第73話 優しすぎる王は、三ヶ月と言った
王城は、市場の活気とは対照的な静けさに包まれていた。
白亜の壁、磨かれた大理石の床、天井から下がる魔灯の柔らかな光。廊下には王家の紋章が刺繍されたタペストリーが並び、甲冑を着た衛兵が等間隔で立っている。
ギルドマスターの紹介状と、俺の身分を証明する書類を提示し、俺たちは謁見の間の手前にある応接室に通された。
全員が揃っている。市場で散り散りになったヒロインたちとは宿で合流済みだ。合流直後のリゼの「あんた、ディアと二人で市場回ったでしょ」という詰問と、フランの「行動ログの提出を求めるわ」という要求は、王城に向かう馬車の中で処理した。処理というか、ひたすら謝った。
リゼ、フラン、ルナ、セラフィーナ、アリス、そしてディアブラ。全員が事前に打ち合わせた通りの服装と立ち位置で、フランが用意した資料を手元に置いている。
「ナギ。確認するけれど」フランが小声で言った。「今日は挨拶と自己紹介、目的の概要説明まで。交渉の詳細には踏み込まない。フェーズ1の初手よ」
「わかってます」
「それと、ディアの発言は最小限に。助手として記録係に徹してもらう」
フランがディアブラに目を向けた。ディアブラは小さく頷いた。この数日で、チーム内の指示系統は自然と固まりつつある。方針はナギ、戦術はフラン、戦闘はリゼ、情報はルナ、医療はセラフィーナ、広報はアリス。そしてディアブラは――まだ、居場所を探している。
扉が開いた。
侍従が一礼し、俺たちを奥の部屋に導いた。
◇
国王リヒャルトは、穏やかな男だった。
四十代半ばだろうか。柔和な顔立ちに灰色がかった金髪。王冠は被っておらず、簡素な上衣に王家の紋章が刺繍されたマントを羽織っている。玉座ではなく、テーブルを挟んだ椅子に座っていた。
第一印象は、「この人は、人を傷つけたくない人だ」。
「ようこそ王都へ。冒険者ギルドのナギ殿ですな。ガルバス殿からは書状を頂いております」
声も穏やかだった。張り詰めたところがない。良く言えば温厚、悪く言えば覇気がない。
「はい。ギルド受付のナギと申します。本日はお時間をいただきありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそ。遠路はるばる。……して、人魔和平プロジェクトとのことですが」
リヒャルトが書状を開いた。ガルバスが書いたギルドの公式文書。フランが下書きし、俺が手直しし、ガルバスが署名した。
「……ほう。魔族との和平交渉。大胆な提案ですな」
「はい。現在、魔王軍は指導者の方針転換により、対話による共存を模索しています。その橋渡しを、ギルドとして行いたいと考えております」
「なるほど、なるほど……」
リヒャルトが顎に手を当てた。穏やかな目が、書状と俺の顔を交互に見ている。
「素晴らしい志だと思います。私も平和を望む一人です。戦いで民が苦しむのは、王として忍びない」
ここまでは良い。問題は、ここからだった。
「ただ、これは私一人で決められることではありませんでな」
リヒャルトの表情が、ほんの少し曇った。
「貴族議会との調整が必要ですし、教団の意向も確認せねばなりません。各方面の意見を聞いてから、慎重に進めたいと思います」
フランが俺の隣で、メモ帳に一言だけ書いた。
『典型的な決断回避』
俺にだけ見える角度で。
「……それは、どのくらいの時間がかかりますか」
「そうですなあ……。まずは議会に議題として提出して、委員会で審議して、各派閥の意見を取りまとめて……三ヶ月ほど見ていただければ」
「三ヶ月」
「いえ、もう少しかかるかもしれません。ヴァルター公爵は強硬派でしてな。教団も魔族との融和には慎重な立場です。拙速に進めると反発を招きますから、丁寧に、丁寧に……」
丁寧に。
その言葉が、何度も繰り返された。
リヒャルトは善良だ。誠実だ。民を想っている。それは嘘ではないと、カウンセラーの直感が告げている。
だが、この人は決められない。
全方向に配慮し、誰も傷つけまいとするあまり、何も動かせない。善良さが足枷になっている。
「……ありがとうございます、陛下。まずは議会への議題提出をお願いできますか。我々としても、議会の方々にご説明する準備がございます」
「ええ、ええ、それは良いですな。議題の提出だけなら、私の裁量でできます。では近日中に……ああ、ただ来週は収穫祭の準備がありまして……」
フランが二つ目のメモを書いた。
『重症』
◇
面会を終え、廊下に出た。
ヒロインたちは先に応接室に戻り、俺は一人、王城の長い廊下を歩いていた。フランとの作戦会議の前に、少し頭を整理したかった。
その時、ふと足を止めた。
廊下の突き当たり、窓の前。
リヒャルトが、一人で立っていた。
さっきまでの穏やかな笑顔はなかった。窓枠に手をつき、肩を落とし、深い溜息をついている。横顔には、疲弊の色が滲んでいた。
俺に気づいていない。
「……また、先延ばしにしてしまった……」
小さな呟きが、廊下に反響した。
「私は……いつもこうだ……」
リヒャルトが額を窓ガラスに押し当てた。その背中は、王というより、荷物を背負いすぎた旅人のようだった。
俺は足音を立てず、その場を離れた。
見てはいけないものを見た、という罪悪感が少しある。だがカウンセラーとしての観察が、勝手に働いていた。
この人は、自分が決断できないことを自覚している。自覚した上で、苦しんでいる。それでも変えられない。
……俺と、少し似ている。
他人のためなら動ける。他人の痛みには寄り添える。だが、自分自身のことになると、途端に足が止まる。決断を先延ばしにする。逃げているわけではない。ただ、誰かを傷つけることが怖いのだ。
善良さは、美徳だ。だが、善良さだけでは世界は動かない。
それは、俺自身の課題でもある。




