第43話 絶望の魔王と、一人の相談員話
玉座の間。
世界を滅ぼす最凶の存在を前に、俺たちの間に張り詰めた空気が流れる……はずだった。
だが、目の前にいる魔王ディアブラは、威厳という言葉をどこか遠くへ置き忘れてきたかのような憔悴ぶりだ。
「……魔王さん、その足元の手紙。俺に届いたものと同じ筆跡ですね」
俺が静かに指摘すると、魔王は一瞬だけ目を見開いた。だが、すぐに冷笑を浮かべ、震える手で書類の山を隠すように叩く。
「……何のことだ。これはただの軍事機密だ。手紙? 相談? 戯言を。この私が、下等な人間如きに縋るなど万に一つもありえん」
強がりだ。
その声は震えているし、何より俺を見つめる瞳には、隠しきれない期待と拒絶が混ざり合っている。
「……そうですが。なら、一人の冒険者ギルドの受付として言わせてください。あなたは今、限界です。一度、立ち止まるべきだ」
「ふん……貴様に何が分かる? 何の力もなく、ただ言葉を弄ぶだけの貴様に……私の、この世界の頂点に立つ者の重圧が理解できるというのか! 立ち去れ。さもなくば、その喉を焼き切ってくれる」
殺気。だが、それはあまりにも弱々しい。
俺は深くため息をつき、背後の五人に向き直った。
「みんな、悪いけど……少しの間、俺とこの人を二人きりにさせてくれないか?」
その瞬間、玉座の間に爆音が響いたかと思うほどの叫び声が上がった。
「「「「「絶対にダメ!!」」」」」
リゼが前に躍り出、フランが魔法陣を展開する。アリスも聖剣を構えてブンブンと首を振る。
「ナギ! 正気!? 相手は魔王なんだよ? 一瞬で殺されちゃうじゃん!」
「非論理的よ。管理者を危険に晒すなど、私の存在意義が崩壊するわ」
「先生! 私がお守りしますから、二人きりなんて……浮気ですか!? 浮気なんですかっ!?」
話が逸れ始めている。
俺は膝を突き、彼女たちの目を見て、努めて穏やかな声で語りかけた。
「……信じてくれ。大丈夫、彼女は君たちと同じ『相談者』だ。その苦しみ、君たちなら分かるだろう?」
俺の言葉に、五人は一瞬だけ絶句した。
かつて、自分たちがどうしようもなく追い詰められ、救われた時のことを思い出したのだろう。
「……分かったわよ。でも、絶対に無理はしないで。何かあったらすぐ叫んで。一秒でこの部屋ごと更地にするから」
リゼが渋々と剣を引く。アリスは不安げに俺を見つめ、背負っていた巨大な聖剣を外すと、俺の手に押し付けようとした。
「先生、せめてこれを持ってください……! 護身用です!」
「お、おう……わか……っ、ぐぇ!?」
手渡された瞬間、俺の体は床にめり込むかと思った。
重い。物理法則を無視しているレベルで重い。運ぶどころか、支えることすらできず、俺は聖剣と共に床に這いつくばる羽目になった。
「アリス……俺、それ持てないって分かってただろ……」
「あ、ごめんなさいっ! 先生がか弱いの忘れてました!」
アリスが慌てて剣を回収する。
最後にセラフィーナが歩み寄り、俺の肩を抱くようにして呪文を唱えた。
「ナギ様。念のため、私の持てる最大級の防壁魔法を三重に掛けておきますわ。……もしその方が指一本でも触れたら、反射ダメージで魂ごと浄化される設定にしておきました」
「いや、それは過剰防衛すぎるだろ」
* * *
重い扉が閉まり、広い玉座の間には俺と魔王ディアブラだけが残された。
静寂。
二人きりになった瞬間、魔王の目に冷酷な光が宿り、その手から漆黒の雷光が放たれた。
「死ねッ! 知りすぎた人間め……!」
だが、雷光は俺の目の前でセラフィーナの魔法障壁にパリンと軽快な音を立てて弾かれ、霧散した。
それどころか、強烈な浄化の光が跳ね返り、魔王の袖口をジューッと焦がす。
「熱っ!?」
魔王が素の声を上げて腕を振る。
俺はため息をつき、散乱する書類を避けながら一歩前へ出た。
「無駄ですよ。あなたも薄々気づいているはずだ。……その攻撃に、本気の殺意なんて乗っていないことに」
「黙れ! 私は魔王だ。この世の全ての負を統べる絶対者だ! 私に弱さなどない。私に迷いなどない!」
