第42話 限界魔王城は負のエネルギーに溢れている
「ナギ先生、いいですか。決して油断しないでください。魔王軍は、この世のあらゆる負の感情を煮詰めたような絶望の軍勢。その頂点に立つ魔王は、ただそこに座しているだけで勇者一行の精神を粉砕するほどの威圧感を放つと言われています……」
魔王城の巨大な正門を前にして、勇者アリスターが悲壮な決意を口にした。
その巨大な聖剣を握る手は微かに震えている。
「大丈夫だよ、アリスター。私がいるんだから、魔王なんて一瞬で細切れにしてやるから! だから、私がナギのお嫁さんね」
「本名で呼ばないでっ! アリスちゃんって可愛く呼んでください」
道中名乗ってから勇者はフルネームで呼ばれる度に律儀にそう訂正する。覚醒した彼女(彼)にとっては可愛くあることは世界を救うことより大事なのかもしれない。
大丈夫か? この世界。
「えー、アリスターの方が勇者っぽくってカッコいいじゃん。まぁお兄さんのお嫁さんにはふさわしくない名前けどね」
ルゥが悪戯っぽく笑う。
「元盗賊っていうのもどうかと思いますけどねっ」
「………ナギはそんなこと気にしないわ」
ルナの口調は冷静だが手は腰の短剣に触れている。
「くだらない言い争いはやめなさい。魔王城に突入するのよ。それにナギの伴侶は私がふさわしい、これは確定事項よ」
「ナギ様を煩わせる連中に耳を貸す必要はありません。式場は大聖堂を元聖女権限で貸し切りますので2人きりで式を執り行いましょう」
「俺が言うのもなんだが、みんな、もうちょっと緊張感持った方がいいんじゃないか?」
とても魔王城に突入する雰囲気ではないが、アリスが「開けます!」と気合を入れて門に手をかけた。
ギギギ、と情けない音を立てて、門はあっさり開いた。
鍵すら掛かっていなかった。
「……あれ?」
「用心棒のケルベロスとか、門番のデスナイトとかは?」
俺たちが拍子抜けしながら足を踏み入れた先は、勇者の語った『絶望の要塞』とは程遠い光景が広がっていた。
* * *
「侵入者だ! 侵入者が出たぞ!」
回廊を歩いていると、ようやく数体のスケルトン兵が駆け寄ってきた。
リゼが「ようやく出番!」と剣を構えるが、スケルトンたちは剣を抜くどころか、懐から大量の紙束を取り出して必死に捲り始めた。
「待て! まだ抜くな! えーと、『勇者一行来襲時の対応マニュアル』……第8章、第4項……『侵入者が可愛い女の子の場合』……いやこの魔力の波動は男だ! 勇者が男の娘になっている場合なんてマニュアルに載ってないぞ!」
「おい、それより本部に『侵入者報告書』を提出したのか!?」
「まだだ! 先に『残業申請書』の承認を貰わないと、戦っても手当が出ない!」
スケルトンたちはカチカチと顎を鳴らしながらパニックに陥り、結局、「すみません、先に事務手続きしてきます!」と叫んで、持ち場を放棄して走り去っていった。
「……何、今の」
「非論理的ね。防衛よりも報告書のフォーマットを優先するなんて。組織の末期症状だわ」
フランが呆れ果てたように呟く。
さらに進むと、天井から巨大な鉄球が降ってくる……はずの仕掛けがあったが、鉄球は途中で止まって虚しく揺れていた。
そこには『故障中:予算不足のため来期修理予定』という張り紙が。
「お兄さん、あそこの落とし穴、蓋が開かないように釘で打たれてるよー」
「……ええ。掃除が面倒だから、って書いてあるわね」
ルゥとルナが指差す先では、もはや罠としての機能を放棄した残骸が転がっていた。
極めつけは、角の曲がり角で遭遇した中級魔族のエリート騎士だった。
彼は俺たちと目が合うと、一瞬だけ鋭い殺気を放ち、剣を半分ほど抜いたのだが。
「……あ」
騎士はピタリと動きを止め、自分の腕時計(のような魔道具)を凝視した。
「……申し訳ない。今、ちょうど定時だ。これ以上の労働は労働組合の規約に抵触する。続きは……明日の朝9時に、改めて受付を通して予約してくれ。では、失礼」
騎士は深々と一礼すると、そのまま無表情で俺たちの脇を通り過ぎ、帰路についた。
「「「「「…………」」」」」
俺たちは沈黙した。
誰も襲ってこない。いや、襲ってくる余裕がないのだ。
廊下の隅には、過労で白目を剥いて泡を吹いているオークや、壁に向かって「もう嫌だ、田舎に帰りたい……」と呟き続けるゴブリンが溢れている。
「……これ、物理的に攻略するまでもないぞ。組織として完全に死んでる」
俺が重い溜息をつきながら歩みを進めると、ついに一行は城の最深部、巨大な『玉座の間』の扉にたどり着いた。
「ナギ様、お気をつけください……。中からは、ひどく澱んだ、負のエネルギーが漂ってまいりますわ。それはもう、不埒な輩達を徹底的に自己を犠牲して救うナギ様のように」
「セラフィーナ、事実だとしてもそういうことは言っちゃいけません」
勇者が震える手で扉を押し開ける。
そこには、窓もない暗い部屋の中で、唯一、魔法の灯火に照らされた玉座があった。
「……よくぞ来た、勇者よ」
低く、重厚な声。
だが、その声には覇気というものが欠片もなかった。
漆黒の鎧を纏い、威厳を持って座っている……はずの魔王ディアブラ。
しかし、近づいてよく見れば、その鎧は手入れが行き届かず埃を被り、魔王自身の顔は土気色を通り越して、もはや幽霊のようだった。
「……勇者よ。貴様、来るのが……一週間ほど……遅い……。私がどれだけ、貴様が来るのを……この書類の山の中で、待っていたと……思っている……」
魔王は力なく右手を上げた。
その周囲には、玉座を埋め尽くさんばかりの羊皮紙――魔王軍の全部署から上がってきたであろう『決裁書類』と、ぐしゃぐしゃに丸められた『書き損じの手紙』が山をなしていた。
目の下に、もはや刺青レベルで刻まれた巨大なクマ。
震える指先。
そして、虚空を見つめる、光を失った瞳。
世界を絶望させるはずの魔王は、今、自分自身の組織という名の絶望に、完全に呑み込まれようとしていた。
「……魔王、さん?」
俺がそっと声をかけると、魔王は力なく視線を俺に向けた。
そこにあるのは、人類への敵意ではなく、ただ「助けてくれ」と叫んでいる一人の限界経営者の魂だった。




