第6話 匿名相談「人類を滅ぼすべきか迷っています」
翌朝。
開館前の冒険者ギルドは、さすがに静かだった。
昨日までの修羅場が嘘みたいに、広いホールには椅子を引く音ひとつない。
そんな静寂の中、俺はカウンターに肘をついて、一枚の便箋とにらみ合っていた。
『人類を滅ぼすべきか、迷っています』
何度読み返しても、そう書いてある。
達筆だった。
字は妙に整っているし、紙も上等だ。インクのにじみもなく、文面そのものはひどく丁寧ですらある。
だからこそ、内容の物騒さだけが浮いて見えた。
「……規模がでかいな」
相談窓口に届く悩みというのは、普通もう少し手触りがあるものだ。
眠れないとか。
仲間とうまくいかないとか。
自分の価値がわからないとか。
人類を滅ぼすか迷ってる、は相談のスケール感としてかなり独創的である。
「朝から何を難しい顔してんだ」
出勤してきたギルドマスターが、俺の肩越しに覗き込んで、便箋を読んだ。
「……なんだこりゃ」
「匿名相談です」
「相談?」
「目安箱に入ってました」
「ははっ、またタチの悪い悪戯だろ」
ギルドマスターは愉快そうに笑った。
「“人類を滅ぼす”なんざ、酔っ払った冒険者でもなかなか言わねえぞ。適当に丸めて捨てとけ」
「普通はそうしますよね」
「普通じゃねえ対応するのか? お前は」
「まぁ……一応相談員ですので」
最近、自信がないが。
マスターは豪快に笑いながら、奥の執務室へ引っ込んでいった。
たしかに、悪戯の可能性は高い。
むしろ九割九分そうだろう。
でも、前世の経験が小さく警鐘を鳴らしていた。
人は本当に追い詰められた時、妙に冷静な文章を書くことがある。
冗談みたいな形で助けを求めることもある。
“本気でやる力”を持っている相手ほど、実行直前にだけ妙に丁寧になることもある。
だから、少なくとも俺は無視したくなかった。
「……悪戯なら、それでいい」
何も起きないなら、その方がいいに決まっている。
だが、もし本気なら。
その時に「変な手紙だったので捨てました」は、相談窓口として最悪だ。
俺は新しい羊皮紙を取り出し、ペンを取った。
相手が誰であれ。
冒険者でも、貴族でも、頭のおかしい暇人でも、あるいは本当に人類を滅ぼせる何かでも。
相談が届いたなら、返すべき言葉は一つだ。
――まず、話を整理しましょう。
俺はごく普通の業務文書みたいな顔で、返事を書き始めた。
* * *
開館後。
俺は書き上げた返信を、目安箱の横――『こころの相談窓口(仮)』の木札の下に貼り出した。
匿名相手だから、直接渡しようがない。
なら、公開返信である。
文面はこうだ。
『ご相談ありがとうございます。
人類の滅亡という、非常に規模の大きな決断でお悩みのこととお察しします。
ただし、不可逆な判断を下す前に、まずは理由を整理しましょう。
滅ぼしたい理由は何ですか。
怒りか、失望か、孤独か、それとも義務感か。
可能であれば、理由を三つほど箇条書きにして再度ご投函ください。
衝動的な決断は、後悔につながることが多いです。』
……うん。
書いてる内容は大真面目なんだが、客観的に読むとだいぶ変だな。
まあいい。
こういうのは、真顔でやるのが大事だ。
「ナギ」
聞き慣れた、少し張った声がした。
振り向くと、濃紺のローブを翻してフランがこちらへ歩いてきていた。
今日も姿勢がいい。
髪も整っているし、表情も昨日よりは落ち着いて見える。
ただ、完璧に見える人間ほど、近くで見ると無理の痕跡は隠し切れない。目の下の薄い影が、そのまま昨夜の睡眠事情を物語っていた。
「おはようございます、フラン」
「ええ。……それより、何かしらこれは」
彼女は俺の横に貼った返信へ目を留め、読み上げた。
「『人類を滅ぼすべきか迷っている方へ』……?」
「匿名相談への回答です」
「本気で書いたの?」
「本気です」
フランは少し黙った。
そして、続きを目で追う。
「『滅ぼしたい理由を三つほど箇条書きにして再度ご投函ください』……」
読み終えて、俺を見る。
「悪戯でしょう、どう考えても」
「そうかもしれません」
「なら無視するのが合理的では?」
「悪戯ならそれで終わりです。でも、本気で悩んでる相手なら、返事があった方がいい」
「……」
フランは表情を変えないまま、もう一度羊皮紙へ目を戻した。
「相手の主張の異常さをまず否定しない」
「はい」
「そのうえで、実行より先に“理由の言語化”を要求する」
「ええ」
「感情の暴発を、一度論理の土俵へ引きずり戻すわけね」
俺は少しだけ目を瞬かせた。
「……まあ、結果としてはそうなります」
「やっぱり」
フランが妙に満足げな顔をした。
「あなた、どんな相手にもペースを崩さないのね。たとえ“人類を滅ぼしたい”なんて馬鹿げた相談でも、淡々と手順を刻む」
「いや、相談窓口なので」
「その姿勢が異常なのよ。普通は笑うか、怒るか、追い返すわ」
「追い返したあと本当に滅ぼされたら困るでしょう」
「発想が怖いわね」
でも、とフランは続けた。
「嫌いじゃないわ、そのやり方」
「ありがとうございます」
「……やっぱり、あなたは私に必要ね」
するっと重いことを言う。
「まだ一回寝不足を認めただけで、そこまで結論を急がなくていいんですよ」
「いいえ。むしろ確信が深まったわ」
「論理の速度が速いな……」
