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異世界ギルド受付の俺、病んだ美少女冒険者たちをカウンセリングしたら全員「私だけ見て」とヤンデレ化した  作者: 他力本願寺


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第72話 銅貨三枚のりんごと、猫を知らない王

王都ルクセリアは、想像以上に巨大だった。


 三重の城壁に囲まれた都市の中心に王城がそびえ、その周囲を貴族街、商業区、学術区、下町が同心円状に取り巻いている。街道から正門をくぐった瞬間、喧噪が波のように押し寄せてきた。


 馬車の幌越しでは伝わらなかった音の洪水。人の声、馬蹄の響き、荷車の軋み、鍛冶屋の槌音、どこかで演奏されている弦楽器の旋律。


 そして、何より。


 笑い声。


 子供たちが路地を走り回り、商人が客と値切り合い、酒場からは昼間から歌声が漏れている。通りには花売りの少女が立ち、肉屋の主人が声を張り上げ、洗濯物が二階の窓から風に揺れている。


 馬車を降りた瞬間、ディアブラが足を止めた。


「…………」


 黒いフードの奥で、赤い瞳が見開かれていた。


 まるで、初めて光を見た人のように。


「ディアさん、立ち止まると人の流れが詰まります」


「……ああ。すまない」


 ディアブラが歩き出す。だがその足取りは明らかにぎこちなく、視線が左右に泳いでいる。人間の群衆の中を歩くこと自体が、この魔王にとっては未知の体験なのだ。


 宿に荷物を預けた後、俺たちは王城への面会の時間まで市場を散策することにした。ディアブラに人間社会の空気を感じてもらうためでもあるし、長旅の後の気分転換でもある。


 当然、誰がナギと回るかで一瞬空気が張り詰めた。


 リゼが「あたしが護衛」と名乗り、フランが「書店を回りたいから私が案内役」と主張し、ルゥが「お兄さんと食べ歩き!」と飛び跳ね、セラフィーナが「大聖堂でお祈りをご一緒に」と微笑み、アリスが「先生、服を見たいです!」と目を輝かせた。


 五方向の牽制が膠着した隙に、中央市場の入口から荷馬車の大群が通りを横切った。見物人の波がどっと押し寄せ、牽制し合って身動きの取れなくなっていたヒロインたちが群衆に流されていく。


