第67話 温泉とは何だ、と魔王が言った
「ロードマップを共有する」
フェンリルが水晶球越しに羊皮紙を掲げた。こちらにも転写魔法で文字が浮かび上がる。フランがすかさず書き写し始めた。
「フェーズ1。王都到着、宮廷の有力者への根回し。フェーズ2。貴族議会でのプレゼンテーション。フェーズ3。学術機関との研究連携の締結。この三段階で人間側の政治的承認と研究リソースを獲得する」
「段取りが明確で助かります」
「当然だ。段取りのないプロジェクトはプロジェクトではない、ただの散歩だ」
……散歩でいい。散歩がしたい。ただただゆっくりと散歩がしたい。
俺の心の叫びが聞こえたわけではないだろうが、フェンリルが一枚の羊皮紙を追加した。
「――だが、その前に一つ。全員、休め」
「……は?」
リゼが目を丸くした。
「疲弊したチームが交渉の場に出れば、足元を見られる。表情に疲労が出る、判断速度が落ちる、感情のコントロールが甘くなる。全てがマイナスだ」
フェンリルが淡々と続ける。
「王都への街道沿いに温泉のある宿場町がある。そこで最低一泊しろ。食事と睡眠と入浴を取り、コンディションを整えてからフェーズ1に入れ。――これは推奨ではない。業務命令だ」
「……コンサルが福利厚生を語るとは」
「《パフォーマンス維持》は《コスト管理》の基本だ。壊れた駒の修理代より、予防投資の方が安い」
この男は人をコストで語る。だが、言っていることは正しい。
というか、俺の身体が正直だった。ここ数日、まともに寝ていない。カウンセリングの連続で、共感疲労が限界に近い。
「温泉!」ルゥが跳ね上がった。「お兄さん、温泉だって!」
「ナギ様、温泉ですわ……! 聖なる湯治でナギ様のお疲れを癒して差し上げますわ……!」
「先生! 私、温泉入ったことないんです!」
「あたしは別にどっちでもいいけど。……まあ、ナギが疲れてるなら、仕方ないから付き合ってあげる」
リゼ。お前は本当にわかりやすいな。
フランは既にロードマップの欄外に『温泉:コンディション調整(必須)』と書き込んでいた。さすがの効率。
唯一、反応が異なったのはディアブラだった。
「……温泉、とは何だ」
全員が振り向いた。
「……地面から湧く熱い湯に、裸で浸かる文化だ」
俺が説明すると、ディアブラはフードの奥で数回瞬きした。
「裸で。湯に。……何のために?」
「リラクゼーションです」
「……人間は、奇妙な文化を持つな」
「それ、棺桶をベッドにしてる種族に言われたくないです」
「……ふん」
ディアブラがそっぽを向いた。しかしフードの隙間から覗く耳が赤い。
この魔王、温泉に興味がある。間違いない。
◇
出発準備は、予想通りの混沌だった。
まず、ディアブラの変装の最終調整。
フランが魔力遮断の術式を上書きし、セラフィーナが聖属性のコーティングを薄く重ねる。これで探知魔法に引っかかるリスクは最小限になる。角はフードで隠し、赤い瞳は「珍しい体質」で押し通す設定。
「改めて確認します。ディアブラ、あなたの偽名は『ディア』。身分は俺の助手。年齢は不詳。出身は北方辺境。設定はそれだけです。余計なことは言わないでください」
「貴様に指図されるのは不愉快だが……今は従おう」
ここまでは順調だった。
問題は、ヒロインたちが「魔王の人間界マナー講座」を自主的に開催し始めたことである。
最初に動いたのはリゼだった。
「いい? ディア。人間の街ではね、すれ違った人に『ひれ伏せ』とか言っちゃダメだからね」
ディアブラが怪訝そうに首を傾げた。
「……なぜそんなことを言うと思った?」
「え? だって魔王って、そういう……」
「私は数百年、玉座の間から一歩も出ずに執務をしていた。道端の人間にひれ伏せなどと言う機会すらなかったが」
「…………あ、そっか」
リゼが微妙な顔で黙った。
続いてフランが羽ペンを構えながら進み出た。
「一応確認するけれど。市場で買い物をする際、金貨を投げつけて『代金だ、拾え』と言うのは人間社会では――」
「しない」
ディアブラが即答した。
「むしろ聞きたいのだが、なぜ私がそんなことをすると思うんだ。金貨を投げて何の意味がある。的に当たるわけでもない」
「……論理的に反論された」
フランが羽ペンを止め、何か書きかけたメモを静かに裏返した。
次はルゥだった。
「ディアさんディアさん! あのね、人間の街にいる猫ちゃんは部下じゃないからね! 『控えよ』とか言っちゃダメだよ!」
「猫に命令を出したことはない」
「えっ、ほんと?」
