第81話 魔王の初めての猫
交代制が一巡し、午後も半ばを過ぎた頃。
散策の途中、商業区画と下町の境にある細い路地を歩いていた時だった。
「……にゃあ」
塀の上から、一匹の猫が飛び降りてきた。
茶トラの野良猫。痩せているが毛並みはそこそこで、人慣れしているのか、俺たちの前を悠然と横切って路地の真ん中に座り込んだ。
「あ、猫!」ルゥが目を輝かせた。「かわいいーっ!」
「猫ですわね」セラフィーナが微笑む。
「猫ちゃんにリボンつけたい!」アリスが即座に提案する。
リゼが猫の前にしゃがみ、手を差し出した。猫がすんすんと匂いを嗅ぎ、ゴロゴロと喉を鳴らし始める。「へへっ、懐かれた」
フランは「野良猫との接触は衛生面で——」と言いかけて、猫が自分の足元に擦り寄ってきたのを見て黙った。
その一連のやり取りの間。
ディアブラだけが、完全に固まっていた。
「……あれは、何だ」
低い声。フードの奥の灰色の瞳が、猫を凝視していた。身体が微動だにしない。数百年を生きた魔王が、路地裏の野良猫を前に石像と化していた。
「猫ですよ」
「……猫」
「はい。猫です」
「…………」
ディアブラが俺を見た。
「敵か」
「敵とか味方とかないですよ」
「……分類は」
「ペットか野良かでいえば野良ですが、分類とか関係なく、ただの猫です」
「論理が破綻している」
「猫に論理は通用しません」
ルゥが茶トラを抱き上げ、ディアブラの前に差し出した。
「ディアちゃん、手を出してごらん! 猫ちゃん、撫でると気持ちいいよ!」
ディアブラが恐る恐る右手を差し出した。
指先が震えている。数百年にわたり、あらゆる種族を力で従えてきた手。その手が、体重三キロ程度の小さな生き物を前にして怖気づいている。
猫がディアブラの指先に鼻を近づけた。すんすん、と匂いを嗅ぐ。
一秒。二秒。
猫がディアブラの手に頭をこすりつけた。
「……っ」
ディアブラの肩が跳ねた。
「動くな。動くなよ……。何だこの生物は。柔らかい。温かい。なぜ私に近づくのだ。恐れないのか」
「猫はあなたが魔王かどうか知りませんから」
「知らないのか」
「知りません。猫にとっては、あなたは温かい手を持った存在というだけです」
猫がディアブラの手から腕へ、腕から胸元へと登り始めた。フードの中に潜り込もうとしている。
「待て。入るな。角が——」
「大丈夫ですよ。猫は角くらいでは驚きません」
猫はフードの中に収まり、ディアブラの膝の上で丸くなった。ゴロゴロと喉を鳴らしている。黒いフードの隙間から、茶トラの尻尾だけがはみ出して、ゆらゆらと揺れていた。
ディアブラは路地の壁に背を預け、膝の上の猫を見下ろしていた。動けない。動いたら逃げてしまうと思っているのだろう。
手が無意識に猫の背を撫で始めた。ぎこちない。力加減がわからないらしく、最初は指先でつつくような動きだったが、猫が身をよじって催促すると、少しずつ掌全体で撫でるようになった。
ゴロゴロゴロゴロ。
「……この振動は何だ」
「喉を鳴らしてるんです。気持ちいい時にやります」
「気持ちいい……。この生物が、私に……」
「ディアちゃん、めっちゃ好かれてるよ!」ルゥがぱちぱちと拍手した。
「猫のゴロゴロ音には自律神経を整える効果があるというデータがあるわ」フランが腕を組んだ。「……いい表情をしているわね、あの魔王」
ルナの声が一瞬だけ混ざった。「……あの猫、首輪がない。野良だ。飼うか?」
「神の被造物に癒されるのは、自然なことですわ」セラフィーナが微笑んだ。
「猫ちゃんにリボンつけてあげたい! ピンクの!」アリスが諦めていなかった。
リゼが俺の隣にしゃがみ、猫を撫でるディアブラを眺めた。
「……魔王がぷかぷかの次は、猫に懐かれてるんだ」
「成長してますよ」
「何の成長かわかんないけどね」
俺はディアブラの隣に座った。
「力で従わせなくても、そばに来てくれる存在がいる。それが日常です」
ディアブラが答えない。猫を撫でる手だけが、少しだけ優しくなった。
「……悪くない」
リゼが小声で言った。「また『悪くない』だ」
「今日だけで何回目ですか」
「数えてるの、ナギ」
「カウンセラーの職業病です」
* * *
夕暮れ時。宿への帰り道。
猫はいつの間にかいなくなっていた。ディアブラはフードの奥で何度か自分の手のひらを見つめていた。猫の温もりの残像を、確かめるように。
商業区画から下町に抜ける道を歩いていた時、ふと視界の端に引っかかるものがあった。
蔦に覆われた古い建物。窓は全て閉め切られ、隙間から青白い魔灯の光がかすかに漏れている。
空のポーション瓶が、路地に転がっていた。
俺は足を止めかけた。
今朝、リヒャルト王が話していた研究者。魔脈の研究をしていて追放された、ソフィアという名の女性。この辺りに住んでいると聞いた。
——あの中に、一人でいるのだろうか。
行きたい、と思った。扉を叩いて話を聞きたい。
だが今日は休息の午後だ。午前に公爵のカウンセリングをやった直後だ。これ以上動いたらフェンリルに何を言われるかわからない。
明日にしよう。
俺は建物の前を通り過ぎた。
「どうしたの、ナギ」
リゼが声をかけてきた。俺が一瞬足を止めたことに気づいている。
「いえ、なんでもないです。明日、ちょっと行きたいところがあるだけです」
リゼの目が細くなった。
「……また新しい相談者の匂いがする」
「匂いはしないでしょう」
「するよ。ナギが『行きたいところがある』って言う時の顔、毎回同じなの。目が少し優しくなって、眉が下がる。誰かのことを心配してる顔」
「……Aランク冒険者の鼻を舐めてはいけませんね」
「でしょ」
リゼはそれ以上追及しなかった。ただ、俺の隣を歩く距離が半歩だけ近くなった。
宿に着くと、ディアブラが黙って荷物を下ろし、全員にりんごを配り始めた。
「……客人への礼だ。深い意味はない」
声は素っ気なかったが、りんごの数はきっちり人数分あった。いつの間にか買い足していたらしい。
リゼが受け取りながら呟いた。「ちゃんと数えて買ったんだ」
俺と同じことを思ったらしい。
夕日が宿の窓から差し込み、テーブルの上のりんごを赤く染めている。
午前は公爵の十二年分の涙を受け止めた。午後は猫と、りんごと、フリルのマフラーと、花の図鑑と、六つの差し入れに囲まれた。
重いものと、軽いもの。同じ一日の中に、両方がある。
それが日常なのだと思う。どちらか片方だけでは、人は生きていけない。
カウンセラーが休むことは、怠慢ではない。明日また誰かの話を聞くための準備だ。フェンリルの言葉を借りるなら、パフォーマンス維持はコスト管理の基本。
明日は、あの蔦に覆われた建物の扉を叩く。
でも今日は、りんごの甘さだけで十分だった。
「ナギ、りんご食べないの?」
「食べますよ。いただきます」
じゃくり。
甘い。




