第55話 神殿からの卒業と、隣を歩くための愛
「先生! そのような雑務は私が! 先生の尊き手は、神聖なる鑑定作業のみに使われるべきです! さあ、この無菌状態のクッションにお座りください!」
「いや、ただ自分でお茶を淹れたいだけなんだが……息が詰まりそうだよ……」
黄金貨商会の給湯室。
ベテランの鑑定士の男性に対し、エルフの新人秘書が過剰な世話焼き(というよりほぼ拘束)を行っていた。
彼女は彼を尊敬するあまり、仕事以外のすべての行動を制限し、彼を「完璧な鑑定マシーン」として崇め奉ろうとしているらしい。
「ストップ、ストップ。二人とも、少し落ち着こうか」
俺はため息をつきながら二人の間に割って入り、鑑定士の男性にティーポットを渡してあげた。
「あのね、相手を完璧な存在として『崇拝』するのは、一見すると献身的で美しい行為に見える。でも実は、相手から『普通の人間としての自由』を奪う、ひどく残酷なことなんだよ」
「残酷……私が先生を想う気持ちがですか!?」
エルフの秘書がショックを受けたように目を見開く。俺はゆっくりと頷いた。
「ああ。相手を神格化して台座(神殿)に飾るってことは、相手の『弱い部分』や『人間らしい失敗』を許容しないってことだ。彼は神様じゃない、自分でお茶も淹れたいし、息抜きもしたい普通の人なんだよ。彼が求めているのは、自分を崇拝する信者じゃなくて、隣で一緒に歩いてくれる『同僚』じゃないかな」
俺の言葉に、エルフの秘書はハッとして鑑定士の顔を見た。
鑑定士が「頼むから、俺を普通に扱ってくれ」と苦笑いで頷くと、彼女は顔を真っ赤にして深く頭を下げたのだった。
――そんなやり取りの一部始終を。
少し開いた給湯室の扉の向こうで、セラフィーヌが静かに聞いていた。
(崇拝は、相手の人間らしい自由を奪う……。神殿に飾ることは、弱さを許容しないこと……)
彼女は自分の胸にそっと手を当て、昼間にフェンリル社長から言われた『悪魔の福利厚生』という言葉の意味を、今度こそ心の底から理解したのだった。
* * *
「……はぁ、今日も胃薬が美味しい」
その日の夜。
職員寮の自室で、俺は窓辺の夜風に当たりながら粉末の胃薬を水で流し込んでいた。
ヒロインたちの好意の暴走と、商会でのカウンセリング業務。心労は絶えないが、それでも彼女たちが確実に「依存」から抜け出し、前へ進んでいるのを感じる。
「……ナギ様。夜分遅くに、申し訳ありません」
不意に、開いた窓の向こうから、控えめな声が聞こえた。
振り向くと、そこにはいつもの神々しい法衣ではなく、落ち着いた私服姿のセラフィーヌが立っていた。
「セラフィーヌ。どうした? そんな格好で」
「はい……。今日は、ナギ様に懺悔をしたくて参りました」
彼女は静かに部屋へ入ると、俺の前に立ち、深く頭を下げた。
「昼間……いいえ、今までずっと。私はナギ様を私の用意した『神殿』に押し込めようとしていました。ナギ様は完璧で尊い存在だから、私が全てを浄化し、癒やして差し上げなければならないと」
「……」
「でも、それは違ったのですね。私はただ、自分の過剰な癒やし(回復魔法)でナギ様を無力化し、私なしでは生きられないように……鳥籠に閉じ込めようとしていただけだったのです」
それは、彼女が抱えていた「共依存への執着」の明確な自覚だった。
自分に依存させることで、自分の存在価値を確かめたかった。その身勝手な信仰心に気づき、セラフィーヌは辛そうに目を伏せた。
「ナギ様から、人間としての尊厳を奪い、廃人にしてしまうところでした……。本当に、ごめんなさい」
ポタッ、と。
彼女の目から、後悔の涙が床に落ちる。
俺は小さく息を吐き、彼女の肩にそっと手を置いた。
「……セラフィーヌ。俺も、正直に懺悔するよ」
「え……?」
「昼間、お前が『思考も感情も空っぽにしてあげる』って迫ってきた時……本当は、少し揺らいだんだ」
俺が自らの弱さを口にすると、セラフィーヌは驚いたように顔を上げた。
「俺は神様じゃない。毎日胃を痛めて、過労で倒れそうで、逃げ出したいって思うただの人間だ。だから、お前のあの究極の癒やしに身を委ねて、何もかも忘れて甘やかされたいって……あの時も今日も、何度も心が折れそうになった」
「ナギ様……」
「だからこそ、俺自身の足で立たせてくれて、ありがとう。お前が俺を神殿から降ろしてくれたから、俺は『俺のまま』でいられたんだ」
俺が優しく微笑みかけると。
セラフィーヌの瞳から、ポロポロと大粒の涙が溢れ出した。
完璧だと思っていたナギも、本当は弱さを抱え、苦しんでいた。
その事実が、彼女の中にあった「崇拝すべき偶像(神)」を完全に打ち砕き、代わりに「等身大の一人の男性」としての輪郭をはっきりと結ばせた。
「……ナギ様は、本当に弱くて、危うくて……目を離したらすぐに無理をしてしまう、ただの不器用な殿方なのですね」
セラフィーヌは、涙を拭いながらふっと柔らかく微笑んだ。
それは狂信的な聖女の顔ではなく、慈愛に満ちた、一人の女性としての顔だった。
「もう、ナギ様を神殿には飾りません。爆光の回復魔法で、すべてを奪ったりもしませんわ」
セラフィーヌは一歩近づき、俺の胸にそっと額を預けてきた。
「私はもう、貴方を崇める狂信者ではありません。……弱いところもひっくるめて、貴方の隣を歩き、支える『一人の女』になりたいのです」
そっと回された腕。
そこには、失明するような光も、強制的な回復魔法も伴っていなかった。
ただ、少しだけ体温が高くて、ほのかに花の香りがする、等身大の女の子の温もりだけがあった。
「……うん。すごく温かいよ、セラフィーヌ」
俺は、俺を鳥籠から解放してくれた彼女の背中に、そっと腕を回し返した。
こうして、過保護すぎた聖女は「崇拝」という名の呪いから卒業し。俺たちは初めて、お互いの弱さを認め合える対等な関係へと一歩を踏み出したのだった。




