第78話 声にならなかった六文字
どのくらい時間が経っただろうか。
ヴァルターの肩の震えが収まった。顔を覆っていた手が下ろされ、灰色の目が赤く充血していた。
「…………見苦しいところを見せた」
「見苦しくないです」
「軍人が人前で泣くのは恥だ」
「泣くことは恥じゃないです。十二年分の感情を一人で抱え続けていたことの方が、よほど苦しかったはずです」
ヴァルターが俺を見た。
「お前は……魔族を許せと言わないんだな」
「言いません。許すかどうかは、あなたが決めることです。俺が決めることではない」
「和平を受け入れろとも言わないのか」
「言いません。今日は、あなたの話を聞きに来ただけです」
ヴァルターが小さく鼻を鳴らした。昨日の敵意とは違う、乾いた音だった。
「……変わった男だ。政治家でも外交官でもない、と言っていたな。確かにお前は政治家じゃない」
「ギルドの受付です」
「受付が公爵を泣かせるのか」
「そういう受付です」
ヴァルターが立ち上がった。窓に歩み寄り、外を見た。朝の光が灰色の髪を照らしている。
「……昨日殴ったことは、詫びよう」
「必要ありません。あの場では、ああするしかなかったんでしょう」
「いや。詫びる。暴力は……エリーゼが最も嫌ったことだ。あいつが見ていたら、俺は張り飛ばされていただろう」
ヴァルターの口元に、微かな笑みが浮かんだ。十二年ぶりかもしれない。
「……和平については、まだ認められん」
「はい」
「だが、お前個人の話は……もう少し聞いてやってもいい」
「ありがとうございます」
「感謝するな。まだ何も決めていない」
ヴァルターが窓から振り返った。
「一つだけ聞く。お前は、なぜこんなことをしている。受付の仕事でも、カウンセラーの仕事でもないだろう。国を動かそうとしているんだ。なぜだ」
俺は少し考えた。
「……目の前に困っている人がいたからです」
「それだけか」
「それだけです」
ヴァルターが俺を見つめた。数秒間。
「…………馬鹿だな」
「昨日も言われました」
「お前の周りには、お前を馬鹿と呼ぶ人間しかいないのか」
「わりと」
ヴァルターが背を向けた。会話の終わりを示す軍人の仕草だった。
「門の外で女が待っているだろう。赤い髪の冒険者だ。衛兵が報告してきた。『公爵が客人に危害を加えた場合、屋敷を破壊する意思がある』と門番に宣言したそうだ」
「…………すみません」
「謝るのはお前ではなく、あの女だろう」
「それはまあ……そうなんですが……」
俺は書斎を出た。
廊下を歩きながら、あの小さな木彫りの人形のことを考えていた。
七歳の女の子が、父親のために彫った不格好な人形。それを十二年間、机の上に置き続けている男。
怒りの下には、悲しみがあった。
悲しみの下には、自分を許せない苦しみがあった。
そしてその全ての根底には、愛があった。
守れなかった者への、消えない愛。
ヴァルター公爵は、怒りの人だったのではない。
愛の人だった。
◇
大変申し訳ありません! 私の認識が甘く、リゼのキャラクター性(ナギという呼称や、犬っぽい懐き方)から逸脱し、口調がトゲトゲしくなりすぎてしまっていました。ご指摘いただきありがとうございます。
「あんた」という呼称をすべて「ナギ」に修正し、語尾を柔らかく調整しました。また、主人の帰りを待つ犬のように「駆け寄ってくる動作」や、「匂いで察知する」「袖を掴んでぴたりと寄り添う」といった形で、彼女特有の懐き方と過保護さを表現するようリライトいたしました。
修正した後半部分のテキストになります。
***
門を出ると、リゼが壁から背を離し、小走りで駆け寄ってきた。
「……ナギ! 四十二分。ギリギリだよ」
「すみません」
「……あれ、泣いてた?」
「…………なぜわかるんですか」
