第70話 十二枚の注意書きと、帰ってくる場所
温泉宿を発ったのは、夜明け前だった。
ガルバスからの緊急通信を受けてから、全員の切り替えは早かった。フランが即座にロードマップを修正し、リゼが馬車の手配を確認し、ルナが街道の安全情報を宿場町の情報屋から引き出し、セラフィーナが全員に聖光の加護をかけ、アリスが携行食を調達した。
ディアブラは黒いフードを深くかぶり、静かに馬車に乗り込んだ。
昨夜のぷかぷかが嘘のように、あの赤い瞳は再び硬い光を帯びていた。
街道を半日ほど走り、昼過ぎに見慣れた街並みが視界に入った。
冒険者ギルドのある街。俺がこの世界で最初に拾われ、受付に座り、窓口を開いた場所。
「……帰ってきたんだな」
馬車の窓から見える石造りの建物は、数週間前と何も変わっていないように見えた。
だが、中に入った瞬間、俺は言葉を失った。
◇
受付カウンターの上に、書類の山が三つそびえていた。
一つ目は未処理の依頼書。二つ目は冒険者からの苦情報告。三つ目は――何だあれは。高さが俺の背丈に迫っている。
「あれは、冒険者のメンタルケア要望書だ」
背後から低い声が響いた。
振り返ると、ギルドマスター・ガルバスが立っていた。
巨体。厳つい顔。額の傷。腕を組み、壁に背を預けている。いつもなら「ガハハハッ!」と笑い飛ばす男が、今日は静かだった。
「……すみません、マスター」
俺が頭を下げると、ガルバスは鼻で笑った。
「謝んな」
太い腕で書類の山を示す。
「お前がいない間、俺たちがどんだけお前に頼ってたか思い知らされた。受付は回る。依頼の査定もできる。報酬の計算もできる。――だがな」
ガルバスが書類の山を一つ、指で弾いた。紙の束がぱさりと崩れる。
「冒険者がぽつぽつと受付に来るんだよ。『ナギさんいますか』って。依頼じゃねえ。話を聞いてほしいだけだ。俺が代わりに聞こうとしたが――」
ガルバスが少しだけ、ほんの少しだけ、苦い顔をした。
「俺じゃ駄目だった。『ガルバスさんは優しいけど、ナギさんみたいには聞けない』って言われたよ。ガハハ……いや、笑えねえな」
「……マスター」
「いい薬だったよ。お前が特別なことをしていたんだって、身に沁みた」
ガルバスが壁から背を離し、俺の肩に手を置いた。重い。物理的にも、意味的にも。
「――で、本題だ」
ガルバスの目が変わった。ギルドマスターの目だ。街一つの冒険者を束ねる、責任者の目。
「ナギ。お前に正式な特命を出す」
ガルバスが懐から一通の封書を取り出した。ギルドの紋章が蝋で封じてある。
「人魔和平特任プロジェクトマネージャーとして、各国を歴訪せよ。ギルドの名前と信用を使っていい。俺の署名入りだ。各支部への通達も出してある」
封書を受け取る。羊皮紙の手触りが、やけに重い。
「……いいんですか。ギルドの信用を、こんなことに使って」
「こんなことだと?」
ガルバスが眉を上げた。
「世界を変えようってんだろ。冒険者ギルドは冒険者のためにある。冒険者が安心して冒険できる世界を作るなら、それはギルドの仕事だ。理屈は通ってる」
ガルバスがにやりと笑った。
「それにな。お前が前に言っただろ。『事実が全てです』って。なら事実を見ろ。お前はギルド始まって以来、最も多くの冒険者を救った受付だ。その実績が信用になる。誰が文句を言おうが、数字は嘘をつかねえ」
……この人は、いつだって俺の背中を押す。最初に路頭に迷っていた俺を拾った時から、何も変わらない。
「ありがとうございます」
「礼はいらん。結果で返せ」
ガルバスが再び腕を組んだ。
「あと一つ。王都の話だが」
ガルバスの声が一段低くなった。
「和平の件が漏れてるのは確かだ。どこから漏れたかはまだ掴めてねえ。だが、貴族議会の中に『冒険者ギルドが魔族と通じている』って吹聴してる奴がいる。名前はわからん。ただ、相当上の方だ」
「……王都に着いてから調べます」
「ああ。気をつけろよ。ダンジョンの魔物より、宮廷の人間の方がよっぽど厄介だ」
ガルバスが言い終えた時、受付カウンターの奥から一人の冒険者がおずおずと顔を出した。
◇
若い男だった。
革鎧に身を包み、短剣を腰に佩いた、Dランク程度の冒険者。顔色が悪く、目の下に隈がある。俺がギルドにいた頃、何度か窓口に来たことがある――確か、パーティーの人間関係で悩んでいた青年だ。
「ナ、ナギさん……! いなくなったのかと思って……」
彼の声が震えていた。
「すみません。少し出張が長引きました」
「あの、俺……ナギさんがいなくなってから、また前みたいに眠れなくなって……パーティーの仲間とも上手くいかなくて……」
俺は受付カウンターの椅子に座った。習慣で、身体が動いた。カウンセラーの姿勢。相手の目を見る。呼吸を合わせる。
「それで、どうしましたか?」
「……でも、ナギさんが前に言ってくれたこと、思い出して。『眠れない時は、眠れない自分を責めないでください。休むと決めたこと自体が正しい判断です』って」
青年が少しだけ背筋を伸ばした。
「だから……眠れない夜は、ベッドの中でじっとしてました。無理に寝ようとしないで。それと、パーティーのリーダーに『少し休みたい』って、自分から言えたんです。前は言えなかったのに」
「……そうですか」
俺は頷いた。
「俺がいない間に、自分で判断して、自分で休んで、自分で伝えた。それは全部、あなた自身の力です」
「えっ……でも、ナギさんが教えてくれたから……」
「きっかけは俺だったかもしれません。でも、実行したのはあなたです。眠れない夜にベッドで自分を責めなかったのも、リーダーに声をかけたのも。誰かに言われたからできることじゃない。あなたの中に、その力が育っていたんです」
青年の目が潤んだ。だが、泣きはしなかった。以前の彼なら泣いていた。こらえる力がついている。
「……ありがとうございます。ナギさん、また行っちゃうんですよね」
「ええ。しばらく留守にします」
「大丈夫です。今度は……自分でやれると思います」
青年が敬礼のような仕草をして、ギルドの出口に向かった。
その背中を見送りながら、俺は思った。
種を蒔いたのは俺かもしれない。だが、芽を出したのは彼自身だ。水をやったのも、日に当てたのも。俺がいなくても、芽は育つ。
それが、カウンセリングの本当のゴールだ。
クライアントが、カウンセラーを必要としなくなること。
……わかってはいるが。
必要とされなくなるのは、少しだけ寂しい。
これは内緒だ。カウンセラーが言っていい台詞ではない。




