第68話 魔王のぷかぷかと、聖剣の個室風呂
街道沿いの宿場町『湯煙の里ミルテ』に到着したのは、夕暮れ時だった。
馬車を降りた瞬間、硫黄と花の混じった蒸気が頬を撫でる。石畳の小路には湯気が漂い、木造の旅籠が並び、どこかで三味線に似た弦楽器が鳴っている。
平和だ。
魔王城の陰鬱な空気、書庫の埃、棺桶マットレスの記憶が遠い。
「……これが、温泉というものか」
隣でディアブラが黒いフードの奥から周囲を見渡していた。赤い瞳に映る湯煙の風景は、数百年の生涯で初めて見るものだろう。
「湯煙の向こうに、敵がいるのか?」
「いません。ここは観光地です」
「……観光」
「休んだり楽しむために来る場所です」
「そのためにわざわざ移動する……? 非効率では?」
コンサル研修の後遺症だろうか。あるいは元からこうなのか。おそらく後者だ。
「いいから。今日は全員休みます。業務命令です」
「貴様の業務命令に従う義理は――」
「フェンリルの業務命令です」
「…………従おう」
あの狼の名前、便利すぎる。
◇
宿の受付で鍵を受け取り、部屋割りを決める。
――はずだった。
「ナギは私と同室でしょ。担当なんだから」
「論理的に考えて、護衛の観点から私がナギと同室であるべきよ」
「お兄さんはルゥが守るよ! 一緒のお部屋がいいな!」
「……ナギ、同室は私が適任。夜間警備も兼ねる」
「ナギ様、私の聖光結界でお守りしますわ……同室であれば最も効率的かと……」
「先生! 弟子は師匠の傍にいるべきです!」
六方向から同時に主張が飛んでくる。宿の女将が目を丸くしている。
俺は深呼吸した。
「全員却下。俺は一人部屋。皆さんは大部屋。以上。男女別です」
「「「「「「異議あり」」」」」」
「却下です」
ディアブラが腕を組んだ。
「……助手は上司の同室が妥当だろう」
「貴方は女性でしょう?」
「私は魔王だ、性別など矮小な問題に囚われる者ではない」
五つの殺気がディアブラに向いた。
ディアブラが一瞬たじろぐ。数百年の魔王が、冒険者五人の眼力に押されている。
「……大部屋で構わない」
賢明な判断である。
◇
男湯。
俺は一人だった。
完全に、一人だった。
宿場町の温泉は露天風呂で、竹垣の向こうに山並みが広がり、空には夕焼けの残滓が紫に溶けている。湯は乳白色で、肌に染み込むような熱さがちょうどいい。
一人。
静寂。
誰も「ナギ」と呼ばない空間。
いつ以来だろうか。ギルドの受付窓口を開設してから、こんな静けさは記憶にない。
俺は湯船の縁に頭を預け、目を閉じた。
湯の中で手足を伸ばし、天井の代わりに空を見上げる。
――俺はこの数ヶ月、何をしてきたんだろう。
ギルドの受付窓口に座っていただけだ。
目の前に来る人の話を聞いて、一緒に考えて、時々泣かれて、時々怒鳴られて、時々刃物を向けられた。
血まみれで受付に倒れ込んできた赤髪の剣士。見捨てられ不安に支配され、事実と推測の区別がつかなくなっていた彼女は、今では自分の足で立ち、他者にエビデンス思考を教えている。
完璧主義の鎖に縛られ、百点以外を許せなかった天才魔法使い。六十点の報告書を「合格」と言えるようになった彼女は、今ではアジャイル思考で他者を導いている。
昼と夜で引き裂かれ、片方が起きている間、もう片方は存在しない。そんな残酷な日々を生きていた双子は、引き継ぎノートという細い糸で繋がり、今では一つの身体を「共同生活」している。
聖女の仮面の下で空っぽに笑い続けたヒーラー。全てを背負い込み、自分を消費財にしていた彼女は、権限を委譲することを学び、自分のための祈りを取り戻した。
フリルの服の中で泣いていた勇者。他者の期待する「勇者像」と自分の魂の間で引き裂かれていた彼女は、ありのままの自分で聖剣を振るうことを選んだ。
そして、書き損じの羊皮紙に埋もれた魔王。何百年も孤独に座り続け、理想と手段の乖離に気づかなかった彼女は、初めて弱さを見せ、初めて助けを求めた。
全員、少しずつ前に進んでいる。
俺は――
……俺は、どうだろう。
