第80話 三十分交代制と、花の図鑑
フランの三十分。
学術区画の書店に入った。天井まで本が積まれた狭い店内で、フランは驚くべき速度で棚を巡り、三冊の本を抱えて戻ってきた。
「王都の政治構造に関する概論、貴族議会の議事録集、そして辺境防衛の歴史。ナギの分も確保したわ」
「ありがとうございます。……休息の午後に資料を買うのは休息ですか」
「知識の獲得は、私にとって最大の安らぎよ」
完璧主義は手放したが、知的好奇心は健在だった。むしろ「完璧でなくてもいい」と思えるようになったことで、純粋な楽しみとして学べるようになっている。
会計を待つ間、フランが書棚の隅にある小さな花の図鑑を手に取った。
「……これ」
「花の図鑑?」
「前に、商会でエラーを出した時。ナギが私の髪に白い花を飾ってくれたでしょう」
覚えている。防犯魔法のバグでお花畑が咲いた時だ。
「あの花の名前を調べたかったの。でも品種がわからなくて」
フランが図鑑のページをめくる手は、いつもの冷静さとは少し違っていた。
「……見つかったら教えてくださいね」
「ええ。必ず」
フランが図鑑を胸に抱えた。頬がほんの少し赤い。
三十分が終わり、フランは「次の方、どうぞ」と事務的に交代を宣言した。声は平静だが、花の図鑑だけはしっかり抱えたままだった。
* * *
ルゥの三十分。
「お兄さん、あそこ! 焼き菓子の屋台! いい匂いがする!」
ルゥが俺の手を引いて駆け出した。彼女の場合、ナギの隣を歩くというより、ナギを引きずって街を駆け回るに近い。
焼き菓子を二つ買い、一つを俺に差し出した。
「はい、お兄さん。あーん!」
「自分で食べます」
「えー、つまんないー」
ルゥが頬を膨らませた。だが、すぐににこっと笑って自分の菓子に齧りつく。
「お兄さん、ルゥね、王都好きだよ。いろんなものがあって、いろんな人がいて」
「そうですね」
「でもね、一番好きなのは、お兄さんがいるところ」
さらりと言う。計算がない。ただ思ったことを、そのまま口にする。
ルゥの三十分が半分を過ぎた頃、瞳の色がすっと変わった。
「……ナギ。一つだけ報告」
ルナだ。声のトーンが落ち、空気が引き締まる。
「休息日に報告するのは本意ではないけれど、明日以降の行動に関わるから。手短にする」
「はい」
「ヴァルター公爵の周辺を調べた。情報漏洩の出処は公爵本人ではない。正面から殴りに来る男よ。噂を流しているのは別の人間。議会の中に、和平を潰したい人間がいる。まだ絞りきれていないけれど」
「……わかりました。引き続きお願いします」
「任せて」
報告を終えると、瞳の色が戻った。
「お兄さん、あっちにアクセサリーの屋台があるよ! 見に行こ!」
ルゥだ。切り替えが鮮やかすぎる。
* * *
セラフィーナの三十分。
大聖堂の前を通りかかった。白亜の尖塔が午後の空に伸び、正面の広場では信徒たちが祈りを捧げている。
セラフィーナが足を止めた。
「……以前の私なら、ここで一日中治癒魔法を行使していたでしょうね」
「今は?」
「今は、ナギ様の傷が早く癒えますようにと、心の中で祈るだけですわ」
セラフィーナが目を閉じ、胸の前で手を組んだ。短い祈り。声は出さない。
祈りが終わると、俺の方を向いた。
「ナギ様。少しだけ、よろしいですか」
「はい」
「微弱回復」
ぽわん、と。小さな光が俺の頬を包んだ。昨日殴られた紫の腫れが、ほんの少しだけ和らぐ。鈍い痛みが薄れ、呼吸が楽になる。
全てを奪う劇薬ではない。自分の足で立つための、小さな後押し。
「……ありがとうございます」
「ふふっ。これくらいが、ちょうどいいのですわ」
かつての狂信的な光はない。等身大の、一人の女性の笑顔だった。
* * *
アリスの三十分。
「先生! あの服飾店に入りたいです!」
予想通りだった。
アリスに連行された店は、王都でも有名な仕立屋らしい。店内には色とりどりのドレスやアクセサリーが並んでいる。
「先生、このマフラー似合いますよ! フリルがついてて可愛い!」
「俺にフリルは……」
「似合います! 絶対似合います!」
アリスが俺の首にフリル付きのマフラーを巻こうとした瞬間。
「やめなさい。ナギの首にフリルを巻く権利は誰にもないわ」
店の入口からフランの冷静な声が飛んできた。交代済みのはずだが、監視は怠っていないらしい。
「えー! でも先生に似合うと思って——」
「似合うかどうかではなく、ナギの意思の問題よ。アンコンシャス・バイアスに注意しなさい」
アリスが一瞬だけ固まった。
「……あ。そっか。先生が着たいかどうかを聞いてなかった」
「そういうこと」
アリスが俺を見上げた。
「先生。着たいですか?」
「……遠慮しておきます」
「わかりました! じゃあ、私が着ます!」
アリスは結局自分でマフラーを買い、嬉しそうに巻いて出てきた。フリルの上にフリルを重ねて、本人は大満足らしい。
* * *
リゼの三十分。
武器屋の前で足が止まった。ショーウィンドウに並ぶ剣を見つめるリゼの横顔は、穏やかだった。品定めではない。職人の技術への敬意がある。
「……この剣、刃紋が綺麗。鍛冶師の腕がいいんだろうな」
「よくわかりますね」
「剣は嘘つかないから。振ればわかる。人よりずっとわかりやすい」
以前も同じようなことを言っていた。訓練場で素振りをしていた時に。あの頃は「人より剣の方がわかりやすい」という言葉に諦めが混じっていた。今は違う。ただの事実として、穏やかに口にしている。
「ナギ」
「はい」
「今朝、公爵のところでさ。あたし、廊下で待ってる間ずっと考えてた」
「何をですか」
「ナギが人の話を聞いてる時って、相手の痛みを全部背負い込むでしょ。朝帰ってきた時、ナギの目が赤かったの。公爵が泣いたんじゃなくて、ナギも泣いてた」
「……ばれてましたか」
「Aランクだから。目はいいの」
リゼが武器屋のウィンドウから目を離し、俺の方を見た。
「あたしはさ、剣でしか守れない。ナギの心を軽くする方法なんて知らない。でも」
リゼが俺の袖をきゅっと掴んだ。
「帰ってきた時にここにいることはできる。それだけは、絶対に」
「……ありがとうございます」
「……ん」
リゼが少しだけ頬を赤くして、前を向いた。
三十分の終わり際、リゼが袖を掴んでいた手をぱっと離した。交代の合図。名残惜しそうだったが、協定は守った。




