第69話 淑女協定v2.0と、王都からの急報
風呂上がり。
宴会場として借りた大広間に、全員が集まっていた。
浴衣姿のヒロインたちが円形に座り、テーブルには宿場町の名物料理と、果実酒の瓶が並んでいる。
俺は一人、上座に座らされていた。正確には、全員が「ナギの隣」を主張した結果、俺を中心に放射状に座る形で決着したのだが、上座というより包囲網である。
ディアブラは黒い浴衣(宿の特注品を急遽用意させた)を纏い、フードの代わりに手拭いを頭に乗せて角を隠している。
威厳は皆無だった。
「さて」フランが羽ペンと羊皮紙を取り出した。風呂上がりの宴会に筆記用具を持ち込む女は、世界広しといえどもフランくらいだろう。
「行動範囲が広がる以上、既存の淑女協定では対応しきれない事態が増えるわ。改訂を提案します」
「えっ、今やるの?」リゼが果実酒の杯を傾けながら言った。
「今やるの。問題が発生してからでは遅い。予防的ガバナンスよ」
フランがテーブルに羊皮紙を広げた。表題には既に『淑女協定 v2.0(改訂案)』と書かれている。用意がいいにも程がある。
「まず、第一条の改訂。宿泊時の部屋割りは抽選制とする。ナギとの同室は不可。これは全会一致で異論がないと思うけれど」
「異論あり」×6。
六人が同時に手を挙げた。ディアブラまで手を挙げていた。お前は助手設定だろう。
「却下。ナギの睡眠権は基本的人権です」
俺が断言すると、六人が不満そうに手を下ろした。民主主義は多数決だが、人権は多数決で奪えない。前世の憲法学が異世界で役に立つとは思わなかった。
「第二条。入浴中のナギへの接近禁止。壁越しの声かけも含む」
「さっき全員やってましたよね」
「反省を踏まえての条文化よ」
フランの目が据わっている。反省しているのはこの中で俺だけではないか。
「第三条。新メンバーの加入には、既存メンバー全員の承認を必要とする」
これは重要だ。ディアブラが加わった今、これ以上パーティーが増えると物理的に俺の周囲のスペースが足りなくなる。一メートルルールどころか、三十センチルールになりかねない。
「第四条。変装中の『ディア』の正体に言及することを禁ずる。これは安全保障上の最優先事項よ」
「全員が共犯ってことね」リゼが杯を置いた。「ま、今更だけど」
「最初から共犯ですわ」セラフィーナがにっこり笑った。聖女の笑顔で言う台詞ではない。
「お兄さん、ルゥもちゃんと秘密守るよ!」
「……私も。口は堅い方だ」ルナの声に切り替わった。
「先生! 勇者の名にかけて秘密を守ります!」
アリスが胸を張った。個室露天風呂の孤独から回復したらしい。若さとは素晴らしい。
ここまでは順調だった。
問題は、ディアブラが口を開いた瞬間に始まった。
「――追加条項を提案する」
全員の視線が集まる。
ディアブラが浴衣の袖を正し、威厳ある声で言った。頭に手拭いを乗せたまま。
「私のカウンセリング面談枠は、他の者に優先して確保されるべきだ。週三回、各二時間を最低保証とする」
沈黙が落ちた。
「……週三回?」リゼの目が据わった。
「各二時間?」フランの羽ペンが止まった。
「私たち、週一回三十分なんですけど」ルゥが指を折って数えた。
「ナギ様との面談は予約制ですわ。優先枠など認められません」セラフィーナの笑顔が聖女から般若に切り替わりかけていた。
「私はナギの担当クライアントとして最も症状が重い。優先されるのは合理的だ」
「合理的じゃないわ」フランが即座に切り返した。「リソースの独占はチーム全体のパフォーマンスを低下させる。ナギの面談時間は有限な共有資源であり、公平に配分されるべきよ」
「私は魔王だぞ」
「淑女協定の前では全員平等よ」
「……なんだその理屈は」
「民主主義です」俺が言った。
ディアブラが信じられないものを見る目でこちらを向いた。温泉でぷかぷかしていた時と同じ目だった。未知の概念に触れた時の、あの表情。
「民主主義……」
「多数決です。賛成の方」
俺以外の五人が即座に手を挙げた。ディアブラだけが手を挙げていない。
「反対の方」
ディアブラが一人、手を挙げた。
「五対一で否決です」
「…………」
ディアブラが何か言いかけ、閉じ、もう一度開き、また閉じた。
数百年の独裁者が、人生で初めて多数決に敗北した瞬間だった。
「……覚えておけ。私は、いずれこの協定の主導権を握る」
「それも多数決で決まります」
「…………この、制度は……」
ディアブラが湯呑みの茶を一口飲み、呟いた。
「……悪くない」