他人を救うことは得意だ。話を聞くことも、認知の歪みを整理することも、感情を言語化する手伝いも。前世から数えれば、何百人と向き合ってきた。
だが、自分自身のことは。
自分が救われることは。
……湯気が目に入っただけだ。目を擦った。
その時。
「――ナギっ! 聞いてるっ!? 壁越しだけどっ!」
竹垣の向こうから、リゼの声が響いた。
「ルゥが湯船で泳ぎ始めたんだけど!!」
「お兄さーん、温泉きもちいいーーー!」
「ナギ様ーっ! ルゥちゃんが波を立てますのーっ!」
「泳ぐなぁっ! 髪に湯がかかるでしょうがっ!」
「先生ぇーっ! アリスは隔離されています!!! 寂しいですーっ!」
リゼ、フラン、ルゥ、セラフィーナ、アリスの遠隔絶叫、ルナの冷静な報告。
壁一枚の向こうで繰り広げられる修羅場が、俺のセルフカウンセリングを粉々に吹き飛ばした。
……内省の時間、約三分。
こんな短い時間じゃカップ麺すら作れない。
—――久しぶりにカップ麺食べたくなってきたな。
◇
時間を少し巻き戻す。
ここからは、竹垣の向こう側の話である。
女湯。
ヒロインたちが脱衣所に入った時点で、最初の問題が発生していた。
「あの……私も、女湯に入りたいです」
アリスだった。
彼女の魂は女の子だ。それは全員が認めている。ナギが認め、ヒロインたちが認め、魔王軍すら認めた。
だが、身体の問題は、魂の問題とは別の次元にある。
「……アリス」リゼが困った顔をした。「気持ちはわかるよ。でも、他のお客さんもいるし……」
「わかって、ます……。わかってるんですけど……」
アリスの翡翠の瞳が潤んだ。聖剣の柄を握る指が、小さく震えている。
沈黙が脱衣所に満ちた。誰もが言葉を探し、誰もが見つけられずにいた。
その時、フランが静かに口を開いた。
「アリス。聖剣の結界、どのくらいの範囲で展開できる?」
「え? えっと、半径三メートルくらいなら……」
「露天風呂の端に、岩場で仕切られた一角がある。そこに結界を張れば、個室露天風呂になるわ」
フランの提案は、いつも通り論理的で、いつも通り最適解だった。
五分後。
露天風呂の端、岩場の向こうに淡い光の結界が張られた。聖剣から溢れる柔らかな白光が湯煙に混じり、小さな半球状の空間を作り出している。
その中で、アリスは一人、湯に浸かっていた。
結界の中は完全なプライベート空間。湯煙と星空だけが見える、小さな露天風呂。贅沢と言えば贅沢だが、隣で笑い合う仲間の声が湯気越しに聞こえてくる分だけ、孤独の輪郭がはっきりと浮かぶ。
「…………世界で一番孤独な温泉です……」
アリスの涙声が、結界越しに微かに漏れた。
「アリス、泣かないでー!」リゼが岩場越しに声をかけた。
「泣いてません……! お湯が目に入っただけです……!」
「声かけたら余計寂しくなるでしょ……」フランが溜息をついた。
「アリスちゃーん、あとで一緒にお夜食たべよーね!」ルゥが手を振った。結界の向こうからは見えないのに手を振るあたりが、ルゥらしかった。
「……アリス。結界の境目に籠を置いた。飲み物と手拭いが入っている」
ルナの声だった。いつの間にか切り替わり、冷たい夜気のような声色が湯煙に紛れた。
「ルナさん……ありがとうございます……」
「礼には及ばない。……風邪を引くな」
セラフィーナが岩場の向こうに向かって、小さく聖光の祝福を送った。湯煙の中に、金色の光の粒が舞い上がる。
「聖女の湯治の御加護ですわ。身体の芯まで温まりますように」
「セラフィーナさん……! あったかい……! お湯じゃなくて、心が……!」
アリスは泣いていた。間違いなく泣いていた。お湯は目に入っていない。
――一方。
女湯の本体では、別の問題が進行していた。
*
ディアブラは、湯船の中で直立していた。
肩まで湯に浸かり、両腕を体の横にぴたりとつけ、背筋を一分の狂いもなく伸ばしている。角は湯面ぎりぎりまで沈めて隠し、赤い瞳だけが湯煙の上に覗いている。
その姿は、温泉に入っているというより、不動の歩哨だった。
「……ディア」セラフィーナがおずおずと近づいた。「肩の力を抜いてくださいまし。温泉は寛ぐためのものですわ」
