第66話 交渉カードは五百年の孤独の中にあった
魔王城の書庫は、昨夜の戦場の跡地だった。
床には寝袋代わりの毛布が散乱し、棺桶から剥がしたマットレスが壁に立てかけられ、ルゥが持ち込んだらしい抱き枕(なぜか俺の服が巻いてある)が本棚の隙間に挟まっている。
一メートルルールなど最初から存在しなかったかのような惨状である。
そんな廃墟と化した書庫の中央で、俺たちは円形に座っていた。
テーブルの真ん中には、蒼く光る水晶球が一つ。
その向こう側に映る男は、腕を組み、氷のような眼でこちらを見据えている。
「――成果報告を聞こう」
フェンリル。
前世の記憶を持つ外資系コンサルタント。俺たちに《PDCA》やら《ファクトベース思考》やら《ロジカルシンキング》やらを叩き込んだ張本人であり、今回の魔王城カウンセリングにおけるリモート参謀でもある。
水晶球越しでも、この男の圧は一ミリも減衰しない。
むしろ画面越しの方が怖いまである。リモート会議の方が威圧的な上司、前世にもいたな。
「魔王のカウンセリングは初期フェーズを完了。依存の自覚、過去の開示、ヴィジョンの言語化まで到達しました。組織改革は初動段階。幹部との信頼関係構築はヒロイン……えー、コンサルチームが研修で着手済みです」
俺が報告すると、フェンリルは微動だにせず頷いた。
「悪くない。三日間でそこまで持っていったのは評価する。――で、次は?」
「王都へ向かいます。人間側に人魔和平を提案するために」
「提案の中身は?」
「…………」
「ナギ。沈黙は回答ではない。王都に乗り込んで、貴族議会の前に立って、何を言うんだ。『仲良くしましょう』か?」
水晶球の蒼い光が、フェンリルの無表情を冷たく照らしている。
「それは戦略ではない。――《Win-Win》の設計なき交渉は、ただの懇願だ」
書庫に沈黙が落ちた。
隣のリゼが小さく息を呑み、フランは羽ペンを止め、ルゥは抱き枕(俺の服巻き)をぎゅっと抱きしめた。セラフィーナは祈るように手を組み、アリスは聖剣の柄を握っている。
そして俺の斜め向かいに座るディアブラは赤い瞳を細めていた。
「……この犬、容赦がないな」
小声で呟くディアブラに、俺は内心で全力同意した。
◇
「交渉には原則がある」
フェンリルが水晶球越しに三本の指を立てた。
「一つ。相手の《課題》を特定せよ。二つ。自分だけが提供できる《価値》を示せ。三つ。《撤退ライン》を決めておけ。――この三つが揃って初めて、交渉のテーブルに着く資格がある」
「コンサルの基本ですね」
「基本だ。だが、貴様らはその基本がゼロの状態で王都に突っ込もうとしていた。それは営業ではなく特攻だ」
フランが羽ペンの先で唇に触れ、思考モードに入った。
「……相手の課題、つまり人間側の王都が今抱えている問題は何か。フェンリル、情報はある?」
「断片的にはある。人間の王国はここ十年、魔物の侵攻が減った代わりに内政問題が山積している。貴族間の権力闘争、辺境の治安悪化、それから――」
フェンリルが一拍置いた。
「――魔法資源の枯渇が、学術レベルで囁かれ始めている」
「魔法資源?」リゼが眉をひそめた。
「魔法の源となる力が減っている、という仮説だ。ただし人間側には観測データがほぼない。仮説止まりで、危機感を持っている者は少数派だ」
俺はメモを取りながら整理する。相手の課題は見えてきた。だが問題は二つ目だ。
「自分だけが提供できる価値……。俺たちが王都に持っていけるものは何だ?」
全員が考え込む。
リゼが最初に口を開いた。
「戦力は? あたしAランクだし、フランも天才だし――」
「却下だ」フェンリルが即座に斬った。「魔族を連れた人間の冒険者パーティーが『強いから仲良くしろ』と言うのは、交渉ではなく脅迫だ」
「う……」
「じゃあ、魔族の領地を提供する? 土地とか」ルゥが手を挙げた。
「魔族の領地は大半が魔素濃度の高い荒野だ。人間が住むにはインフラ投資が必要で、短期的なメリットにならない」
「特産品は……」セラフィーナが控えめに言いかけた。
「魔族の特産品は呪具、毒薬、骨装飾品。人間の市場に需要がない」
