第62話 一メートルルールは六時間で崩壊する
宴が終わり、魔族たちがそれぞれの持ち場に帰った後。
ディアブラの私室の隣にある書庫は、急ごしらえの客室として一応の体裁を整えていた。古い書物を壁際に寄せ、スケルトン兵たちが城中からかき集めた寝具がずらりと床に並んでいる。
寝具の質は、やはりバラバラだった。
一つだけ上等な羽毛布団。ディアブラが「私の私物だが、客人に使わせる」と渋々差し出したものだ。
次点で、ダークナイトの陣中マント。分厚くて意外と暖かい。
アンデッド用の棺桶マットレス。見た目が不吉だが寝心地は悪くないらしい。
魔王軍の支給毛布。薄い。
そして、藁。
「さて、俺はこの隣の小部屋で——」
「「「「「却下」」」」」
俺が撤退宣言をする前に、五つの声が完璧にユニゾンした。
知ってた。
「ナギの護衛は私だから、当然隣! これはエビデンスに基づいた合理的な判断だよ!」
リゼが真っ先に羽毛布団の横に陣取った。エビデンスの使い方が完全に自己都合だ。
「非論理的ね。管理者の睡眠環境を最適化するためには、温度調節魔法を使える私が隣にいるべきよ。データに基づく最適解はこちらだわ」
フランが冷静な顔で、リゼの反対側に毛布を敷き始めた。理屈が完璧すぎて反論しづらい。
「お兄さんの隣はルゥたち! ルゥは小さいから場所取らないよ! ほら、こうやって隙間に……」
ルゥが俺の足元にするりと潜り込もうとした。一瞬だけ瞳が冷たく変わり、ルナの声が混ざる。「——足元の方が死角になりやすい。警備上の要衝よ。ここは譲れないわ」
バウンダリーの概念はどこへ行った。
「先生の隣は世界一可愛い私の特等席ですっ♡ だって、聖剣が一番近くにあった方が安全でしょ?」
アリスが聖剣を抱きしめながら、ナギの頭側に布団を敷こうとした。確かに物理的な防衛力は最強だが、聖剣が頭の横にある環境で安眠できる人間はいない。
「ナギ様。私が一晩中、微弱な回復魔法をかけ続ければ、翌朝には細胞レベルで——」
「セラフィーナ、それが一番眠れないやつだと何度言えば」
「加減はしますわ! 以前の私とは違います!」
それは認める。だが、寝ている間にずっと魔法をかけられ続ける恐怖は、加減の問題ではない。
五人が五方向から俺の寝床を囲む態勢で膠着状態に入った。
このまま朝まで交渉し続けるのが目に見えている。
俺は腹を括った。
「……わかった。全員等距離。俺を中心に放射状に寝ろ。ただし条件がある」
五人が一斉に耳を立てた。
「俺との間に最低一メートルの間隔を空けること。夜中に移動してきたら今後の面談枠を削る」
「一メートル!? それじゃナギの寝息が聞こえない!」
「聞くな」
「管理者の呼吸数を計測することで、睡眠の質を——」
「計測するな」
「お兄さん、一メートルってどのくらい?」
「腕を伸ばして届かない距離だ」
「先生、せめて五十センチに——」
「却下。一メートル。最終決定」
ぶうぶうと不満の声が上がったが、俺がカウンターで見せる「これ以上は譲りません」の業務用の目をすると、全員がしぶしぶ引き下がった。
結果。
書庫のど真ん中に俺の寝床を置き、一メートルの間隔を空けて、ヒロインたちが花びらのように放射状に配置された。上から見たら異様な光景だろう。
ディアブラが書庫の入口から中を覗き、その配置を一瞥した。
「……花のようだな。物騒な花だが」
「おやすみなさい、ディアブラ」
「……ああ」
ディアブラはそれだけ言い残して、自分の私室に戻っていった。
その背中が、少しだけ名残惜しそうに見えたのは、気のせいだろうか。
* * *
深夜。
書庫は寝息に包まれていた。
だが、俺は眠れなかった。
天井の高い部屋だ。古い書物の匂いと、石壁の冷たさ。魔王城の夜は、静かすぎる。
明日、彼女は宿題にどう答えるだろう。
「覚えていない」は本心だったのか。それとも——。
考えかけて、やめた。
答えはディアブラが出す。
ふと、左腕に温もりを感じた。
見ると、リゼが寝返りを打って、一メートルの境界線を軽々と突破し、俺の袖をぎゅっと掴んでいた。
条約違反である。
だが、寝ている人間には抗議できない。
「……ナギ……いかないで……」
寝言だった。
どこまでも不器用な、見捨てられ不安の残滓。
だが、掴む力は以前よりずっと弱い。縋り付くのではなく、確かめるように触れているだけ。
右側を見ると、フランも無意識に距離を詰めていた。一メートルが七十センチくらいになっている。寝息の合間に「……ナギ……プロトコル……」と呟いている。夢の中でも管理しようとしているらしい。
足元からは、ルゥの小さな寝息。彼女は一メートルの境界を守っていた。ただし、ルナが仕掛けたらしい糸が俺の足首に結ばれていた。引っ張ると鈴が鳴る仕組みだ。逃亡防止のトラップである。SOPの範囲外だろ、これ。
俺は小さく笑い、リゼに袖を掴まれたまま目を閉じた。
* * *
同じ頃。
魔王の私室。
ディアブラは眠れなかった。
テーブルの上には、新しい羊皮紙と新しいインク壺。
今度は手紙ではない。宿題の答えを書こうとしていた。
ペンを取り、一行書く。消す。
また書く。また消す。
でも、今回は丸めて捨てなかった。消した跡の上に、重ねて書いていく。
大広間の光景が、何度も瞼の裏に蘇る。
人間と魔族が、同じテーブルで笑っていた。
あの相談員が「一緒に食べませんか」と皿を差し出してきた。
シチューが温かかった。
こんな光景を、何百年、夢に見てきただろう。
ディアブラはペンを置き、書き上がった羊皮紙を見つめた。
何度も消した跡が重なった紙の上に、一行だけが残っていた。
彼女はそれを丸めずに、そっとテーブルの上に置いた。
明日。
あの男に、渡す。
* * *
翌朝。
俺が目を覚ますと、一メートルの間隔は完全に消滅していた。
右腕にリゼ。左腕にフラン。足元にルゥ。頭上にアリス。背中からはセラフィーナの微弱ヒールの残り香。
五方向から人間の体温が押し寄せ、魔王城の冷気を完全に打ち消している。
「……暑い」
一メートルルールとは何だったのか。
俺は全身を使って人の壁を脱出し、書庫の扉を開けた。
廊下に、ディアブラが立っていた。
クマは相変わらず。眠れなかったのだろう。
だが、表情が昨日とは違っていた。宴で見せた驚きとも、カウンセリング中の苦しみとも違う。何かを決めた人間の顔だ。
「……随分と、賑やかな夜だったようだな」
「おかげさまで。……寝られましたか」
「少しだけ」
ディアブラの右手に、一枚の羊皮紙が握られていた。
丸められていない。きちんと広げられた、一枚の紙。
「宿題は、書いた」
俺は頷いた。
「じゃあ、聞かせてください。部屋に行きましょう」
「……ああ」
ディアブラが踵を返し、私室へ向かって歩き出す。
その歩調は、昨日より少しだけ速かった。
俺は彼女の半歩後ろについて歩きながら、廊下の壁画に目をやった。
若き日のディアブラが、軍勢を率いている絵。あの時の目は、何かを信じている人間の目だった。
今朝の彼女の目が、あの壁画と少しだけ重なった気がした。