「寛ぐ……?」
ディアブラの眉がひそんだ。
「どうやるのだ、それは」
全員が一瞬黙った。湯煙だけが流れる。
「数百年間、寛いだことがないの?」フランが静かに聞いた。
「寛ぐ必要がなかった。魔王は常に臨戦態勢でなければならない」
「もう臨戦態勢じゃないでしょ」リゼが湯船の縁に肘をかけ、にっと笑った。「こうやるの。見てて」
リゼが大きく息を吸い、そして盛大に吐いた。
「はぁーーーーっ……」
その一息に、Aランク冒険者の全力戦闘後のような脱力感が込められていた。湯面に小さな波紋が広がる。
「ほら、やってみて」
「…………は、はぁー……」
ディアブラが真似した。しかし、その「はぁー」は軍事報告の語尾のように硬く、全身の筋肉が一本も弛緩していなかった。
「全然だめ」リゼが即座にジャッジした。「もっとこう、全部どうでもよくなる感じで」
「全部どうでもよくなったら魔王として機能しないが」
「今は機能しなくていいの!」
ルゥが水面をぱしゃぱしゃ叩きながら割って入った。
「魔王ちゃん! こうするの! ぷかぷかーって!」
ルゥが仰向けに浮かんで見せた。手足を広げ、腹を天に向け、完全無防備。湯船の中をゆらゆらと漂うその姿は、人間というより水面に浮かぶ木の葉だった。
「ぷかぷかだよ! ぷかぷか!」
ディアブラの赤い瞳が、信じられないものを見るように固まった。
「……ぷ、ぷかぷか……?」
「そう! ぷかぷかー!」
「ひどく情けない気がするが……」
「いーから! やってみて!」
「ルゥ、泳ぐのはやめなさい。波が立つ」フランが冷静に注意しつつ、しかし視線はディアブラに向けたままだった。「とはいえ、あなたが力みすぎなのは事実よ。非論理的なほどに筋肉が緊張している」
「非論理的は余計だ」
「事実よ」
セラフィーナがディアブラの傍に寄り、そっと湯を掬って肩にかけた。
「ディア様。温泉のお湯は、体だけでなく心も解きほぐしてくれるものですわ。何も考えなくていいのです。今この瞬間だけは」
「何も考えない……?」
「はい。職務も、責任も、過去も、全部。ただ、お湯の温かさだけを感じてくださいまし」
ディアブラが目を閉じた。
数秒の沈黙。
湯煙が流れ、夜空の星が瞬き、遠くで虫の声がする。
ディアブラの肩が、ほんの少しだけ下がった。
「…………」
「あ、ちょっと力抜けた」リゼが小声で言った。
「……うるさいぞ。集中が途切れた」
「集中して寛ぐ人初めて見たわ」
ルゥがぱしゃぱしゃと泳ぎ寄り――泳ぐなと言われたばかりだが――ディアブラの腕を引っ張った。
「ほらほらディアちゃん、ぷかぷかー!」
「やめろ、引っ張るな、角が見え――」
ばしゃん。
ディアブラが体勢を崩し、湯船に沈んだ。一瞬の水柱。ルゥが「わっ」と声を上げ、フランが素早く距離を取り、セラフィーナが小さく悲鳴を上げた。
数秒後。
湯面からディアブラがゆっくりと顔を出した。髪が顔に張りつき、角が片方だけ水面に突き出し、仄暗い瞳が若干据わっている。
「…………」
「だ、大丈夫……?」ルゥが恐る恐る聞いた。
ディアブラは何も言わなかった。
代わりに、ゆっくりと仰向けになった。
手足を広げ。
腹を天に向け。
湯船の中を、ゆらゆらと漂い始めた。
ぷかぷか。
全員が目を丸くした。
「……ディア?」
「…………悪くない」
小さな声だった。ほとんど吐息に紛れるような声。
数百年の孤独を背負った魔王が、生まれて初めて力を抜いた瞬間だった。
「ぷかぷか……悪くない……のか……」
「あー、もう! 可愛い!」リゼが頭を抱えた。「魔王がぷかぷかしてるのに可愛いのは何なの!?」
「可愛い……とは? 威厳があるということか?」
「威厳はない! ぷかぷかに威厳はない!」
ルゥが横でぱちぱちと拍手した。フランは「データ的に興味深い。緊張度の変化を記録したい」と呟いている。セラフィーナは感動のあまり瞳を潤ませている。
岩場の向こうからアリスの「何が起きてるんですかーっ!?」という叫びが響いた。