フランが羊皮紙に書き出したリストを見て、溜息をついた。
「……壊滅的ね。交渉カードが一枚もない」
リゼが腕を組み、じろりとディアブラを見た。
「……あんたたち、何百年も何してたの」
ディアブラが黒いフードの下で微かに肩を揺らした。
「……統治だ」
「それ、失敗してたよね」
「…………」
魔王が黙り込む光景は、もう珍しくなくなってきた。
慣れとは恐ろしいものである。
◇
沈黙が書庫を満たした。
古い本の匂いと、魔素の微かな振動。
窓の外では、魔王城の尖塔に風が鳴っている。
誰もが黙り込む中で――ディアブラが、静かに口を開いた。
「……一つだけ、ある」
全員の視線が集まる。
ディアブラはゆっくりと立ち上がり、書庫の奥へ歩いた。
最も古い本棚の、最も高い段。指先に淡い魔力を灯し、埃をかけた革の箱を引き出す。
テーブルに置かれたそれを開くと、中から現れたのは――羊皮紙の束だった。
黄ばみ、端が擦り切れ、何世代もの手を経てきたことが一目でわかる古文書。しかし、そこに記された数値と図表は、驚くほど精密だった。
「……これは?」フランが目を見開いた。
「《魔脈観測記録》だ」
ディアブラの声が、わずかに硬くなった。
「魔族は数百年前から、世界を流れる魔力の大脈――《魔脈》の流量を観測し続けてきた。深層魔脈の位置、流速、魔素濃度の経年変化。全て記録してある」
フランが震える手で羊皮紙の一枚を手に取った。
「……数百年分の、縦断データ……?」
「正確には、約五百年分だ」
「五百年……!」
フランの瞳が、研究者の光を帯びた。
「これは――人間の魔法学園が喉から手が出るほど欲しがる《知的財産》よ。人間側には魔脈を直接感知する技術がない。観測データそのものが存在しないの。五百年分の縦断データなど、人間には百年かけても作れない」
水晶球の向こうで、フェンリルが初めて――ほんの僅かだが――口角を上げた。
「やっと交渉の土台ができたな」
「えっ、つまりこのデータを『あげるから仲良くしよう』って言えるってこと?」ルゥが首を傾げた。
「あげるのではない」フェンリルが訂正した。「《共有》するんだ。データを対価に、人間側の研究リソースと政治的承認を得る。双方が利益を得る構造、つまり《Win-Win》だ」
フランが早くも羊皮紙に何かを書き始めている。おそらく交渉時のプレゼン資料の骨子だろう。この女は有能すぎて時々怖い。
だが、俺はフランの興奮よりも、ディアブラの横顔が気になっていた。
古い観測記録を見下ろすディアブラの赤い瞳には、データへの愛着とも、恐れともつかない色が滲んでいる。
そして、小さく――本当に小さく、呟いた。
「……魔脈は、減っている」
書庫の空気が、一瞬で変わった。
フランの羽ペンが止まる。リゼの目が鋭くなる。セラフィーナが息を呑む。
「減っている……とは?」俺が聞き返した。
「そのままの意味だ。五百年前の観測開始時と比較して、魔脈の総流量は――」
「止めろ」
フェンリルの声が、鋭く割って入った。
「……その詳細は、今ここで開示するな」
ディアブラがフードの奥から水晶球を睨んだ。
「なぜだ。事実を共有するのが《ファクトベース》だろう」
「事実は武器だ。そして武器は、適切なタイミングで使わなければ効果を失う」
フェンリルの声は冷徹だが、どこか切迫感があった。
「魔脈枯渇の詳細データは、王都の研究者と合流してから精査しろ。この情報は交渉カードであると同時に、世界の危機を示す爆弾だ。検証なしに公表すれば、パニックを誘発するか、あるいは逆に『魔族の脅し』として信用を失う。どちらに転んでも最悪だ」
「……ふん。理屈は認める」
ディアブラがふいと視線を逸らした。耳の先が微かに赤いのは、ファクトベース思考を自分の言葉で使ったことへの照れか、それとも俺の見間違いか。
いずれにせよ。
交渉カードは見つかった。
だが、「魔脈が減っている」という一言が、俺の胸に引っかかっている。
あの瞬間のディアブラの目は、データを語る目ではなかった。
データ以上のことを知っている者の目だった。




