第63話 分かり合える世界
魔王城の廊下を歩いていると、空気が昨日と少し違うことに気づいた。
すれ違うスケルトン兵が、俺に向かってカチカチと顎を鳴らした。
……挨拶、だろうか。骨だからわかりづらいが、敵意はない。
角を曲がると、ダークナイトの一人が壁際に立っていた。昨日までストライキ中だった組だ。だが、今日は武器を持っている。持ち場に戻ったらしい。
彼は俺の顔を見ると、仏頂面のまま小さく顎を引いた。
「……あんたの連れの女たちに、色々言われた。腹は立ったが、間違ったことは言ってなかった」
それだけ言って、ダークナイトは視線を正面に戻した。
あいつら、たった一日でここまで変えたのか。
俺は少しだけ胸が熱くなるのを感じながら、魔王の私室へ向かった。
* * *
扉を軽くノックする。
「……入れ」
昨日とは違う声だった。
掠れてはいるが、どこか腹が据わっている。
扉を開ける。
俺は、思わず足を止めた。
部屋が片付いていた。
昨日まで床を埋め尽くしていた書き損じの山が、一枚残らず消えている。テーブルの上はきれいに拭かれ、インク壺も新しいものに替えられていた。
そして、窓が大きく開かれている。朝の冷たい光が、質素な部屋をまっすぐに照らしていた。
ディアブラがテーブルの前に座っていた。
目の下のクマはまだ濃い。だが、表情が昨日とは違う。何かを考え抜いた後の、静かな疲労と決意が混在した顔だ。
「……部屋、片付けたんですね」
「過去の未練を抱えていても仕方がないと、昨夜思い知った」
素っ気ない口調だったが、俺は聞き逃さなかった。
「未練」と言った。あの書き損じの山を、ただのゴミではなく「未練」と呼んだ。つまり彼女は、あの手紙の一枚一枚に、俺への感情が込められていたことを自覚している。
「それだけで、大きな一歩です」
俺が微笑むと、ディアブラは視線を逸らした。
耳の先が、ほんの少しだけ赤い。
「……座れ。茶を入れた」
テーブルの上に、二人分のカップが置かれていた。
魔王が相談員に茶を出す。前代未聞だろう。
俺は素直に椅子に座り、カップを手に取った。温かい。薬草茶のような、独特だが悪くない香りがした。
「美味しいですね」
「当然だ。私が淹れたのだからな」
虚勢が少しだけ混ざっているが、昨日ほど硬くない。
俺はカップを置き、本題に入った。
「宿題、やってきてくれたんですよね?」
ディアブラの指が、テーブルの上でわずかに動いた。
その先に、一枚の羊皮紙が置かれている。丸められていない、きちんと広げられた紙だ。
「……書いた。だが、読み上げるのは恥ずかしい。自分で読め」
俺は手を伸ばし、羊皮紙を手に取った。
達筆だった。
だが、何度も書き直した跡がある。消したインクの痕が重なり、最終的に残された文章は短かった。
『最初に私が望んだものは、居場所だった』
俺は顔を上げた。
ディアブラは窓の外を見ている。俺と目を合わせたくないらしい。
「……聞かせてもらえますか」
静かに促す。
沈黙が数秒。
やがて、ディアブラがぽつりと口を開いた。
「私は……混血だ」
窓から差し込む光が、彼女の横顔を照らしていた。
漆黒の鎧の下にある白い肌。額の小さな角。そして、瞳の色は人間のそれに近い琥珀色だった。
「人間の母と、魔族の父の間に生まれた。……もっとも、父と呼べるほどの関係ではなかったがな」
「……」
「人間の村では、角があるというだけで化け物と呼ばれた。石を投げられ、家を焼かれ、母と共に追い出された」
ディアブラの声は淡々としていた。
何百回も反芻した記憶だからだろう。感情の角が擦り切れて、ただの事実になっている。
「魔族の中に逃げ込んだ。だが、今度は人間の血が混ざっているから穢れだと蔑まれた。半端者。どちらの世界にも属せない異物。……それが私だった」
俺は何も言わず、ただ聞いていた。
「母は、私が十になる前に死んだ。過労と、村人からの暴力の後遺症だ。最期に母は言った。『この世界は、いつか変わる。あなたが変えなさい』と」
