第76話 殴られたカウンセラーは、立ち上がる
石畳の冷たさが背中に伝わっている。
頬が熱い。鉄の味がする。唇の端が切れたらしい。
視界の端で、リゼが剣を抜きかけているのが見えた。フランの魔法陣が回転している。ルナの短剣が光を反射している。
俺は息を吸った。
「手を出すな」
声を張った。床に倒れたまま。
「全員、手を出すな!」
リゼが歯を食いしばった。「でもっ――」
「頼むから。出すな」
俺の声に、リゼが止まった。剣を握る手が震えている。だが、鞘には戻さないまでも、抜かなかった。フランの魔法陣が回転を止めた。ルナの短剣が袖の中に消えた。
俺は石畳に手をついて、ゆっくりと立ち上がった。
頬が腫れ始めている。視界が少しぼやける。だが、立てる。
ヴァルター公爵は、拳を握ったまま立っていた。
殴った右手が、微かに震えている。怒りで殴ったのだとしたら、その拳は震えない。震えているのは、感情が怒りだけではないからだ。
俺はヴァルターの目を見た。
灰色の瞳。
怒りの奥に、別のものがある。
「……あなたの怒りは、正しい」
声を落とした。議場全体ではなく、目の前のこの人に向けて。
「家族を奪われた。その怒りを否定する権利は、俺にはない。誰にもない」
ヴァルターの目が揺れた。
「でも」
一歩、近づいた。殴られるかもしれない距離。だが、カウンセラーはクライアントとの距離を間違えてはならない。今は、近い方がいい。
「その怒りの下にある、本当の感情を」
ヴァルターの拳が、さらに強く握り込まれた。
「俺に、聞かせてください」
沈黙。
議場の四十人が息を止めていた。
ヴァルターの灰色の目が、俺を射貫いている。怒りと、それ以外の何かが、灰色の中で渦を巻いていた。
五秒。
十秒。
ヴァルターが目を逸らした。
「……議長」
低い声で、背を向けたまま言った。
「本議題について、反対の立場は変わらん。だが……本日はこれ以上、議論する気はない」
ヴァルターが階段を上り始めた。一段ずつ。来た時と同じ軍靴の音が石段を打つ。だが、降りてきた時とリズムが違っていた。ほんの僅かだが、足取りが重い。
最上段の席に戻り、腰を下ろし。
それ以上、一言も発しなかった。
◇
議会は、結論の出ないまま閉会した。
「継続審議」というのが議長の宣言だった。否決されなかっただけましだ、とフランは言った。だが表情は険しかった。
王城を出ると、夕暮れだった。
俺の頬は紫に腫れ、唇の端のかさぶたが引きつっている。セラフィーナが治癒魔法をかけようとしたが、俺は断った。
「……明日、公爵に会いに行きます。傷が残っていた方がいい」
「なぜ?」リゼが不満そうに言った。
「殴ったことを覚えていてもらうためです。傷が消えていたら、あの人は自分のしたことをなかったことにできてしまう」
フランが静かに頷いた。「……カウンセラーの戦略ね」
宿への帰り道。
ヒロインたちが前を歩き、俺は少し遅れて歩いていた。ディアブラが、その隣にいた。
しばらく無言で歩いた後、ディアブラが口を開いた。
「……あの男の家族を殺したのは」
低い声。フードの奥の赤い瞳が、石畳を見つめている。
「私の、部下かもしれないのだな」
「…………可能性はあります」
「十二年前の東部辺境侵攻。あれは……私が命じた作戦の一つだ」
俺は足を止めなかった。ディアブラも止めなかった。二人とも、歩きながら話した。面談室ではなく、夕暮れの石畳の上で。
「直接手を下したのは部下だろう。だが、命じたのは私だ。あの男の妻と娘を殺したのは、私だ」
「…………」
「あの男に、私は何と言えばいいのだ」
ディアブラの声が、微かに掠れていた。
「今は、何も言わなくていいです」
「……何も?」
「今のあなたが何を言っても、あの人には届かない。あの人の怒りは十二年分の重さがある。言葉一つで消せるものではない」
「では、どうすればいい」
「いつか。あなた自身の言葉で。今ではなく、あなたが本当に自分のしたことと向き合えた時に」
「……向き合えた時、か」
「それがいつになるかは、俺にもわかりません。カウンセリングに期限はないんです」
ディアブラがフードの下で唇を噛んだ。
夕日が王都の屋根を染めている。昨日と同じ景色だ。だが、この魔王の目に映る色は、昨日とは違うだろう。
市場の活気。りんごの甘さ。笑い声。
そして、その全てを奪う側にいた自分。
加害者としての自覚が、旅の中で、少しずつ芽生え始めている。
◇
宿に戻ると、ヒロインたちが俺を取り囲んだ。
セラフィーナが再度治癒を申し出て、フランが氷嚢を用意し、ルゥが「お兄さんの顔が……!」と半泣きになり、アリスが「先生、痛くないですか!?」と慌てふためいた。
リゼだけが、少し離れた壁に背を預けていた。
全員が部屋に引き上げた後、リゼが廊下で俺を呼び止めた。
「ナギ」
「ん?」
「殴られた時、怖くなかったの?」
リゼの声は、いつもの砕けた口調ではなかった。静かで、真剣だった。
俺は腫れた頬に触れた。じくりと痛む。
「怖かったよ」
「……」
「でも、あの人の目は怒ってるんじゃなくて、泣いてた」
リゼが目を見開いた。
「怒りの奥で泣いてる人を前にして、逃げるわけにはいかない。それは……俺の仕事だから」
リゼは何も言わなかった。
ただ、俺の手を取り、ぎゅっと握った。
強く。Aランク冒険者の握力で。痛いくらいに。
「……ナギは……バカだよ」
「よく言われるな」
「褒めてない」
「それもよく言われる」
沈黙が数秒流れた。リゼの手が、僅かに震えている。
「……ナギ。あんたが許しても」
リゼの声が、低く、静かになった。普段の砕けた口調が消え、Aランク冒険者の――剣に生きる者の声が残った。
「私の剣が許せるかは、別の話だから」
その一言に、怒りはなかった。
脅しでもなかった。
ただ、事実だけがあった。ナギを傷つけた者を、この剣士は一生忘れない。今はナギの判断を信じて鞘に収めている。だが、収めているだけだ。
「……リゼ」
「わかってる。ナギが会いに行くって言うなら、止めない。ナギの仕事だってのも、わかってる」
リゼが手を離した。目が少し赤かった。
「でも、明日。あたしも一緒に行く。部屋の外で待ってる。それだけは、譲らない」
「……わかった」
断る理由はなかった。カウンセリングの原則から言えば、クライアントとの面談に第三者は不要だ。だが、廊下で待つだけなら支障はない。
そして正直に言えば、ありがたかった。
「……おやすみ」
「おやすみ。明日も、よろしく」
リゼが背を向けて歩いていった。
廊下に一人残された俺は、腫れた頬を押さえ、天井を見上げた。
明日は、ヴァルター公爵のもとを訪ねる。
怒りの下にある涙に、触れに行く。
……胃薬が必要だ。今すぐに。




