第71話 りんごは甘いと、魔王が二回言った
ギルドの入口。
馬車は既に準備が整っていた。フランが手配した四頭立ての大型馬車。幌にはギルドの紋章が入っている。ガルバスの信用がそのまま形になったようなものだ。
ヒロインたちは馬車の周りで最終確認をしている。リゼが剣の手入れ、フランが資料の整理、ルゥが携行食の確認、セラフィーナが聖印の祈り、アリスが聖剣の結界チェック。ディアブラは黒いフードの中で静かに佇んでいる。
ガルバスがギルドの入口から出てきて、ヒロインたちの前に立った。
巨体が夕日に影を作る。腕を組み、一人ずつ顔を見渡す。
「……お前ら」
低い声だった。いつもの豪快さが、ほんの少しだけ引っ込んでいる。
「ナギを頼むぞ」
リゼが背筋を伸ばした。
「当然。あたしが守る」
「お前が一番危なっかしいんだよ。暴走すんなよ」
「……善処します」
「ガハハ、リゼが善処って言葉使うとは。ナギの教育の成果だな」
フランが一歩前に出て、小さく頭を下げた。
「ギルドマスター。戦略面は私が担当します。ナギの判断力が鈍らないよう、情報整理と意思決定支援を徹底しますので」
「おう。頼りにしてる。……だが、お前も根を詰めすぎるなよ。ナギの真似して倒れたら元も子もねえ」
「……肝に銘じます」
ルゥが駆け寄ってきた。
「ガルバスさん! ルゥ、お兄さんのこと絶対守るからね!」
「おう。お前は明るいからな。あいつの周りに笑い声があるだけで、だいぶ違う」
ルナに切り替わり、静かに言った。
「……情報収集は任せてほしい。ナギが不利になる状況は、事前に潰す」
「いい目だ。盗賊ギルドの嬢ちゃんにしか頼めねえ仕事がある。やってくれ」
セラフィーナが深く一礼した。
「ギルドマスター様。ナギ様のお身体は、この身に代えてもお守りいたしますわ」
「身に代えるな。お前も含めて全員無事で帰ってこい。それが条件だ」
「……はい。かしこまりましたわ」
アリスが胸の前で拳を握った。
「ガルバスさん! 私は勇者として、先生をお守りします!」
「ガハハ、勇者様がギルドの受付を守るってのも妙な話だがな。頼むぞ、アリス」
「はいっ!」
ガルバスが一人ずつに声をかけ終え、最後に視線が止まった。
黒いフードの、傍聴者。
ディアブラ。
ガルバスはナギから大まかな事情を聞いている。フードの下に誰がいるか、知っている。
だが、ガルバスは「魔王」としてではなく、目の前に立つ一人の存在に向けて口を開いた。
「……ディアさん、だったか」
「……ああ」
ディアブラが微かに身構えた。人間のギルドマスター。武闘派。自分の正体を知っている数少ない人間。警戒するのは当然だ。
ガルバスが、にっと笑った。
「肩肘張んなよ」
「……何?」
「見りゃわかる。お前、一人で全部背負おうとする顔してんだ。ナギと同じ顔だよ」
ディアブラが目を見開いた。フードの奥で、赤い瞳が揺れた。
「難しいことはわからん。政治も外交も俺には無理だ。だがな、一つだけ確かなことがある」
ガルバスが太い指でナギの方を指した。馬車の荷物を確認している背中。
「あいつは頼れば応えてくれる。誰に対してもだ。だから遠慮すんな。困ったらナギに言え。泣きたかったらナギに泣け。あいつはそういう奴だ。俺もそうしてきた」
「……あなたが?」
「おう。ギルドマスターだって泣きたい夜はある。ガハハハッ!」
豪快な笑い声が、ギルドの前に響いた。夕日の中で、あの笑い声だけはいつも通りだった。
ディアブラは何も返さなかった。
だが、フードの下で、唇の端が微かに動いた。何か言おうとして、やめて、代わりに小さく頭を下げた。
数百年を生きた魔王が、人間のギルドマスターに頭を下げた。
ガルバスはそれ以上何も言わず、ただ大きな手でディアブラの肩をぽん、と叩いた。
その手は、かつて路頭に迷っていた俺を拾い上げた時と、きっと同じ重さだったのだろう。
◇
俺はギルドの入口に立ち、受付カウンターを振り返った。
