第56話 アンコンシャス・バイアスと真の勇者
黄金貨商会での研修を終え、俺たちは再び魔王城へ向かっていた。
前回の訪問から、約二週間。
あの時は何の準備もなく乗り込んで、勢いだけで魔王と対峙した。今度は違う。フェンリルのコンサル・メソッドを叩き込まれたヒロインたちと、俺自身の臨床心理士としての覚悟。この二つを携えて、正面から挑む。
「ナギ。最終確認よ」
荒野を進む道すがら、フランが歩きながら手元の羊皮紙に目を落とした。
そこには、フェンリル直伝の『魔王軍組織改革ロードマップ(第一版)』が、彼女の几帳面な文字でびっしりと書き写されている。
「現場の魔族たちへのヒアリングと業務フローの可視化が最優先。ボトルネックを特定し、PDCAの……本物のPDCAのサイクルを回す。これが私たちの任務ね」
「うん。で、俺は魔王本人のカウンセリングに集中する」
「ナギ、一人で大丈夫? あの魔王、なんか目がヤバかったよ」
リゼが心配そうに俺の袖を引いた。
木剣の柄に手をかけたまま離さないあたり、不安は消えていないらしい。だが、その手が震えていないのは、確かな成長だった。
「大丈夫だよ。お前たちが城の中にいてくれるなら、俺は安心して仕事ができる」
「……ふん。当然でしょ」
リゼは少しだけ頬を赤くして、前を向いた。
「お兄さん、ルゥたちも頑張るからね! 魔族のおじさんたちに、えびでんすとか、あじゃいるとか、いっぱい教えてあげるの!」
「……ルゥ。教える側が意味をわかっていなければ、説得力はゼロよ」
「ルナひどい! ルゥだってちゃんと覚えたもん! えーっと……ぴーでぃーしーえー!」
「発音だけは完璧ね」
ルゥとルナが脳内で言い争っている横で、セラフィーナが静かに祈りを捧げていた。
「ナギ様に女神の御加護がありますように。……そして、万が一の時には、魔王城ごと聖なる光で――」
「浄化はしないでください」
「……そうですか、ナギ様がそう仰るなら」
アリスは聖剣を背負い直し、ぐっと拳を握った。
「先生。私、今度こそ勇者として胸を張れます。このフリルの服のまま、先生を守ってみせますっ」
「頼りにしてるよ、アリス」
俺がそう言うと、アリスはパァッと顔を輝かせ、嬉しそうにリボンの端を指先でくるくると巻いた。
やがて、荒野の先に、禍々しい暗雲に覆われた巨大な城塞が姿を現した。
魔王城。
前回は偵察と初回面談。今回は、本番だ。
「よし」
俺は足を止め、全員の顔を見回した。
見捨てられ不安を乗り越えた剣士。
完璧主義を手放した魔法使い。
二つの魂で一つの命を紡ぐ盗賊。
崇拝から卒業した聖女。
ありのままの自分で立つ勇者。
かつて俺の窓口に傷ついて駆け込んできた彼女たちが、今は俺の隣で、それぞれの武器を握って立っている。
「……行こう。魔王を、救いに」
俺の言葉に、五人が一斉に頷いた。
こうして、俺たちは魔王城の正門を再びくぐった。
魔王城の正門を再びくぐった時、俺たちを迎えたのは静寂ではなかった。
「ぎゃあああっ! た、助けてくれぇぇっ!」
「こっちに来るな、化け物ども!」
絶叫と金属音が、城内の回廊にこだまして響き渡っている。
「……何事だ?」
俺が足を止めると、先頭を歩いていたルナが音もなく壁に張り付き、角の向こうを索敵した。
「人間が四人。重装戦士が二人に、弓兵と術士。いずれもBランク程度の装備と立ち回り。……完全に包囲されているわ」
「魔族はスケルトン兵が二十体ほどと、中級のオーク騎士が三体。ただし、こちらも統率が取れていないわね。半数はサボタージュ中で壁にもたれて欠伸をしているわ」
末期的だな、両方とも。
「先生! あの人たちの装備、見覚えがあります……!」