「ナギの目が赤いから。……それに、ちょっと悲しい匂いがする」
俺は自分の目を擦った。泣いていた自覚はなかったが、言われてみれば少し滲んでいる。クライアントの涙に引きずられるのは、カウンセラーとしては未熟な反応だ。
だが、前世で小さな子供の患者や、その親を担当した時も、俺はいつもこうだった。何百人と向き合ってきても、この共感しすぎる癖は直らなかった。
「公爵が泣いたんじゃなくて、ナギが泣いたの?」
「……両方です」
リゼが少しだけ目を細め、俺の袖をきゅっと掴んだ。
「…………やっぱり、ナギは馬鹿だね」
「今日三回目です」
「何回でも言うよ。……心配、したんだから」
リゼが俺の隣に並んだ。今日は袖を掴んだまま、半歩だけ近い距離で、ぴたりと寄り添うように歩いた。
「……ねえ、ナギ。あの公爵、どんな人だったの?」
「奥さんと娘さんを亡くしていました。十二年前に」
「……そっか」
リゼは何も言わなかった。怒りも、同情も、口にしなかった。
ただ、歩く速度を少しだけ落として俺に合わせ、その温もりを伝えるように袖を握り続けていた。
◇
宿に戻ると、廊下でディアブラとすれ違った。
ディアブラは何も聞かなかった。だが、俺の腫れた頬と赤い目を見て、立ち止まった。
フードの奥の赤い瞳が、何かを読み取ろうとしていた。
「……公爵に会ってきたのか」
「ええ」
「あの男は……どうだった」
俺は少し迷い、正直に答えた。
「十二年間、怒り続けていました。魔族に対して。軍に対して。そして何より、自分自身に対して。家族を守れなかった自分を、許せなかったんです」
ディアブラの表情は見えない。フードが深すぎる。
「妻と七歳の娘を亡くしていました。東部辺境侵攻で」
「…………」
「娘さんが彫った木の人形を、十二年間、机の上に置き続けていました」
ディアブラの手が、ローブの裾を白くなるほど強く握りしめた。
一瞬、息を呑む痛切な気配がフードの下から漏れる。かつて玉座で下した作戦が、どれほど無垢な命を奪ったのか。その事実が、魔王の強固な精神を内側から揺さぶっていた。
「……七歳」
「はい」
「七歳の子供が……」
ディアブラの声が、途切れた。
廊下に沈黙が満ちた。
俺はディアブラの前に立ち、静かに言った。
「ディアブラ。これは、あなたを責めるために話しているのではありません」
「…………」
「でも、知っておいてほしかった。和平とは、数字や条約の話ではない。あの人形一つの重さを引き受けることです」
ディアブラは答えなかった。
代わりに、フードの下で微かに唇が動いた。声にはならなかった。だが、読み取ることはできた。
すまなかった。
それが誰に向けた言葉なのか——エリーゼに、ルーナに、ヴァルターに、それとも自分自身に——俺にはわからなかった。
わからなくていい。
今は、まだ。
ディアブラが背を向け、部屋に戻っていった。足音が遠ざかり、扉が閉まる音がした。
廊下に一人残された俺は、壁にもたれ、目を閉じた。
公爵の涙。ディアブラの罪。リヒャルトの優柔不断。
全部が俺の肩に乗っている。乗せているのは俺自身だ。誰も頼んでいない。俺が勝手に拾い上げて、勝手に背負っている。
それが俺の病気だと、前世のスーパーバイザーに言われたことがある。
「ナギ君。君は他人の痛みを拾いすぎる。それは優しさではなく、自己犠牲だ。自分を救う方法を持たないカウンセラーは、いつか壊れる」
わかっている。
わかっているが、目の前で泣いている人を見て、拾わない方法を俺は知らない。
……胃薬を飲んで、午後からの予定を確認しよう。
やることが多すぎる。
だが、一つだけ確かなことがある。
今日、ヴァルター公爵は泣いた。十二年ぶりに。
それは後退ではない。前進だ。
怒りの鎧を脱ぐことは、弱さではない。強さだ。
あの人は、強い人だ。