壁に、羊皮紙が貼ってあった。
十二枚の、手書きの羊皮紙。
『こころの相談窓口 注意事項』
一、受付窓口周辺での野営を禁止する。
二、相談員への専属契約の強要を禁止する。
三、当窓口は二十四時間営業ではない。
――全部、残っていた。
一枚も剥がされていない。
「……マスター」
「ん?」
「あの注意書き、まだ貼ってあるんですね」
ガルバスが鼻で笑った。
「お前の作品だろ。剥がすわけねえだろ」
「作品って、あれはただの業務掲示で……」
「ただの業務掲示が、百人以上の冒険者を救ったんだ。立派な作品だよ」
ガルバスが腕を組み、ギルドの入口の柱に背を預けた。
夕日が差し込んでいる。ガルバスの大きな影が、ギルドの床に長く伸びていた。
「行ってこい」
短い言葉だった。ガルバスらしい。この人は、大事なことほど短く言う。
「帰ってきますよ」
「……ああ。待ってる」
ガルバスの声が、ほんの少しだけ揺れた。
俺は気づかなかったことにした。この人の前で泣くわけにはいかない。
背を向け、馬車に向かって歩き出す。
十二枚の羊皮紙が、背中に貼りついているような気がした。
◇
馬車の中では、既に戦争が始まっていた。
「ナギの隣は私。担当だから」
「論理的に、移動中の護衛配置を考慮すれば私が最適よ」
「お兄さんの隣はルゥだよー!」
「……俺が壁際で良い。ナギの左を守る」
「ナギ様のお傍にはこのセラフィーナが……」
「先生! 弟子は師匠の隣です!」
六人が四人がけの馬車の中で、物理的に存在不可能な座席配置を主張している。
俺は黙って馬車を降り、御者台に登った。
「……御者台、広いな」
風が気持ちいい。誰も隣にいない。平和だ。
馬車の中から抗議の声が上がったが、手綱を握ってしまえばこっちのものだ。運転手に文句を言う乗客はいない。いや、いるかもしれないが聞こえないことにする。
幌の中から、ディアブラの低い声が漏れてきた。
「……この私が、馬車の隅に押し込められるとは」
「助手は静かにしてて」
「助手は奥が定位置よ」
「ディアちゃん、ルゥの膝に座る?」
「座らん」
「……ディア、詰めろ。荷物が入らない」
「荷物扱いするな」
「ディア様、こちらのクッションをどうぞ」
「…………もういい。隅で構わない」
魔王が隅に押し込められている。一般人の洗礼、第二弾。数百年間、玉座の中央に座り続けた者が、馬車の隅で膝を抱えている。民主主義とはかくも残酷なものである。
馬車が動き出した。
街道に出ると、風景が開けた。麦畑が広がり、農夫が鍬を振り、子供たちが畦道を走っている。石造りの農家の煙突から夕餉の煙が上がり、牧草地では牛がのんびりと草を食んでいる。
何の変哲もない、人間の農村の風景。
御者台から後ろを振り返ると、幌の隙間からディアブラが窓の外を食い入るように見ていた。
フードの奥の赤い瞳が、麦畑を映している。農夫の姿を映している。走り回る子供たちを映している。
生まれて初めて見る光景を、一つも見逃すまいとするように。
「……人間は、こうやって暮らしているのか」
小さな声だった。俺にだけ聞こえるくらいの。
「ええ。こうやって暮らしてます」
「……静かだな」
「そうですね」
「魔王城には、こういう景色がない」
ディアブラが少しだけ目を細めた。夕日に照らされた麦畑が、赤い瞳の中で金色に揺れている。
「……悪くない」
また、その言葉だ。
温泉も、ぷかぷかも、民主主義も、馬車の隅も、農村の風景も。全部「悪くない」。
嫌いではない、と素直に言えない代わりの、精一杯の肯定。
俺は前を向き、手綱を握り直した。
ここからは国を相手にする。
貴族議会。政治の泥沼。歪められた和平の噂。
カウンセリングの椅子ではなく、交渉のテーブルが待っている。
……胃薬、足りるかな。
隣で、誰もいない御者台の風を受けながら、俺は一人、そんなことを考えていた。
街道の先に、王都の尖塔が薄く光っている。




