
三度目を叩こうとした時、扉の向こうから声がした。
「帰ってください」
女の声だった。若い。だが、疲弊が滲んでいる。
「教団の犬ですか。それとも学院の回し者? どちらにせよ、お帰りください。私に用がある人間など、この世界にはいません」
完全拒絶。
扉越しでも伝わる。この人は、何年もこうやって人を拒んできたのだ。
俺は扉に向かって話しかけた。
「教団でも学院でもありません。冒険者ギルドの受付です」
「……受付?」
「はい。こころの相談窓口をやっています」
「相談窓口……? 何の冗談ですか。帰ってください」
「冗談ではないです。あなたの研究の話を、聞かせていただきたくて来ました」
長い沈黙。
十秒。二十秒。三十秒。
扉を叩かなかった。待った。カウンセリングの基本だ。相手の沈黙を、こちらから破らない。
がちゃり、と鍵が開く音がした。
扉が、拳一つ分だけ開いた。
隙間から覗いたのは、銀縁の眼鏡をかけた女だった。
二十代後半か三十代前半。栗色の髪は無造作に束ねられ、白衣は染みだらけで、目の下の隈が顔の半分を占めているように見えた。
痩せている。明らかに栄養が足りていない。
「……五分だけ時間を取ります」
扉が、人がひとりやっと通れるほどに開いた。
* * *
中に入って、俺は息を呑んだ。
研究室——と呼べるかどうかも怪しかった。
天井まで積み上がった論文の山。壁一面に貼られた図表と計算式。机の上には空のポーション瓶が林のように並び、その隙間から羽ペンとインク壺が顔を覗かせている。床には本が散乱し、足の踏み場を探すのに数秒かかった。
窓は全て閉め切られ、空気が淀んでいる。唯一の光源は天井から吊り下げられた魔灯で、青白い光が論文の山に不気味な影を落としていた。
フランの研究室も大概だったが、ここはその上をいく。フランの部屋が「整理されていない天才の書斎」なら、ここは「人間が住むことを諦めた知識の墓場」だ。
「……座ってください。椅子は……どこかにあったはずです」
ソフィアが論文の山を一つ移動させると、その下から木の椅子が現れた。椅子が論文に埋もれている時点で、この部屋の状態がわかる。
俺は椅子に座った。ソフィアは机の向こう側に立ったまま、腕を組んでこちらを見ている。眼鏡の奥の目は鋭い。警戒と猜疑が混在している。
「何が聞きたいのですか、手短に」
「あなたの研究内容を、教えてください」
「……研究内容?」
「はい。魔脈の研究をされていると聞きましたが、具体的にどんな研究なのか、俺は全く知りません。素人にもわかるように説明していただけますか」
ソフィアの眉が上がった。
「素人に説明しろと? 魔脈の研究は高度な魔法理論と地質学と歴史学の融合領域です。学院の教授ですら理解できなかったものを、ギルドの受付に説明して何になるのですか」
「何になるかは聞いてみないとわかりません。まずは聞かせてください」
「……時間の無駄です」
「無駄かどうかは、俺が判断します。あなたは説明するだけでいい」
ソフィアが眼鏡を指で押し上げた。猜疑の目が、少しだけ変わった。困惑に。
「……本気で言っているのですか」
「本気です」
「おかしな人ですね。三年かけて書いた論文を、学院の査読委員は一行も読まなかった。教団は危険思想だと焚書した。あなたが聞いたところで——」
「俺は聞きたいんです。理解できないかもしれません。でも、聞きたい」
ソフィアが口を閉じた。
数秒の沈黙。
そして——ソフィアは壁に貼られた図表の一枚を指差した。
「…………これは、魔脈の全体図です」
声が、変わった。
警戒が消えたわけではない。だが、その下にある別の何か——長い間使っていなかった筋肉を動かすような、ぎこちない熱が混じっていた。
眼鏡の奥の瞳に、頭上の魔灯の青白い光が鋭く反射した。さっきまでの疲弊した目とは別人だった。研究者としてのスイッチが、音もなく切り替わっている。
「魔脈とは、世界の地下を流れる魔力の大動脈です。人間が使う魔法も、魔族が使う魔法も、源は全てここに行き着く。地上の魔力は表層の溜まりに過ぎず、本質的なエネルギー源は深層魔脈の流動にある」
ソフィアが別の図表に移った。
「私の研究テーマは、この深層魔脈の経年変化です。過去の文献と、私自身の観測データを照合した結果、魔脈の総流量は過去五百年間で有意に減少している可能性がある」
「減少……」
「ええ。ただし、人間側の観測技術では深層魔脈を直接測定できません。私が使っているのは間接指標——地表の魔素濃度、魔物の出現パターン、農作物の魔法耐性の変化、古い遺跡の魔力残留量——これらを総合的に分析して、深層の変化を推定するという手法です」
ソフィアが次の図表に手を伸ばした。論文の山から資料を引き抜き、机に広げる。
「しかし、学院はこの研究を認めなかった。間接指標だけでは科学的に不十分だと。それは正しい指摘です。正しいが、直接観測の手段がないのだから間接指標で攻めるしかない。他に方法がありますか? 教授たちは代案を出さなかった。ただ『不十分だ』と言って却下しただけです」
ソフィアの声に熱が入っていた。
「さらに教団が介入してきた。魔脈は神の恵みであり、減少するなどという主張は冒涜だと。冒涜? 科学的仮説に対して冒涜? データに対して信仰で反論するのは学問ではない。しかし教団の政治力は学院より上で、結果として私は——」
ソフィアが言葉を切った。息が荒い。
「……追放された」
「…………」
「三年間の研究成果を全て持ち出し、この廃墟に引きこもった。以来、誰一人として私の研究の話を聞きに来なかった。あなたが来るまで」
ソフィアが俺を見た。眼鏡の奥の目は、先ほどの鋭い光とは違う色を帯びていた。痛々しいほどに真っ直ぐな、剥き出しの目だった。
五分の約束は、とうに過ぎていた。ソフィアは気づいていない。あるいは気づいていて、止められないのだ。何年も誰にも話せなかったことが、堰を切ったように溢れ出している。
俺は黙って聞いた。
理解できない部分は正直にわからないと言い、理解できる部分は頷いた。質問は最小限にした。今、この人に必要なのは、質問ではなく、聞いてもらうことだ。
ソフィアは論文を広げ、図表を指し、計算式を書き、空のポーション瓶を魔脈のモデルに見立てて並べ、時に興奮し、時に声を落とし、時に言葉に詰まりながら、数年分の研究を語り続けた。