俺の背後で、アリスの声が固くなった。
振り返ると、彼女の人形のような顔から血の気が引いている。
「あれは……私の、元パーティーです」
その言葉に、俺の背筋に冷たいものが走った。
アリスの本性を知り、「狂った変態」と蔑んで離れていった仲間たち。彼女を洞窟に引きこもらせた、直接の原因。
「なぜ、こんなところに」
「わかりません。でも……私がいなくなった後、勝手に魔王城に攻め込んだのかもしれません。勇者がいなくなれば、手柄は独り占めですから」
アリスの声は震えていたが、もう泣いてはいなかった。
ナギに出会う前の彼女なら、この場で膝を折っていただろう。だが、霊峰の夜の焚き火で涙を流し、自分の意志で立ち上がると決めた少女(少年)は、聖剣の柄をぎゅっと握り締めていた。
「……助けに行きましょう。先生」
「ああ。行こう」
* * *
回廊の先、広間に飛び出すと、状況は想像以上に酷かった。
重装戦士の一人は片腕をやられ、壁に背をつけて息を荒くしている。弓兵は矢を撃ち尽くし、術士は魔力欠乏で膝をついていた。
残るリーダー格の大柄な戦士だけが、折れかけた剣を構えて、迫るオーク騎士の前に立ち塞がっている。
「くそっ……勇者さえいれば、こんな……!」
その戦士が呪詛のように吐き捨てた、まさにその時だった。
「――そこまでよ」
広間に、鈴を転がすような凛とした声が響いた。
フリルたっぷりのワンピースドレス。ピンクのリボンで結ばれた金髪。
そして、背中には武骨で巨大な聖剣。
アリスが、堂々と広間の中央に歩み出た。
オーク騎士たちが一斉に動きを止め、聖剣から溢れる神聖な魔力に怯んで後退する。
だが、先に声を上げたのは魔族ではなく、アリスの元パーティーの方だった。
「ア、アリスター……!? お前、何だその格好は!」
リーダー格の戦士が、アリスの姿を見て驚愕し、次の瞬間、歪んだ嫌悪に顔を染めた。
「いい加減にしろ! その気持ち悪い服を脱げ! お前は男だろうが!」
「そうだ、男なら男らしくしろ! 俺たちの盾になれ! 勇者ってのはそういうもんだろ!」
傷ついた弓兵と術士までもが、自分たちが窮地に陥っているにもかかわらず、アリスの服装と在り方を全力で否定し始めた。
その言葉を聞いた瞬間、俺の隣にいたヒロインたちの空気が、一斉に凍りついた。
「……今、なんて言ったの?」
リゼが、ゆっくりと剣を構えた。
声は低く、静かだった。いつもの感情爆発型の怒りではない。コンサル研修で身につけた、冷静な怒りだ。
「ナギが前に教えてくれた。『全部自分が悪い』で終わらせるのは、自分への処刑だって。ナギが認めてくれた本当のアリスを否定するのは……アリスへの処刑と同じだよ」
「リゼ……」
フランが一歩前に出た。
杖の先端に冷たい光が灯る。
「『生物学的な性別イコール役割』という決めつけ。それは無意識の偏見よ」
フランの氷のように澄んだ声が、広間に響き渡った。
「データに基づかない思い込みで、リソースの最適配分を阻害する。アンコンシャス・バイアスは、組織を内側から腐らせる最悪のバグだわ」
「なっ……何を言って……」
「簡単に言ってあげるわ。『男だから盾になれ』は、ただの偏見よ。アリスの能力値は、あなたたちの十倍以上あるのに、服装が気に入らないからって適材適所を放棄するなんて、愚かとしか言いようがないわ」
フランの理詰めの論破に、元パーティーの面々が口をパクパクさせる。
「多様性を受容できない組織は遅かれ早かれ崩壊するのよ」
フランがトドメの一言を刺すと、ルゥがぴょこんと前に飛び出した。