ディアブラが、初めて窓から視線を外し、自分の手を見下ろした。
「だから、考えた」
拳を、ゆっくりと握る。
「もし全ての種族の壁がなくなれば。人間も魔族もエルフもドワーフも、区別なく暮らせる世界になれば。……私のような存在にも、居場所ができるのではないかと」
俺の胸の奥が、じくりと痛んだ。
「それが、あなたの本当のヴィジョンだったんですね」
「……ヴィジョン、か。お前たちの言葉を借りるなら、そうなるのだろうな」
ディアブラは自嘲するように唇を歪めた。
「だが、現実はそう甘くなかった」
彼女の声が、初めて震えを帯びた。
「対話を試みた。何度も。何十回も。人間の王に書簡を送った。エルフの長老に使者を出した。ドワーフの族長に会談を申し入れた。……全て拒絶された。書簡は焼かれ、使者は殺され、会談の席には刺客が送り込まれてきた」
「歩み寄ろうとするたびに、裏切られたんですね」
「ああ。その通りだ」
ディアブラは深く息を吸い、長く吐いた。
「いつしか、対話など不可能だと思い知った。ならば力で統一するしかない。全てを私の支配下に置けば、争いはなくなる。種族の壁も消える。……そう自分に言い聞かせて、数百年を戦い続けた」
長い、長い沈黙。
「だが、力で従えた者たちは、私を恐れるだけで理解しなかった。敬意ではなく恐怖で繋がった関係は、糸一本で吊るしたのと同じだ。少しでも力が弱まれば、全てが崩れ落ちる」
ディアブラの拳が、白くなるほど握りしめられた。
「結局、私は……最初よりもずっと孤独になっただけだった」
その言葉が、静かな部屋の中に沈んでいった。
匿名の手紙に書かれていた、あの言葉が蘇る。
『人類を滅ぼすべきか、迷っています』
あれは、怒りでも狂気でもなかった。
何百年も拒絶され続けた人間が、「もうどうしていいかわからない」と、見ず知らずの相談窓口に縋りついた悲鳴だったのだ。
「ディアブラ」
俺は、声の温度を慎重に整えた。
否定しない。同情もしない。ただ、事実を伝える。
「あなたの理想は、間違っていなかった」
ディアブラの目が、わずかに見開かれた。
「全ての種族が分かり合える世界。それは最も難しくて、最も尊い理想だ。あなたがそれを望んだこと自体は、何も間違っていない」
「……だが」
「ええ。手段が間違っていた」
俺はまっすぐに彼女の目を見た。
「対話が裏切られたから、力で支配する道を選んだ。気持ちはわかります。何十回も拒絶されれば、誰だって心が折れる。でも、力で従えた世界は、あなたが望んだ『分かり合える世界』とは真逆のものだった」
「……」
「理想が正しくても、手段が間違っていれば、理想そのものが歪む。あなたは今、自分のヴィジョンを自分の手で裏切っている状態なんです」
ディアブラの唇が、震えた。
数秒の沈黙。
そして、堰が切れた。
「わかっている……!」
声が裂けた。
玉座の間では絶対に見せなかった、剥き出しの感情だった。
「わかっているのだ、そんなことは……! だが、どうすればいい! 対話は失敗した! 力も失敗した! 何百年もかけて、どちらも失敗した私に、今さら何ができるというのだ!」
テーブルの上のカップが、彼女の拳の振動で揺れた。
「お前が来てくれた時……手紙を読んだ時……私は何百年ぶりかに、息ができた」
声が震えている。
もう、取り繕う余裕がない。
「お前だけが、私を拒絶しなかった。お前の言葉だけが、私を『魔王』ではなく、ただの一人の存在として扱ってくれた」
ディアブラの琥珀色の瞳に、涙が浮かんでいた。
「だから……お前がいなくなったら、私は……」
涙がこぼれかけて、彼女は歯を食いしばった。
唇を噛み、拳を握り、全身で泣くことに抵抗している。
数百年の誇りが、魔王としての矜持が、目の前の人間に泣き顔を見せることを許さない。
俺は何も言わなかった。
急かさない。否定しない。ただ、そこにいる。
前世で学んだことがある。