 俺は咄嗟に、隣で立ち尽くしていたディアブラの袖を引いて路地に退避した。


「……見事に散っていったな」


「後で怒られるのは俺なんですが」


 遠くから「ナギ! 動かないで!」「ナギ様ーっ!」という声が聞こえてくるが、この人混みでは合流に時間がかかる。


 結果、俺とディアブラの二人で市場を歩くことになった。


 助手と上司の市場視察。設定上は何の問題もない。


 問題は、この助手が数百年生きた魔王であるという事実だけだ。


 ◇


 中央市場は、五つの広場を繋ぐ巨大な商業空間だった。


 果物、野菜、肉、魚、香辛料、布地、革製品、薬草、魔道具。ありとあらゆるものが売られ、ありとあらゆる声が飛び交っている。


 ディアブラは一つ一つの露店を、まるで古文書を読むように見つめていた。


 最初に足を止めたのは、りんご売りの屋台だった。


 木箱に赤い実が山積みにされ、初老の女が番台に座っている。秋の日差しを浴びたりんごは艶やかで、甘い香りが漂っていた。


「…………」


 ディアブラがりんごを一つ手に取り、じっと見つめた。


「これはいくらだ」


「銅貨三枚だよ、お嬢さん」


 お嬢さん。数百年を生きた魔王がお嬢さんと呼ばれている。変装は完璧ということだろう。


「銅貨三枚……」


 ディアブラが小声で呟いた。だが、その「小声」は魔王基準であり、一般社会の基準では普通の声量だった。


「安い……我が城の食糧予算でいくつ買えるか……計算するのが恐ろしい」


「ディアさん。独り言が大きいです」


 俺が慌てて袖を引くと、ディアブラは口を押さえた。


 りんご売りの女が首を傾げている。「お城って、どこかの領主のお嬢様かい?」


「北方辺境の、えーと、小さな館の出でして。人見知りで世間知らずなんです、この助手」


「あらまあ、お嬢様が市場巡りなんて珍しいねえ。じゃあおまけしとくよ、四つで銅貨十枚でどうだい」


 ディアブラが俺を見た。値切りの概念を教えたのは昨日の馬車の中だが、実践は初めてだ。


「……適正か?」


「適正です。どうぞ」


 ディアブラが懐から銅貨を取り出した。一枚ずつ、丁寧に数えて渡す。金貨を投げない。ちゃんと手渡しだ。昨日のマナー講座は不要だったが、通貨の種類を覚えさせたのは正解だった。


 りんごを受け取ったディアブラが、一つを手の中で転がした。


「……こんなにも簡単に、食べ物が手に入るのか」


「王都は流通が整備されてますから。産地から毎日運ばれてきます」


「魔王城の食糧は、すべて魔族の兵が狩りで調達していた。農業は魔素濃度が高すぎて成り立たない。りんご一つ手に入れるのに、どれほどの労力がかかっていたか」


 ディアブラがりんごに齧りついた。


 じゃくり、と小気味よい音。


「…………」


「どうですか」


「……甘い」


 それだけ言って、ディアブラは黙った。


 二口目を齧る時、フードの奥の目が少しだけ細まっていた。


 ◇


 市場を歩きながら、ディアブラは少しずつ口を開いた。


 鍛冶屋の前で足を止め、職人が鉄を打つ姿を見つめた。


「……技術がある。道具を作り、売り、生活の糧にする。当たり前のことだが、魔王城にはこれがなかった」


 布地屋の色とりどりの反物を指先で触れた。


「魔族の衣服は防具と兼用だ。美しさのために布を織るという発想がない」


 広場で大道芸人が火を吹き、観客が歓声を上げるのを遠くから見つめた。


「……楽しむために人が集まっている。戦うためではなく、働くためでもなく。ただ、楽しむために」


 その声に、批判の色はなかった。

 驚きと、微かな痛みだけがあった。


「ディアブラ」


 俺は人混みから少し離れた路地の木陰に入り、声を落とした。ここなら周囲に人はいない。


「少し、話しませんか」


「……カウンセリングか」


「道中カウンセリングです。面談室は使えないので」


「木の下で立ったままか。随分と雑だな」


「場所は関係ありません。大事なのは、あなたが今感じていることを言葉にすることです」


 ディアブラはりんごの芯を見つめていた。四つ買ったうちの一つ目を食べ終えたところだ。


「……私が玉座にいる限り」


 静かな声だった。


「部下たちは、こんな顔で笑わなかった」


 市場の喧噪が、遠い潮騒のように聞こえる。


「恐怖で統治するとは、こういうことだ。笑い声が消える。雑談が消える。楽しみが消える。残るのは命令と服従と、静寂だ」


「……それに気づいたのは、いつですか」


「今日だ。この市場を歩いて、初めて理解した。理屈ではわかっていた。だが、体で理解したのは今日が初めてだ」


 ディアブラがフードの奥から市場を見た。笑い声と活気に満ちた、人間の日常。


「ナギ。私は、自分の城をこういう場所にしたかったのだろうか」


「それは俺に聞くことではなく、あなたが答えることです」


「…………」


「ただ、一つ言えることがあります。気づけたということは、変われるということです。気づかないままなら、変わりようがない。今日この市場を歩いたことは、無駄ではないですよ」


 ディアブラは何も言わず、二つ目のりんごを手に取った。


 齧りついた。


 じゃくり。


「……甘いな」


「さっきも言ってましたよ」


「二回言って悪いか」


 悪くない。

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