「そーだそーだ! アリスちゃんはフリフリの服着てても、すっごく強いんだよ! それを認められないなんて、おじさんたちの方がよっぽどポンコツだもん!」
そして、ルゥの瞳が一瞬だけ冷たく変わる。
「……ナギが大切にしている人間を侮辱するなら、今夜、あなたたちの宿に何が届くかわからないわよ」
ルナの低い声が混ざり、元パーティーの術士が「ひぃっ」と悲鳴を上げた。
セラフィーナは、穏やかな笑みのまま、しかし有無を言わさぬ圧で一歩前に進み出た。
「人は皆、神の前に等しく尊いのです。性別も、装いも、魂の在り方も。……それを否定する方にこそ、浄化が必要ですわね」
慈愛に満ちた声なのに、背後に展開されかけた光の魔法陣がどう見ても攻撃用だった。
俺は「浄化はやめてください」と小声で制した。
「みんな、ありがとう。……でも、ここからは私が言う」
ヒロインたちの後ろから、アリスが静かに前へ歩み出た。
その足取りは、もう震えていなかった。
アリスは元パーティーのリーダーの前に立ち、まっすぐに見上げた。
フリルのドレスの裾が、微かな風に揺れる。
「……ガイス。久しぶり」
「ア、アリスター……」
「アリスって呼んで。前にも、お願いしたでしょう」
ガイスと呼ばれたリーダーが、歯を食いしばった。
「ふざけるな……! お前が勇者だから、俺たちはパーティーを組んだんだ! 勇者ってのは、強くて、男らしくて、みんなの前に立って盾になる存在だろうが! なのにお前は……!」
「うん。知ってる」
アリスは、穏やかに微笑んだ。
「みんなが求めていたのは、『男らしい勇者』だった。私じゃなかった。……昔の私なら、それが怖くて、また隠れて、また泣いてたと思う」
アリスは、自分の胸元のリボンにそっと触れた。
霊峰の夜、ナギが結んでくれたピンクのリボン。
「でもね、ナギ先生が教えてくれたの」
アリスの声が、広間に凛と響く。
「『誰かの期待する勇者じゃなくて、自分の意志で世界を救えばいい』って。男だから盾になるんじゃない。私は、私自身のために、大切な人を守る勇者になるの」
ガイスの顔が、動揺で歪んだ。
弓兵と術士も、黙り込んでいる。
「だから、あなたたちを助ける。私を蔑んだあなたたちでも、目の前で死なせたくないから」
アリスが聖剣を抜いた。
その瞬間、広間全体に、太陽が昇ったかのような圧倒的な光が溢れた。
聖剣から放たれる魔力が、以前とは次元が違う。
洞窟に引きこもっていた頃、「男らしく振る舞わなければ」という抑圧が蓋をしていた本来の力が、完全に解放されていた。
「聖剣絶技――乙女の一閃!」
ピンク色の光を纏った聖剣が、優雅に、しかし圧倒的な速度で弧を描く。
衝撃波がオーク騎士三体を同時に吹き飛ばし、スケルトン兵の群れを壁際まで薙ぎ払った。
ただし、一体も砕いてはいない。全て峰打ちと衝撃波による気絶だ。
「……クライアントですからね。傷つけたりしませんわ」
アリスはふふんと鼻を鳴らし、剣を鞘に収めた。
フリルのドレスには、埃一つついていない。
広間が静まり返った。
腰を抜かしたガイスたちを見下ろし、アリスは小さく息を吐いた。
「もう、あなたたちとは組めない。私は私の道を行く」
振り返らず、アリスは俺たちの元へ歩いてきた。
その背中は、世界最強の勇者にふさわしく、凛として美しかった。
「先生。……ちゃんと、さよなら言えました」
「ああ。かっこ……カワイイよ、アリス」
俺が頭をぽんと撫でてやると、アリスの目尻にほんの少しだけ涙が滲んだが、すぐにパッと笑顔になった。
「えへへ。……褒めてもらえたから、今日のフリルは1000点満点ですっ♡」
……今日はフリル記念日になるかもなぁ。
魔王軍のコンサルという大仕事のスタートにふさわしい……のか?