人が本当に壊れる時、一番必要なのは正しい言葉じゃない。ただ、同じ部屋にいてくれる人間だ。
沈黙が流れた。
一分か、五分か。
窓から入る風だけが、カーテンを揺らしていた。
やがて、俺は静かに立ち上がった。
「今日はここまでにしましょう」
「……逃げるのか」
「違います。あなたが今感じていることを、一晩かけて受け止める時間が必要だからです」
ディアブラが顔を上げた。
涙は流れていなかった。目は充血して、鼻の頭が赤い。でも、堪えきった。
「感情は、吐き出した直後じゃなくて、その後の静かな時間で整理されるものです。明日、また来ます。今夜は何も考えなくていい」
俺は扉へ向かい、取っ手に手をかけた。
そして、振り返って一つだけ。
「ディアブラ。泣いてもいいんですよ。ここには、あなたを蔑む人間は一人もいない」
ディアブラは答えなかった。
ただ、窓の外を見つめたまま、唇をきつく結んでいた。
俺は扉を少しだけ開けたまま、廊下に出た。
* * *
廊下の壁に、フランがもたれていた。
前回はリゼだったが、今日はフランか。交代で俺を待ってくれているらしい。
「……終わったの?」
「途中だ。明日、もう一度やる」
「あなたの顔色の方が心配だわ」
「大丈夫だよ」
「嘘ね」
フランは即座に見抜いた。
だが、それ以上は追及しなかった。
「でも、今は信じてあげる。……ルゥからの伝言メモを、あなたの部屋の机の上に置いておいたわ」
「何て?」
「『お兄さん、ちゃんとご飯食べてね! あとルナより、部屋の周りにトラップ設置済み。安心して眠れ』だそうよ」
「トラップは外してくれ」
「外さないわよ。あなたの安全に関することは、私も賛成だから」
俺は苦笑した。
ヒロインたちの過保護は相変わらずだが、今はそれが少しだけありがたかった。
「フラン」
「何?」
「……ありがとう。みんなにも伝えてくれ」
フランは一瞬だけ目を見開き、すぐにいつもの無表情を取り繕った。
だが、耳の先が赤い。
「……別に。管理者の安全を確保するのは、運用上の義務よ。感謝される筋合いはないわ」
言いながら、背を向けて歩き出すフラン。
数歩進んだところで、彼女は足を止め、振り返らずに小さく言った。
「……頑張って。あの人を救えるのは、あなただけだから」
金髪が揺れて、角を曲がっていった。
俺は一人残された廊下で、天井を仰いだ。
ディアブラの震える声が、まだ耳の奥に残っている。
あの孤独は、俺の手に余るものかもしれない。
数百年分の痛みを、たかだか数回の面談で溶かせるとは思わない。
それでも。
あの部屋の扉は、少しだけ開いている。
風は通っている。光も入っている。
明日、もう一度。
俺にできることは、明日もあの部屋に行くことだけだ。
* * *
その夜。
ナギが去った後の、魔王の私室。
ディアブラは椅子に座ったまま、動けなかった。
ナギの最後の言葉が、頭の中で反響している。
『泣いてもいいんですよ。ここには、あなたを蔑む人間は一人もいない』
数百年間。
一度も流さなかった涙。
人間にも、魔族にも、部下にも、敵にも。誰の前でも泣かなかった。泣いてはいけなかった。魔王が泣けば、全てが崩れると信じていた。
でも、今。
この部屋には誰もいない。
扉は、あの男が開けたまま少しだけ隙間がある。
窓から夜風が吹き込んで、カーテンを揺らしている。
閉じ込められていない。
いつでも出ていける。
その安心感が、最後の一枚の壁を溶かした。
ぽたり、と。
テーブルの上に、一滴の雫が落ちた。
ディアブラは声を出さなかった。
誰にも聞かれたくなかった。
ただ、暗い部屋の中で。
世界を滅ぼそうとした魔王は、初めて。
一人で、静かに、泣いた。
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お知らせ
2026.4.30 設定資料集・スピンオフ短編はじめました。
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