「当然だ。私は猫を見たことがない」
全員が一瞬止まった。
「……見たことがない?」ルゥがぱちくりと瞬きした。
「魔王城の周辺に猫は生息しない。魔素濃度が高すぎるのだ」
ルナに切り替わり、冷静な声色で「……つまり、マナー講座以前に、猫の説明から必要ってこと」と呟いた。
問題の方向性が根本から違っていた。
セラフィーナが両手を胸の前で組み、おずおずと口を開いた。
「あの……ディア様。人間の街では、初対面の方に『我が名は魔王ディアブラ、全種族の頂点に――』と名乗るのは控えた方がよろしいですわ」
「セラフィーナ。私は自己紹介の際に肩書きの全文を述べたことは一度もない」
「えっ……そうなのですか?」
「そもそも自己紹介をする相手がいなかった。何百年も」
セラフィーナの目が潤んだ。
「ディア様……!」
「同情するな。事実を述べただけだ」
ヒロインズなりの親切だったマナー講座が、気づけば魔王の孤独を再確認する会になりかけている。
俺は軌道修正を図った。
「……わかりました。ディアブラは常識的な範囲では問題なさそうですね。むしろ注意すべきは、人間の日常に不慣れな点だけだ。猫の見分け方、通貨の種類と相場、露店での値切り方あたりを移動中に教えます」
「値切る……? 物の値段とは、決まったものではないのか?」
「市場経済です」
「……人間は、面倒な文明を築くな」
最後に、アリスがおずおずとディアブラに近づいた。
「あの、ディアさん。もしよかったら、旅用のお洋服を一着お貸ししましょうか? フリルのついた、可愛いのがあるんですけど……」
アリスは善意の塊である。だが、善意と適切さは必ずしも一致しない。
ディアブラがゆっくりとアリスを見下ろした。
「……勇者。私は生まれてこのかたフリルを身につけたことがない」
「じゃあ、初めてのフリルです! きっと似合います!」
「聞いていたか、勇者。経験がないと言ったのだ」
「はい! だから新しい経験ですよね!」
アリスの善意に論理は通用しない。これは既に証明済みの事実である。
ディアブラが助けを求めるように俺を見た。数百年を生きた魔王の目が、「何とかしろ」と訴えている。
「……アリス。ディアさんには旅用のローブがありますので、今回はそれで」
「そうですか……残念です。でも、いつかきっと!」
「いつかは来ない」
「来ます! 絶対来ます!」
ディアブラが小さく溜息をついた。しかしフードの奥で、口元がわずかに――本当にわずかに緩んでいた。
勇者と魔王がフリルを介して言い合う光景は、おそらく歴史上初めてだろう。
◇
馬車の手配が整い、俺たちは魔王城の正門に立っていた。
振り返ると、城門の両脇に魔族の幹部たちが並んでいた。
ヴォルクスが鎧のトゲを磨きながら、こちらを見ている。ギムレットが小さな落とし穴の設計図を胸に抱えている。シェイドが影の中からちらちらと覗いている。リッチが骨の手を振っている。
誰も、別れの言葉を言わない。
魔族は不器用だ。数百年、恐怖で繋がってきた者たちは、「行ってらっしゃい」の言い方を知らない。
だから俺が言った。
「留守を頼みます。何かあればフランが転写魔法で連絡を取ります」
ヴォルクスが鼻を鳴らした。
「……ふん。さっさと行け」
そして、一拍置いて。
「……また来い」
小さな声だった。鎧のトゲの奥から、不器用に。
「ええ。また」
俺は頷き、馬車に乗り込んだ。
隣にはリゼが座り、向かいにはフランとルゥ。セラフィーナとアリスは後部座席。そしてディアブラは――少し迷った後、俺の隣の、リゼの反対側に腰を下ろした。
リゼの目が据わった。
「……あんた、そこ座るんだ」
「助手は上司の傍にいるものだろう」
「誰が上司よ」
「決まっている。ナギだ」
リゼとディアブラの間で、空気が静かに火花を散らしている。
馬車が動き出す。
魔王城が、ゆっくりと遠ざかっていく。
暗雲の下に佇む黒い城。
あそこで、一人の魔王が何百年も孤独に座っていた。
もうあの玉座に、一人で座る必要はない。
――だが。
俺の胸にはまだ、一つの言葉が刺さったまま残っている。
『魔脈は、減っている』
ディアブラは、あの一言の先に何を知っているのか。
五百年分のデータが示す真実は、交渉カード以上の意味を持つのではないか。
それを確かめるのは、まだ先だ。
まずは温泉だ。業務命令だ。フェンリルがそう言った。
……フェンリルが福利厚生を語る世界線に、俺は生きている。
馬車の窓から、薄日が差し込んだ。
久しぶりの、魔王城の外の光だった。




