第59話 ポイズン・デス・カース・アタック
魔王の私室へ向かう廊下は、思ったより長かった。
ディアブラが先を歩いている。
漆黒のマントが石畳を擦り、規則正しい靴音が反響する。だが、その歩調は微妙に遅い。
案内しているのだから先を歩くのは当然だ。当然なのだが、なぜか俺の半歩前をキープし続けている。追い越させないし、離れもしない。
並んで歩きたいのだろう。
ただ、「魔王が人間の相談員と肩を並べる」という絵面が、自分のプライドに許可を出せないらしい。
俺は気づかないふりをして、彼女の歩調に合わせた。
廊下の壁には、巨大な壁画が描かれていた。
魔王軍の栄光を記録したものらしい。数百年前の戦場を、黒い鎧の王が率いている図。その横には、何千もの魔族の軍勢が忠誠を誓うように膝をついている。
壁画の中のディアブラは、今よりずっと目に力があった。
怒りでも狂気でもない。何かを信じている目だ。
……今のディアブラの目は、それと似ているようで全然違う。
信じるものを失った人間が、それでも立っていなければならない時の目だ。
俺は壁画から視線を外し、黙って歩き続けた。
今はまだ、触れるべきではない。
* * *
私室の扉を開けた瞬間、俺は足を止めた。
「……すごいな」
部屋中に、丸められた羊皮紙が散乱していた。
床にも、テーブルの上にも、椅子の上にも。ベッドの枕元にまで転がっている。インク壺が三つ、空になって横倒しになっていた。羽ペンの先が二本、折れて放置されている。
想像はしていたが、実物を見ると凄まじい。
前回の面談から約二週間。その間ずっと、ディアブラは手紙を書いては捨て、書いては捨てを繰り返していたのだ。
「片付ける暇がなかっただけだ」
ディアブラが早口で言い訳した。
俺は何も言わず、散乱した紙を踏まないように気をつけながら、部屋の奥にある椅子まで歩いた。
質素な部屋だった。
魔王の私室というから、もっと豪奢なものを想像していたが、実際には小さな机と椅子、本棚、それにベッドがあるだけだ。装飾品はほとんどない。唯一目を引くのは、本棚に並んだ大量の書物だった。人間の国の歴史書や哲学書まで混ざっている。
孤独な人間が長い夜を過ごすための部屋、という感じだった。
「座ってください、ディアブラ。俺はこっちの椅子を使います」
「……指図するな。ここは私の部屋だ」
「じゃあ、お願いします」
「……ふん」
ディアブラが渋々、テーブルの向かい側に腰を下ろした。
俺はまず窓を開けた。冷たい山の空気が流れ込み、インクと埃の匂いが少しだけ薄まる。
「なぜ窓を開ける」
「空気を入れ替えるためです。密室は息が詰まりますから」
次に、扉を少しだけ開けた。完全には閉めない。
前世からの癖だ。面談室の扉は少し開けておく。閉じ込められている感覚を減らすために。
「……扉も閉めんのか」
「ええ。いつでも出ていけるという安心感があった方が、人は本音を話しやすいんですよ」
ディアブラが、ほんの一瞬だけ目を見開いた。
何百年も座り続けた玉座。あそこには窓もなければ、出口も一つしかない。「出ていけない」場所で、「出ていけない」役割を背負い続けてきた彼女には、この言葉がどう聞こえただろう。
だが、ディアブラは何も言わなかった。
ただ、開いた窓から入る風に、少しだけ目を細めた。
* * *
「さて」
俺はテーブルに肘をつき、いつもの相談窓口と同じ姿勢を作った。
対面に座る相手が最強の剣士でも、天才の魔法使いでも、世界を滅ぼそうとした魔王でも、やることは変わらない。
「前回お送りした計画書、読んでいただけましたか」
軽い口調で切り出した。
ディアブラの背筋がピンと伸びる。
「当然だ。隅々まで目を通した。あれは素晴らしい『ぱらだいむ・しふと』であった。我が軍にも早速適用し、あじゃいるなるものと、ぴーでぃーしーえーを徹底させている」
自信満々だった。
胸まで張っている。
「ちなみに、PDCAって何の略ですか」
「……ポイズン、デス、カース、アタックだ」
即答だった。
迷いがなかった。
「違います」
沈黙が落ちた。
ディアブラの表情が、スローモーションで凍りついていく。
自信満々だった分、ダメージが大きいらしい。
「……で、では何の略なのだ」
「プラン、ドゥ、チェック、アクト。計画して、実行して、検証して、改善する。業務改善の基本サイクルです」
「……」
「毒も死も呪いも攻撃も入ってません」
「……そ、そうか」
ディアブラは腕を組み直し、必死に平静を装った。
だが、耳の先が赤い。
「まあ、些末な誤差だ。本質は同じであろう」
「本質も違います」
もう一発。
ディアブラの唇がわなわなと震えた。
追い詰めすぎてはいけない。
ここからは、落とす。
「……ディアブラ。正直に聞きます。あの計画書、本当はほとんど意味がわからなかったでしょう」
ディアブラの肩が、びくりと跳ねた。
「わ、わからないなどと……! 私は魔王だぞ! あの程度の文書、完璧に理解して……!」
「あの計画書、実は中身がほとんどないんです」
「……は?」
ディアブラの動きが完全に止まった。
「意味ありげな横文字を大量に並べただけの、ハッタリです。読めば読むほど混乱するように作ってあります。中身はゼロです」
数秒の沈黙。
「……ゼロ」
「ゼロです」
「あの分厚い計画書が」
「全部ハッタリです」
ディアブラの顔から、ゆっくりと色が抜けた。
「で、ではなぜあのようなものを寄越したのだ……!」
「あなたに休んでもらうためです」
俺は姿勢を崩さず、穏やかに続けた。
「あなたは、自分に休む許可を出せない人だと思いました。『専門家の指示だから仕方なく休む』という口実がないと、玉座を離れられない。だから、もっともらしい計画書を送って、『これを実行するには万全の状態が必要だ』という理由を作ったんです」
ディアブラは、テーブルの上で拳を握りしめていた。
怒るだろうか。
騙されたことへの屈辱で、この場で俺を焼き殺すかもしれない。
だが。
「…………ふ」
小さな音が漏れた。
「ふ、ふふ……」
笑っていた。
力のない、自嘲的な、でもどこか安堵の混じった笑いだった。