ディアブラは焦ったように玉座の肘掛けを強く握りしめた。
「私は誰よりも優れている。だからこそ、愚鈍な部下どもを、この世界を、私が正しい方向へ導かねばならんのだ! 貴様のような、矮小で脆弱な人間に私の心が計れるものか!」
感情を荒らげ、自分を大きく見せようとする威嚇。
俺は、これまで「窓口」で向き合ってきた強さ故に悩む少女たちの顔を思い浮かべながら、静かに口を開いた。
「……一騎当千の腕を持ちながら、たった一人の理解者に見捨てられる恐怖で、夜も眠れなかった剣士がいました」
「な、なんだと……?」
「万軍を滅ぼす魔法の才を持ちながら、百点満点以外を許せず、自分自身を機械のように追い詰めて心を壊しかけた天才がいました。……強大な力で他者を癒しながらも自分の存在意義を見失っていた聖女や、期待される『役割』に押し潰されて暗い洞窟に引きこもった最強の英雄もいました」
俺の紡ぐ言葉に、魔王の瞳が揺れる。
「俺が知っているのは、どんなに強そうに見える存在でも、心の弱さは抱えているということです。……いや、存在感が強く、他者を圧倒する強大な力を持つ者こそ……その分厚い鎧の下に抱え込んでいる闇は、誰よりも深く、そして脆い」
「っ……!」
「あなたも同じだ。自分が完璧でなければならないという強迫観念。誰かを信じて裏切られることへの恐怖。だから部下に任せられず、一人で理想を追い求め、組織は崩壊し……あなた自身も、限界を迎えている」
痛いところを突かれたディアブラの顔が、怒りと羞恥で歪んだ。
「違う……! 私は魔王だ、誰の助けも要らん! 貴様の戯言など、何の証明にもならん!」
「証明なら、ここにありますよ」
俺は、足元に落ちていた書き損じの羊皮紙を指差した。
「あなたは先ほど、『私に縋るなど万に一つもありえない』と言いましたね。……でも、あなたは俺に手紙を出した。遠い人間の街にある、見ず知らずの小さな『相談窓口』に、何度も、何度も」
俺は、魔王の真っ赤に充血した瞳を真っ直ぐに見据えた。
「敵である人間に宛てて、その手紙を出さずにはいられなかったという事実。……それこそが、あなたが限界に近いという何よりの証明です」
「あ……」
ディアブラの喉から、掠れた声が漏れた。
論破された事実。取り繕っていた完璧な魔王の仮面が、音を立てて崩れ去っていく。
「だ、黙れ……黙れ黙れ黙れ!」
魔王は両手で顔を覆い、子供のように首を振った。
「私が完璧でなければ、誰がこの世界を統べるのだ! 下等な魔族どもはすぐに失敗する! 裏切る! 私が導かねば、すべてが崩れ去るのだ!」
「でも、今はあなたが全てを抱え込んでいるせいで、崩れ去ろうとしていますよ」
「うるさい……ッ!」
ディアブラは顔を上げ、涙目のまま俺を睨みつけた。
「そこまで言うなら……そこまで私を見抜いているというなら、やってみせろ! この、崩壊しきった組織を、誰もついてこないこの絶望的な状況を! 貴様のその口先だけで変えてみせろ!」
それは紛れもなく、極限まで追い詰められた者の悲痛なSOSだった。
俺は静かに頷いた。
「俺は心の問題を聞く専門家ですが、組織を直す専門家じゃありません。俺の付け焼き刃の指示では、魔王軍は余計に混迷するでしょう」
「な、なんだと……? 貴様、逃げる気か!」
「逃げませんよ」
俺は、玉座に座る孤独な王に向かって、はっきりと告げた。
「だから、最高の『専門家』を連れてきます。心と組織、両方のアプローチで、必ずあなたのその絶望をどうにかして見せる。……だから、今日は一旦休戦です。今日だけは何も考えず、ゆっくり眠ってください」
俺の言葉に、ディアブラの張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。
彼女は玉座に深く背中を預け、長い、長い息を吐き出した。
「……やってみろ。もし変えられたなら……その時は、貴様の言葉を信じてやろう……」
それは、世界を滅ぼす魔王が自分の脆さを認められず最後に見せた意地だった。