フランはほんの少しだけ唇を緩めた。
初日に比べれば、だいぶ柔らかい表情を見せるようになっている。
そのこと自体は悪くない。
悪くないんだが、柔らかくなる方向がすでにこっちへ向きすぎている気がするのが問題だった。
「それで、今日はどうですか」
俺は話を切り替える。
「昨日より少しは休めましたか」
「……寝つきは最悪だったけれど、昨日ほどではなかったわ」
「それは前進です」
「あなた、何でも前進にするのね」
「実際、ゼロか百ではないので」
「……その考え方、まだ慣れないわ」
フランが小さく息を吐く。
「でも、昨日よりは“八割でも死なない”と思えた」
「十分な進歩です」
「あなたがそう言うなら、たぶんそうなのでしょうね」
その言い方も重いんだよなあ。
「……じゃあ、次は私の番だよね」
すっと、カウンターの死角から銀色の頭が現れた。
「うおっ」
「リゼ」
「いた」
いた、じゃない。
いつからだ。
俺とフランが驚くのも当然だった。
リゼはどうやら、俺のカウンターの真横、床にしゃがみ込んで気配を消していたらしい。
Aランク剣士の無駄遣いである。
「床に座らないでください」
「ごめん」
「しかも気配まで消さないでください。心臓に悪い」
「次から気をつける」
「次があるのも困るんですが」
リゼは素直に立ち上がった。
その一方で、フランは露骨に眉をひそめている。
「……盗み聞き?」
「待ってただけ」
「結果的に同じでしょう」
「フランはいつも細かい」
「あなたが雑すぎるのよ」
「はい、ストップ」
また燃えそうだったので早めに止める。
「今はリゼの番です」
「ええ、わかっているわ」
「わかってなさそうな顔してるけどね」
「リゼ」
「ごめん」
その“ごめん”が今日だけで何回目だろう。
俺はリゼへ向き直った。
「それで、何か考えたことがあるんですよね」
「うん」
リゼは少しだけ真面目な顔になった。
昨日よりも、確かに表情に余裕はある。絶望で潰れそうな色は、最初に比べればだいぶ薄い。
「昨日、ずっと考えてたの」
「はい」
「私が一緒にいると、みんな無理をして怪我をする」
「……」
「でも、それは“私が弱いから”だけじゃないって、ナギは言ったよね」
「ええ。一人で全部背負うな、と」
「うん」
リゼが小さく頷く。
「だから、結論を出したの」
「いいですね。聞かせてください」
少しだけ、期待した。
仲間と話し合うとか。
無理な依頼の組み方を見直すとか。
ソロ一辺倒ではなく、組む相手を慎重に選ぶとか。
そういう方向なら、十分前向きだ。
だが、リゼの口から出た結論は、俺の予想をかなりきれいに飛び越えていった。
「もう、誰ともパーティを組まない」
「……はい?」
「私が他の人と関わらなければ、誰も無理しないで済むから」
「それは」
「私がソロでいる限り、少なくとも誰かを巻き込んで壊すことはないでしょ?」
リゼは、とても晴れやかな顔で言った。
「完璧な解決策だと思わない?」
違う。
それは解決ではない。
俺は内心で頭を抱えた。
自己否定の泥沼からは一歩出た。
その代わり、今度は“関わらなければ傷つかない”という極端な回避へ飛んでいる。
孤立は回復じゃない。
ただ別の牢に入るだけだ。
「リゼ、それは少し極端です」
「極端じゃないよ」
「誰とも組まない、誰とも深く関わらない、で本当に楽になりますか」
「なるよ」
即答だった。
「だって、ナギがいるから」
背筋に冷たいものが走った。
「……え?」
「他の人はいらない」
リゼが一歩、こっちへ近づく。
「仲間はいらない。パーティもいらない。依頼は一人でやる」
「リゼ」
「帰ってきたら、ナギのところに来る」
「それは」
「ナギだけが、私を怖がらないでいてくれるから」
銀色の瞳が、まっすぐこちらを射抜く。
「ナギだけが、見捨てないって言ってくれた」
「……」
「だから、私はナギの言うことだけ聞く。ナギだけの剣になる」
重い。
感情の直球すぎる。
しかも本人はそれを“前向きな結論”だと思っている顔をしている。
背後でフランが小さく息を呑む気配がした。
理屈で固めるタイプの彼女から見ても、リゼの一直線さは相当に危うく映るらしい。
「リゼ」
俺はなるべく慎重に言葉を選ぶ。
「他の人間関係を全部切って、俺だけに絞るのは違います」
「どうして?」
「依存先を一つにするだけだからです」
「……依存?」
その単語に、リゼが少しだけ眉を寄せた。
完全には意味が通っていない顔だ。
「あなたが必要なのは、“俺しかいない状態”じゃない」
「でも、ナギがいれば……」
「今はそう思っていても、それは回復じゃありません」
「……」
リゼは黙った。
納得したわけではない。
むしろ、“わかってほしいのに止められた”顔だ。
そして、その顔のまま、こてんと首を傾げる。
「……ねえ、ナギ」
「はい」
「私、いい子でしょ?」
ぞくり、とした。
笑顔は無垢だった。
あまりにも無垢で、だからこそ危うかった。
褒めてほしい。
認めてほしい。
自分の存在を、たった一人に肯定してほしい。
その感情が、まっすぐすぎる形で全部こっちへ向いている。
人類を滅ぼすかどうか迷っている匿名相談者も大概だが。
目の前で“ナギだけいればいい”と笑うAランク剣士も、一歩間違えれば、俺の日常をかなり綺麗に滅ぼしてくれそうだった。