さっきから「悪くない」が口癖になりつつある。温泉とぷかぷかと民主主義で、この魔王は今日一日でだいぶ人間に近づいた気がする。
「はい、では淑女協定v2.0、全四条、本日付で発効。全員の署名を」
フランが羊皮紙を回した。リゼが豪快にサインし、ルゥが丸文字で書き、ルナが几帳面な字に上書きし、セラフィーナが美しい筆記体で署名し、アリスが星マーク付きで記入した。
ディアブラの番が来た。
「……これに署名すると、私は他の五人と同列になるということか」
「そうです」
「魔王が、冒険者と同列に」
「淑女協定の前では、全員が対等な一票です」
ディアブラは数秒間、羊皮紙を見つめていた。
そして、静かにペンを取り、『ディア』と書いた。偽名で。だが、その筆跡は丁寧だった。
「……加盟した。だが異議申立て制度の導入を次回の改訂で要求する」
「議題として受理します」
フランが微かに笑った。
こうして淑女協定v2.0は、魔王の署名を含む六名の合意のもとに発効した。
おそらく、世界初の人魔共同条約だった。
温泉宿の宴会場で、浴衣姿で締結された条約など、後世の歴史書には絶対に載らないだろうが。
◇
宴もたけなわ。
ルゥが酔って(果実ジュースだったはずだが)踊り始め、リゼが腕相撲大会を開催し、フランが宴会の消費カロリーを計算し、セラフィーナが酔った振りをしてナギに寄りかかり、アリスが「先生、私もう眠いです……」と船を漕いでいた。
ディアブラは少し離れた場所で、湯呑みを両手で包み、その光景を静かに見ていた。
俺はそっと隣に座った。
「楽しんでますか」
「……騒がしい」
「そうですね」
「非効率だ」
「そうですね」
「……だが」
ディアブラが湯呑みに視線を落とした。湯気が、赤い瞳を柔らかくぼかしている。
「こういう夜は、初めてだ」
それだけ言って、ディアブラは黙った。
俺も何も言わなかった。カウンセラーの仕事は、沈黙を埋めることではない。沈黙の中にある感情を、そのまま受け止めることだ。
宴会場の喧噪が、遠い音楽のように聞こえる。
――その時だった。
テーブルの端に置いていた水晶球が、赤く点滅した。
赤は緊急通信の色だ。
宴会の騒ぎが一瞬で止まった。全員の目が水晶球に集まる。
俺が手を伸ばすと、水晶球からしわがれた声が響いた。
「――ナギか」
ギルドマスター、ガルバスの声。
普段の豪快な「ガハハハッ!」はない。低く、硬く、簡潔な声。
「ナギ。面倒なことになった」
「……何があったんですか」
「詳しくは王都で話す。だが一つだけ先に言っておく」
水晶球越しの声が、一段低くなった。
「――貴族議会が動いた。お前たちが来る前に、な。和平の話が漏れてる。しかも歪んだ形でだ。『冒険者ギルドの受付が、魔王と内通している』……そういう話になっている」
宴会場の空気が凍りついた。
「王都に来い。急いでだ」
水晶球の光が消えた。
静寂の中で、ディアブラが小さく呟いた。
「……私と関わると、こうなる」
その声に含まれた感情を、俺は聞き逃さなかった。
諦めと、罪悪感。何百年も繰り返してきた、孤独の味。
「ディアブラ」
俺は立ち上がった。
「予定が早まっただけです。行き先は同じ、王都。やることも同じ、交渉。ただし想定よりハードモードになった」
リゼが立ち上がった。「あたしは準備できてる」
フランが羊皮紙を片付け始めた。「ロードマップの修正が必要ね。フェーズ1の前に、危機対応フェーズを挿入する」
ルナの声が冷静に言った。「情報の出処を特定する必要がある。盗賊ギルドのネットワークを使う」
セラフィーナが立ち上がり、聖印を握った。「ナギ様をお守りしますわ。何があっても」
アリスが目を覚まし、聖剣の柄に手をかけた。「先生が悪者にされるなんて、絶対に許しません」
一人ずつ立ち上がっていく。
最後に残ったのはディアブラだった。
湯呑みを置き、手拭いを外し、浴衣の襟を正す。
「……行くぞ。私が隣にいることで、貴様が害されるなら」
「だから離れる、とは言わせませんよ」
ディアブラが目を見開いた。
「それを決めるのは俺です。そしてあなたは淑女協定に署名した。チームの一員です。一人で背負う時代は終わりました」
「…………」
ディアブラが何かを言いかけ、やめ、代わりに小さく頷いた。
俺は全員を見回した。
「出発は明朝。今夜はしっかり寝てください」
「「「「「「はい」」」」」」
六人の声が揃った。
――温泉の効果は約四時間で消滅した。
だが、悪くない四時間だった。
◇ ◇ ◇




