第79話 剣の鞘に入った湿布と、六つの贈り物
ヴァルター公爵の屋敷から宿に戻ったのは、昼前だった。
リゼと並んで宿の廊下を歩きながら、俺はまだ公爵の涙を反芻していた。十二年分の怒りの下にあった自責。七歳の娘が彫った木の人形。あの書斎の空気が、まだ肺の中に残っている。
部屋の扉を開けると、机の上に荷物が並んでいた。
午前中、俺が公爵の屋敷に行っている間に、全員が差し入れを置いていったらしい。
布で包まれた湿布。なぜか剣の鞘に入っている。添え書きに『ナギの頬に。冷やすと痛みが引くって薬師さんが言ってた。鞘は清潔だから安心して。——リゼ』。清潔かどうか以前に、鞘の内側が湿気で錆びないか心配だ。あと取り出しにくい。気持ちはありがたいが、容器の選定に課題がある。
蓋付きの陶器の壺。まだ温かい。『成分:根菜類40%、鶏骨スープ30%、薬草エキス20%、微量の回復魔力10%。カロリーと栄養素のバランスは最適化済み。冷める前に飲みなさい。——フラン』。朝から成分表付きのスープを用意してくれていたらしい。
手紙。丸っこい字で似顔絵が描いてある。俺の似顔絵らしいが、目が星になっている。『お兄さん、公爵のおうちがんばってね! 帰ったらルゥがぎゅーってしてあげる!——ルゥ』。その下に几帳面な字で追記。『無事に帰ってこなければ、公爵の屋敷を更地にする。——ルナ』。物騒だが、これが彼女なりの愛だ。
小瓶に入った透明な液体とハーブの束。『聖水で淹れたハーブティーの素材ですわ。お湯を注ぐだけで体の芯から温まります。ナギ様のお帰りをお待ちしております。——セラフィーナ』。
布の包み。開けるとピンク色のフリルがついたアイマスクが出てきた。『先生の安眠のために夜なべして作りました♡ フリルは正義です!——アリス』。気持ちはありがたいが、これを着けて寝ている姿を誰かに見られたら社会的に死ぬ。
りんご。一個。メモが添えてある。
『食え。——ディア』
二文字。潔い。
俺は椅子に腰を下ろし、六つの贈り物を眺めた。
さっきまで見ていた公爵の書斎の木彫りの人形を思い出す。不格好だけど精一杯の、誰かへの想い。形は違うが、根っこは同じだ。
フランのスープを飲み、セラフィーナのハーブティーを淹れ、リゼの湿布を頬に当て、ディアブラのりんごを齧った。
アリスのアイマスクは引き出しにしまった。フリルは正義ではない。少なくとも俺の顔面においては。
じゃくり。
りんごは、やっぱり甘かった。
* * *
十分後。部屋を出ると、廊下で全員が待ち構えていた。
壁のように並ぶ六人。退路はない。
「ナギ。午後は休みなさい」
フランが腕を組んで宣告した。
「今朝、フェンリルと水晶球で話したわ。『公爵に殴られた翌日にカウンセリングを強行した時点で頭がおかしいが、午後まで稼働させたら本当に壊れる。止めろ。以上』だそうよ」
あの狼、俺の知らないところでヒロインたちと連絡を取っている。
「午後は一人で静かに——」
「「「「「「却下」」」」」」
六声のユニゾン。淑女協定v2.0制定以来、この一致団結だけは驚異的な精度を誇っている。
「ナギ、頬まだ腫れてるじゃん。しかも朝から公爵のとこ行って泣かれて。一人にしたら絶対また誰かのところに行って仕事する。知ってるよ」
リゼが俺の顔を覗き込んだ。さっきまで一緒にいたのだから、俺の消耗具合は誰より見えているだろう。
「データ的にも、ナギが『一人で休む』と宣言した後に実際に休息した確率はゼロよ。前科が多すぎるわ」
フランが羊皮紙を取り出した。本当にデータを取っていたらしい。
「お兄さん、さっき公爵のおうちで泣いてたんでしょ。リゼちゃんが教えてくれた」
ルゥが俺の袖を引いた。リゼ、報告が早い。一瞬だけ瞳の色が変わる。
「午後は全員で監視する。異論は認めない」
ルナだ。監視という単語を自然に使うあたり、彼女は彼女のままである。
「ナギ様。今朝のお務めのお疲れを癒すためにも、午後は穏やかにお過ごしくださいませ」
セラフィーナが両手を組んで微笑んだ。背後に魔法陣は展開されていない。成長だ。
「先生! 午後は王都を一緒に回りましょう! アイマスク、使ってくれましたか!?」
アリスが目を輝かせている。まだ十分しか経っていないが、使っていないとは言えない空気だった。
「……使いました。ありがとうございます」
「本当ですか!? やったーっ♡」
嘘をついた。カウンセラーとして失格だが、人間として必要な嘘もある。
そして六人の後方。壁に背を預け、黒いフードを被ったまま腕を組んでいるディアブラ。
「……りんご、食ったか」
「美味しかったです」
「ふん。当然だ。私が選んだのだからな」
市場で俺と一緒に買ったりんごの残りだが、ツッコまないでおく。
「午後は休め。お前の顔は朝より悪い」
「……あなたにまで言われると、本当に相当なんでしょうね」
「相当だ。私は数百年分の疲労の専門家だからな」
それは専門家ではなく当事者だ。
かくして、人魔和平プロジェクトマネージャー(元ギルド受付)の強制午後休が、六人の過保護な護衛付きで始まった。
* * *
王都の中央通りに出た瞬間、問題が発生した。
「ナギの隣は私。今朝も一緒だったんだから、引き続きでいいでしょ」
リゼが俺の右側にぴたりと張りついた。
「論理的に考えて、午前中にナギの隣を独占したリゼは午後の優先順位が最も低いわ」
フランが左側に回り込んだ。
「お兄さんの後ろはルゥが守るー!」
「前方警戒は私が担当します。先生の視界を確保します」
ルゥが背後に、アリスが前方に。セラフィーナが「回復支援は至近距離が最適ですわ」と半歩後ろに控えた。
ディアブラは少し離れた位置で、フードの奥からこの陣形を眺めていた。
「……要人護衛というより包囲網だな」
正確な観察である。
このままでは一歩も動けないので、俺はフランに裁定を仰いだ。フランは「淑女協定v2.0に基づき、三十分交代制を提案するわ」と即座に仕組みを提示した。
「三十分ごとにナギの隣を交代。順番は抽選。異議のある者は論理的根拠を示すこと」
「……エビデンスに基づいて合理的……いや、ぜんっぜん納得いかないけど。でも協定だから。従う」
リゼが歯を食いしばりながら承諾した。この台詞を聞くたびに、コンサル研修の効果を実感する。以前のリゼなら剣を抜いていた。
抽選の結果、最初の三十分はフランだった。リゼが「午前ずっと一緒だったのに」と言いかけて、自分の論理で自分を殴っている顔をした。エビデンスに基づけば、午前中に隣を独占した者の優先順位は確かに低い。
淑女協定v2.0、初の実運用テスト。開始。




