第48話 見捨てられ不安からの卒業、そして
その日の夜。
黄金貨商会の最上階にあるバルコニーで、俺は一人、王都の夜風に当たってクールダウンしていた。
「……はぁ。さすがに疲れたな」
従業員のケアと、ヒロインズの研修のサポート。胃薬の消費量は相変わらずだが、それでも確かな前進を感じていた。
特に、あのリゼが自力で感情をコントロールしたことは、俺のカウンセラー人生においても劇的な瞬間だった。
「……ナギ」
背後から、控えめな足音が近づいてきた。
振り返ると、そこには私服姿のリゼが立っていた。いつも腰に提げている木剣は、部屋に置いてきたらしい。
彼女は俺の隣に並び、バルコニーの手すりに寄りかかって夜空を見上げた。
「昼間は、ごめんね。商会の中で、また剣なんか抜こうとしちゃって」
「いや、最後はちゃんと自分で抑えられただろ。フェンリル社長の言葉には面食らったと思うけど、よく頑張ったな」
俺が素直に労うと、リゼは嬉しそうにするでもなく、俯いてギュッと自分の服の裾を握りしめた。
「『エビデンス』とか……頭では、わかったの。ナギが私を見捨てる証拠なんて、どこにもないんだって」
ぽつりと。
リゼは自分の足元を見つめるように、震える声で紡ぎ始めた。
「……でも、頭でわかっても、怖いものは怖いんだよ……」
ポタッ、と。
バルコニーの床に、小さな水滴が落ちた。
「他の子とナギが笑ってるのを見ると、胸の奥がぐちゃぐちゃになって……証拠がないって自分に言い聞かせても、不安で涙が出そうになる……! 私、全然治ってない……っ、ダメなままだもん……!」
理屈で抑え込もうとしても、どうしても湧き上がってくる不安。自分の感情をうまくコントロールしきれない不甲斐なさで、リゼの大きな瞳からポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「リゼ」
俺は、泣きじゃくる彼女の頭にそっと手を乗せた。
「当然だよ。認知療法は、感情を消す魔法じゃない。暴走しそうになった時に、自分でブレーキを踏むための練習なんだ。今日、リゼはあの修羅場で、ちゃんと自分でブレーキを踏めた。それはすごい進歩だ。お前はもう、ダメなんかじゃない」
俺が静かに、彼女の努力を全肯定すると。
リゼは袖で乱暴に涙を拭い、ぐすっと鼻をすすってから、真っ赤な目で俺を見上げた。
「……じゃあ、この胸の痛みは、何なの?」
「え……?」
「最初は、私を助けてくれた『窓口のナギ』だから縋り付いてたんだと思う。……でも、今は違うの。今まで私が見てきた、誰かのためにすぐ胃を痛める『ナギ』っていう一人の人間が、私は、好きなんだ」
飾らない、真っ直ぐな言葉だった。
リゼは、必死に言葉を探すように、覚えたての単語を口にする。
「ナギが私を好きっていう『えびでんす』はないよ。でも……私がナギの側にいたいって気持ちは、絶対に揺るがない『ふぁくと』なんだ……! これって、病気じゃないなら……何なの?」
俺は息を呑んだ。
前世からずっと仕事人間だった俺には、恋愛経験なんてほとんどない。ましてや、カウンセラーという立場上、相手からの好意は「治療の過程で生まれる錯覚(転移)」として受け流すのがプロの鉄則だった。
でも、今、目の前で涙を流しながら不器用に想いをぶつけてくるリゼの感情は。
救済者への依存ではなく、一人の女性が、一人の男性に向ける、純粋で真摯な好意だった。
「リゼ、俺は……」
相談者としてではなく、彼女を一人の女性として見るべきなのだろうか。
どう答えればいいか分からず、俺の言葉が宙に浮いた、その時。
ぎゅっ、と。
リゼの少しタコのある手が、俺の服の袖を弱々しく掴んだ。
「……何も、言わなくていいよ」
リゼは、泣きはらした目を伏せ、俺の胸元にこつんと額を預けてきた。
「答えも、今はいいから……。ただ、理屈で抑えても、まだ少しだけ……不安なんだ。だから……お願い」
震える肩。消え入りそうな、か細い声。
「少しだけ……抱きしめて……」
かつて剣で全てを威嚇していた少女が、すべての武装を解いて、ただ一人の女の子として体温を求めている。
俺は小さく息を吐き、プロとしての「線引き」を、今日だけはそっと横に置いた。
「……よく頑張ったな」
俺は、震える彼女の背中に静かに腕を回し、その体を優しく包み込んだ。
ビクッと小さく跳ねたリゼの体が、やがて俺の体温に安心して、ゆっくりと力を抜いていく。
夜風が吹き抜けるバルコニー。
俺の胸の中で静かに息を吐く彼女の銀髪から、ほのかに甘い香りが漂う。
俺は、胸の奥で微かに高鳴る新しい感情を持て余しながら、彼女の震えが止まるまで、ただ静かに星空を見上げていた。




