第77話 木彫りの人形と、十二年ぶんの涙
ヴァルター公爵の屋敷は、貴族街の東端にあった。
華やかな社交場が立ち並ぶ中央区画から少し離れた場所に、軍人らしい質実な佇まいで建っている。装飾は最小限。門柱には公爵家の紋章が刻まれているが、花壇はなく、代わりに衛兵が二名、槍を手に立っていた。
朝の九時。約束は取り付けていない。
昨夜、フランに「アポイントなしで公爵を訪ねるのは外交的に非常識よ」と言われた。俺もそう思う。だが、ヴァルター公爵は昨日俺を殴った男だ。正式なアポイントを申し込んだところで、門前払いにされるのが目に見えている。
ならば、直接行く方がいい。
断られたら帰ればいい。カウンセラーにとって、拒絶は失敗ではない。相手がまだ準備できていないという情報だ。
「……リゼ」
「ん」
隣を歩くリゼが、顎を引いた。
「ここで待っていてくれ。中で何があっても入ってこないこと」
「わかってる……でも」
リゼが門柱を見上げた。
「三十分で出てこなかったら、入る」
「一時間」
「四十五分」
「……わかりました」
交渉成立。カウンセリングのセッションは通常五十分だ。四十五分なら収まる。
リゼが門の横の壁に背を預けた。腕を組み、目を閉じる。一見リラックスしているが、剣の柄にいつでも手が届く位置に立っている。休んでいるのではない。待機しているのだ。
俺は門を叩いた。
◇
衛兵に名前を告げると、意外にもすぐに中に通された。
てっきり追い返されると思っていた。門番の一人が「公爵は書斎におられます。お待ちだったようです」と言った時は、耳を疑った。
待っていた?
屋敷の中は、外観と同じく質素だった。調度品は少なく、壁には武具と地図が飾られている。廊下は磨かれているが、花も絵もない。軍人の家だった。
ただ一箇所だけ、廊下の突き当たりに小さな棚があり、その上に花が一輪、活けてあった。
白い花。野に咲く素朴な花だ。貴族の屋敷には似つかわしくない。
だが、花瓶は美しかった。細い首に柔らかな曲線。女性の趣味だとわかる。
誰が選んだ花瓶なのか。誰が毎日ここに花を活けているのか。
答えは聞かなくてもわかった。
◇
書斎の扉を叩くと、低い声が返ってきた。
「入れ」
扉を開けた。
ヴァルター公爵は窓際の椅子に座っていた。昨日の議場とは違い、軍服ではなく簡素なシャツ姿だ。左頬の刀傷が、朝の光に白く浮かんでいる。
机の上には書類が几帳面に積まれ、インク壺と羽ペンが整然と並んでいる。軍人の机だ。昨日のソフィアの研究室とは正反対の、秩序の空間。
だが、俺の目は机の上のもう一つのものに留まった。
小さな木彫りの人形。
粗い彫りだが、女の子の形をしている。髪を二つに結んだ、小さな女の子。
机の端、書類の邪魔にならない位置に、そっと置かれている。
「……座れ」
ヴァルターが顎で向かいの椅子を示した。
俺は座った。
二人の間にある距離は、昨日と同じ二メートル。だが、空気が違う。昨日は議場という舞台があり、四十人の観客がいた。今日は、二人だけだ。
「……来ると思っていた」
ヴァルターが俺を見た。灰色の目は昨日より穏やかだった。穏やかというより、疲れていた。
「殴った相手のところに、翌日来る人間は二種類だ。復讐に来る者か、懲りない馬鹿か」
「後者です」
「……だろうな」
ヴァルターが俺の頬を見た。紫の腫れが残っている。
「……治癒魔法を使わなかったのか」
「使いませんでした」
「なぜだ」
「あなたに覚えていてほしかったからです」
ヴァルターの目が、一瞬だけ揺れた。
「……嫌な男だな」
「よく言われます」
沈黙が流れた。
朝の光が窓から差し込み、机の上の木彫りの人形に淡い影を落としている。
「……昨日、お前に言ったことは撤回しない」
ヴァルターが口を開いた。
「魔族との和平に反対する立場は変わらん。あいつらが何を言おうと、俺は信じない」
「はい」
「だが」
ヴァルターの視線が、机の上の人形に移った。
「昨日、お前が最後に言ったことが……引っかかっている」
「怒りの下にある本当の感情を聞かせてください、という話ですか」
「ああ。あの言葉が、一晩中消えなかった」
ヴァルターが椅子の背にもたれた。天井を見上げる。
「俺は怒っている。十二年間、ずっと怒っている。魔族に対して。あいつらを止められなかった軍に対して。そして――」
言葉が途切れた。
「そして?」
「…………俺自身に対して、だ」
声が、掠れた。
ヴァルターの大きな手が、膝の上で握り締められていた。昨日俺を殴った右手が、今は自分の膝を押さえつけている。
「あの日、俺は王都にいた。軍の会議で。辺境の領地ではなく、安全な王都の会議室で、地図の上で駒を動かしていた」
声は平坦だった。だが、平坦さを保つために、どれほどの力が必要なのか。俺にはわかる。
「侵攻の報せが届いた時、俺は会議室を飛び出した。馬を走らせた。だが、間に合わなかった」
ヴァルターの目が、机の上の人形を見た。
「村に着いた時、全てが終わっていた。焼け跡の中で、妻が倒れていた。娘を庇うように覆いかぶさって。二人とも、もう動かなかった」
俺は何も言わなかった。
今はまだ、言葉の出番ではない。
「妻の名はエリーゼ。穏やかな女だった。花が好きで、領地の庭をいつも手入れしていた。娘はルーナ。七つだった。父親に似て気が強くて、剣を振り回して庭を走り回っていた」
ヴァルターが目を閉じた。
「ルーナはな、将来は騎士になると言っていた。父上みたいな強い騎士になるって。木の棒を剣に見立てて、毎日素振りをしていた。形はめちゃくちゃだったが……」
ヴァルターの声が震えた。初めてだった。
「……あの人形は、ルーナが彫ったものだ。父上にあげる、と言って。不格好だが、あいつなりの精一杯だった」
机の上の木彫りの人形。粗い彫りだが、何度も何度も撫でられたのだろう。頭の部分だけが、滑らかに黒光りしている。
七歳の手で彫った、父親への贈り物。そして、残された父親が十二年間、愛と後悔と共に触れ続けた痕跡。
「俺は十二年間、あいつらの仇を取ることだけを考えてきた。魔族を一匹残らず滅ぼせば、エリーゼとルーナが報われると信じてきた」
ヴァルターが目を開けた。灰色の瞳が、俺を見た。
「だが、お前に殴りかかった時、わかったんだ」
「何がわかったんですか」
「俺が本当に怒っていたのは……魔族にじゃない」
ヴァルターの拳が震えた。
「俺が怒っていたのは、俺自身にだ。あの日、あの場にいなかった俺に。妻と娘を守れなかった、俺自身に」
声が途切れた。
ヴァルターの灰色の目から、一滴、涙が落ちた。
頬の刀傷を伝い、顎から落ちた。音もなく。
それが最初の一滴だった。
堰が、切れた。
ヴァルターが顔を覆った。両手で。大きな、軍人の手で。
嗚咽が漏れた。低く、深く、体の底から絞り出すような声。この男が十二年間、一度も流さなかった涙が、書斎の朝の光の中で溢れていた。
俺は動かなかった。
何も言わなかった。
カウンセラーの仕事は、涙を止めることではない。涙が流れるのを、黙って守ることだ。




