第64話 依存と恋は違うと、剣士が魔王に言った
三日目の朝。
魔王城の廊下は、初日とは別の場所のように変わっていた。
持ち場を放棄していたスケルトン兵が、ぎこちないながらも門番の位置に戻っている。すれ違うダークナイトが、俺に軽く頭を下げてきた。廊下の隅で壁に向かってブツブツ言っていたゴブリンの姿は消え、代わりに掃除道具を持って床を磨いている。
そして、壁に貼られた一枚の羊皮紙が目に入った。
『本日の業務は定時で終了すること。残業は聖剣の刑に処す。——勇者アリス』
物理的な脅迫を含む残業禁止令が、城中に貼り出されていた。
効果は抜群らしい。
俺は苦笑しながら、私室の前に立った。
ノックする。
「……入れ」
声が、昨日と違った。
掠れてはいる。泣いた後の声だ。
だが、その奥に、何かが定まった響きがあった。
扉を開ける。
部屋は昨日と同じく片付いていた。
窓は開かれ、朝の光が差し込んでいる。テーブルの上には、二人分の薬草茶。
そして、ディアブラが椅子に座っていた。
目の下のクマはまだ濃い。
昨夜、相当泣いたのだろう。それを隠す気はないらしく、いつもの虚勢が少しだけ薄れている。
代わりに、その目には——何かを決意した人間だけが持つ、静かな光があった。
「おはようございます、ディアブラ」
「ああ。……茶を入れた。座れ」
俺は頷いて、向かいの椅子に座った。
カップを手に取り、一口飲む。昨日と同じ薬草茶だが、今日の方が少しだけ美味しい気がした。
「……ディアブラ」
「待て」
俺が口を開きかけたのを、彼女が遮った。
珍しいことだ。今まで、自分から話を切り出そうとしたことはなかった。
「今日は……私から話す」
ディアブラはカップを両手で包み、中身を見つめた。
湯気が、彼女の白い頬をかすめて消える。
「昨夜、一人で考えた。お前に言われた通り、感情を一晩かけて受け止めた」
「……ええ」
「泣いた」
短く、しかしはっきりと言い切った。
俺の方を見ず、カップの中だけを見つめたまま。
「数百年ぶりに泣いた。声は出さなかった。誰にも聞かれたくなかったからだ。……だが、止まらなかった」
その声には恥じらいがあったが、隠そうとはしていなかった。
昨日まで全力で虚勢を張っていた魔王が、「泣いた」という事実を自分の言葉で認めている。
「泣いたあと、少しだけ楽になった。……ほんの少しだけだが」
「それでいいんです。一晩で全部楽になる必要はない」
「ああ。……それもわかった」
ディアブラがようやくカップから目を上げ、俺を見た。
「結論が出た」
琥珀色の瞳が、まっすぐに俺を捉えた。
「私は、お前に依存している」
声が震えなかった。
昨日までとは違う。感情の爆発ではなく、冷静な自己認識として、その言葉を口にしていた。
「お前の手紙が来ないと不安になる。お前の声を聞くと安心する。お前がいなくなることを想像するだけで、呼吸が苦しくなる」
ディアブラは一つ一つ、自分の症状を並べるように言った。
まるで、自分自身を診断しているかのように。
「これは恋ではなく、病だ。……お前の言葉を借りるなら、転移感情、というやつだろう」
俺は少し目を見開いた。
転移感情という言葉を、彼女が自分から使った。昨日までの会話の中で、俺は一度もその単語を出していない。
「……どこでその言葉を」
「お前の連れの銀髪の剣士と、少し話をした」
リゼか。
「あの女は言った。『最初は見捨てないでって縋ってただけだった。でもナギは、それを恋じゃなくて転移感情だって教えてくれた。最初はムカついたけど、今はわかる。依存と恋は違う。依存は相手がいないと壊れる。恋は、相手がいなくても立っていられた上で、それでも隣にいたいと思うこと』——と」
あいつ、いつの間にそんな話を。
「……その上であの女は、ものすごく不機嫌な顔で付け加えた。『だから、あんたがナギに感じてるのは恋じゃない。さっさと卒業しなさい。ナギの隣は、ちゃんと自分の足で立てる人間しか許さないから』と」
リゼ。お前、いつの間にカウンセラーより的確なことを言うようになったんだ。
ディアブラは小さく息を吐いた。
「悔しいが、あの女の言う通りだ。今の私がお前に感じているものは、恋ではない。ただの依存だ。お前という安全な場所に縋り付いているだけだ」
「それを自分で言えたこと自体が、もう回復の兆候ですよ」
「……お前は、いつもそう言うな。私が何を認めても、『それだけで十分だ』と」
「十分なんですよ、本当に」
ディアブラが、ふっと力の抜けた笑みを浮かべた。
自嘲ではない。初めて見る、穏やかな笑顔だった。
「ならば、次の一歩も言葉にしよう」
彼女はカップをテーブルに置き、背筋を伸ばした。
「私は、お前なしでも立てるようになりたい」
俺の胸の奥が、じんと熱くなった。
「お前がいなくなったら壊れる、と昨日は言った。今もまだ怖い。だが、その恐怖を理由に、お前を鳥籠に閉じ込めるようなことは……したくない」
鳥籠。
その言葉を、彼女は確かに選んだ。
セラフィーナが俺を閉じ込めようとした、あの構図を。自分に重ねている。
「お前を私だけのものにして、この城に縛り付けて、永遠に手紙を書いてもらい続ける。そういう未来が一瞬だけ頭をよぎった。……だが、それは私が最も嫌った『支配』と同じだ」
ディアブラが、俺の目をまっすぐに見た。
「だから私は、依存を卒業する。お前以外にも弱さを見せられる存在を作る。そのために、まず——」
彼女は、一度だけ深呼吸をした。
「まず、部下たちに、本当のことを話そうと思う」
「本当のこと?」
「私が混血であること。人間の母がいたこと。最初に望んだのが支配ではなく、居場所だったこと。……全部、話す」
俺は黙って頷いた。
「怖いですか?」
「怖い。蔑まれるかもしれない。裏切られるかもしれない。また一人になるかもしれない」
ディアブラの声は震えていた。
だが、立っていた。
「でも、お前が言っただろう。弱さを見せるのは信頼の始まりだ、と」
俺はそんなこと言ったか?
……ああ、セラフィーナの卒業の時に、似たようなことを言った気がする。伝言ゲームで魔王にまで届いたのか。
「わかりました。なら、今から行きましょう」
「今からだと?」
「鉄は熱いうちに打て。前世の偉い人の言葉です」
「前世……? まあいい。お前がそう言うなら、行く」
ディアブラが立ち上がった。
漆黒の鎧を纏い、マントを翻す。
その背中は、玉座に座っていた時よりもずっと大きく見えた。




