第74話 力の王と、迷いの王
宿に戻ると、ディアブラが窓辺に腰かけていた。
フードを外し、暗い紫の髪を下ろし、窓の外の夕暮れを見つめている。角が夕日を受けて、薄く光っていた。部屋にはディアブラ一人だ。ヒロインたちはそれぞれの部屋に散っている。
「リヒャルトに会ったな」
俺が部屋に入ると、ディアブラは振り向かずに言った。
「ええ」
「あの男は王の器ではない」
声に苛立ちが混じっていた。
「決断ができぬ者に国は治められん。民のためと言いながら、何一つ動かせない。三ヶ月、だと? 三ヶ月あれば魔脈の状況はさらに悪化する。あの男は優しさに逃げているだけだ」
ディアブラの指が、窓枠を軽く叩いた。苛立ちの表れだ。
「……あなたの言うことには一理あります」
「当然だ」
「でも、一つだけ聞いてもいいですか」
俺は椅子に座り、ディアブラの横顔を見た。
「リヒャルト王の治世で、民は害されていますか」
「……何?」
「虐殺は? 弾圧は? 強制労働は?」
「……ない。それは認める」
「飢饉は? 疫病の放置は?」
「……聞く限り、それもない。穏当な統治だ」
「つまり、力で従える王よりも、迷う王の方が、少なくとも人は死んでいない」
ディアブラの指が止まった。
沈黙が部屋を満たした。夕日が白い髪を赤く染めている。
「……それは」
「これは比較の話です。どちらが優れた王か、ではなく。どちらの統治で、より多くの民が生きているか」
ディアブラは答えなかった。
答えなくてよかった。答えは、この魔王自身が一番わかっている。
力で世界を統一しようとした魔王の治世で、魔族の兵はどれだけ死んだか。恐怖で従えた部下たちは、どれだけ疲弊したか。
決断できない王は、誰も傷つけない代わりに、何も変えられない。
決断しすぎた王は、世界を変えようとして、足元の者たちを踏みにじった。
どちらも、不完全だ。
「……貴様は、嫌なことを言う」
「仕事ですから」
「それで金を貰っているのか」
「受付の給料です」
「…………ふん」
ディアブラが窓の外に視線を戻した。王都の屋根が夕日に染まり、煙突から夕餉の煙が立ち上っている。今朝見た市場の活気が、この時間には静かな温もりに変わっている。
「……あの王が迷うのは、弱さではなく。傷つけたくないからか」
「俺はそう見ています」
「私は迷わなかった。だから傷つけた」
「…………」
「どちらが正しいのだろうな」
「どちらも正しくないし、どちらも間違っていない。大事なのは、これからどうするかです」
ディアブラが小さく息を吐いた。温泉で練習した「はぁー」より、ほんの少しだけ自然な溜息だった。
「……りんごの残り、食うか」
「いただきます」
ディアブラが今朝買ったりんごの残り二つを差し出した。
二人で黙って、りんごを齧った。
じゃくり、じゃくり。
夕日が沈んでいく。
◇
夜。
フランが全員を集めて短い作戦会議を行った後、リヒャルトからの伝言が届いた。
侍従が持ってきた書簡には、丁寧な筆跡でこう書かれていた。
『明日、貴族議会の定例会にて、ナギ殿の件を議題として提出いたします。議会での説明の機会を設けますので、ご準備のほど。なお、ヴァルター公爵も出席されます。お覚悟を。』
最後の一文だけ、筆圧が強かった。決断できない王なりの、精一杯の警告だった。
「ヴァルター公爵……」俺は書簡を閉じた。「ガルバスが言っていた強硬派ですね」
フランが資料を繰った。「ルナが盗賊ギルドのネットワークで集めた情報によると、ヴァルター公爵は軍部の支持を受けた対魔族強硬派の筆頭。貴族議会で最大の発言力を持つ人物よ」
ルナが影の中から静かに言った。「……情報の出処も、おそらくこの公爵の周辺だ。『ギルドの受付が魔族と内通している』という噂を流す動機と手段を持っている」
リゼが剣の柄を握った。「つまり、敵はダンジョンの魔物じゃなくて、貴族のおっさんってこと?」
「剣では解決できない敵だ」
「……わかってるよ。わかってるけどさ」
アリスが手を挙げた。「先生。私、貴族議会に行ったことがあります。勇者として呼ばれたことがあるので。空気は……重いです。あと、椅子が硬いです」
「硬い椅子に長居はしたくないけど……忍耐が必要かもな」
ディアブラが腕を組んだ。
「私も行く」
全員がディアブラを見た。
「ディア。貴族議会には各方面の有力者が集まる。魔力感知に長けた者がいないとは限らない」
フランの指摘に、ディアブラは一瞬だけ目を伏せた。
「……変装が崩れない自信は?」
俺が聞くと、ディアブラは数秒の間を置いて答えた。
「…………努力する」
不安しかない。
「フラン。魔力遮断の術式、明朝もう一度上書きしてもらえますか」
「当然。三重にかけるわ」
「セラフィーナ、聖属性のコーティングも追加で」
「御任せくださいまし。万が一に備え、緊急浄化の準備もしておきますわ」
「リゼ。万が一の戦闘離脱ルートを確認してください」
「了解。王城の見取り図はルナが調達済み。三つの脱出経路を確保してある」
「……ナギ。その万が一の想定、具体的には何が起きた場合だ」
「ディアブラの正体がバレた場合です」
「…………」
「大丈夫です。そうならないように全力を尽くしますから」
「……全力を尽くした上で失敗した場合は?」
「全員で走って逃げます」
「……人魔和平プロジェクト、初日で破綻するぞ」
「だから全力を尽くすんです」
ディアブラが俺を見た。赤い瞳に、不安と、それでも前に進もうとする意志が混在していた。
「……わかった。努力ではなく、全力を尽くす」
「それでお願いします」
明日は貴族議会。
相手は、王都で最も厄介な男。
胃が痛い。文字通り、物理的に痛い。
……胃薬、足りるかな。




