第34話 ギルド専属ヒーラー、着任。境界線は死守せよ
ふわりと香る、清潔な教会の匂い。
俺は今、聖女セラフィーナの腕の中に囚われ、その甘く恐ろしい『救済』の波に呑まれかけていた。
「私が、あなたの壊れた心を癒やして差し上げます……」
彼女の言葉は、酷使しすぎた俺の精神に麻薬のように染み込んでくる。
過去の罪悪感を許され、すべてを委ねてしまえば、どれほど楽になるだろうか。
俺の意識が白く遠のきかけた、まさにその時だった。
「――目を覚ましなさい、ナギ!!」
鋭い声と共に、俺の背後の空間が歪み、濃紺のローブが翻った。
転移魔法で裏庭に強制介入してきたのは、杖を構え、息を切らせたフランだった。その隣には、木剣を握りしめたリゼと、涙目のルゥが並んでいる。
「フラン……リゼ、それにルゥも……」
「私には『休む許可を自分に出せ』と、あれほど明確なルールと境界線を引いたくせに! 自分の境界線は、そんな得体の知れない女に容易く明け渡すのね!」
フランは、普段の冷静さをかなぐり捨てたような、ひどく感情的な声で叫んだ。
「私の自己管理のバグを直してくれたあなたが、自分の過去のエラーで自壊するなんて非論理的よ! あなたが自分を失えば、私の……この窓口のシステムは崩壊するわ! 目を覚ましなさい、運用管理者!」
「そうだよ、ナギ!」
リゼが一歩前に踏み出し、セラフィーナを真っ直ぐに睨みつける。その銀色の瞳に、かつての怯えはない。
「私が血まみれで『見捨てないで』って泣き叫んだ時、ナギは逃げなかったじゃん! ナギは、過去の傷ごと、自分の足でちゃんと立ってる強い人だよ! 私の大切なナギを、壊れたおもちゃみたいに扱わないで!」
「お兄さん、だめだよ……っ!」
ルゥが、ボロボロと涙をこぼしながら俺に手を伸ばした。
「お兄さん、私に『昼も夜も、二人で当事者だ』って言ってくれたでしょ! 『使える方だけ残すなんて搾取だ』って怒ってくれたでしょ! 自分の過去の罪悪感だけ残して、あとは全部この人に丸投げしちゃうの!? そんなの、お兄さんじゃないよ!」
そして、ルゥがギュッと目を瞑った直後。
スッ、と空気が凍りつき、夜の盗賊――ルナが表に顔を出した。
彼女は手の中で短剣を弄びながら、セラフィーナを冷酷に、けれど明確な怒りを持って射抜いた。
「……そういうことよ、聖女サマ。他人のトラウマを、自分の空っぽな器を埋める都合のいい口実に使わないことね」
ルナの言葉は、氷の刃のように鋭くセラフィーナの欺瞞を切り裂いた。
「この男は不器用だけど、自分の背負った罪の重さから逃げたことは一度もないわ。その矜持を奪うことを『救済』とは呼ばない。それはただの『搾取』よ」
四人の言葉が、頭を殴られたような衝撃となって俺の脳を揺らした。
――そうだ。俺は何をしているんだ。
俺は自分の過去の痛みを誤魔化すために、無意識のうちに彼女の「過剰な救済欲求」に甘え、共依存の泥沼に足を踏み入れようとしていた。
だが、俺の目の前には、かつて俺が全身全霊で向き合い、今や自分の足で立ち上がろうとしている彼女たちがいる。俺は決して、一人で孤独に罰を受けていたわけじゃなかった。
「……セラフィーナさん」
俺は、彼女の体をそっと押し返し、その温かい腕の中から自力で抜け出した。
「ナギ、様……?」
「すみません。俺は過去に失敗したし、今も癒えない傷を抱えています。……でも、俺はもう、十分に救われているんです。この騒がしい連中のおかげでね」
俺がそう告げると、セラフィーナの顔から血の気が引いた。
完璧に貼り付いていた「救済者」としての微笑みが崩れ落ち、その瞳に、すべてを失ったような致命的な絶望が浮かぶ。
「そんな……それなら、私は……私は、どうすれば……」
救済する対象を失えば、彼女の空っぽな自我は今度こそ完全に崩壊してしまうだろう。
だからこそ。
俺は専門家として、いや、一人の人間として、彼女の依存を「丸ごと引き受ける」覚悟を決めた。
「ですが、あなたは救う先がなければ狂ってしまう。誰かのために祈らなければ、呼吸すらできないほどにすり減っている」
「……っ」
「だから、俺がまだ壊れていることにしていいです。俺を、あなたが救済すべき哀れな対象だと認定して構いません。あなたの『救済欲求』は、俺が全部引き受けます」
それは、心理士としては完全にアウトな、狂った妥協案だった。
リゼたちが「はぁっ!?」と呆れたような声を上げるが、俺は構わずセラフィーナの目を見つめた。
「だけど、一つだけ約束してください。俺という存在を理由にして、世界から目を逸らさないこと。俺を救いながらでいい、他に目を向けることを忘れないでください。……あなたの祈りを必要としている人は、外にたくさんいるんですから」
明確な、境界線の提示。
逃げ道のない依存ではなく、「俺」という安全な錨を下ろした上で、自分の足で他者と関わる練習をしてほしいという、俺なりの処方箋だった。
セラフィーナは呆然と目を見開き、やがて、その瞳から大粒の涙をこぼした。
彼女は胸に手を当て、深く、深く頭を下げる。
「……ナギ様。あなたは、本当に……救いようのないほどに、お優しい方ですね」
その声には、空っぽな響きはもうなかった。
俺のズルくて重い妥協案を受け入れた彼女の顔には、依存とは違う、明確な『敬意』と『熱』が宿っていた。
* * *
それから、数日後。
冒険者ギルドの「こころの相談窓口」の隣には、なぜか真新しい天幕と、清潔なベッドが設置されていた。
「次の方、どうぞ。治癒」
純白の法衣を揺らし、流れるような手付きで冒険者の傷を治していくのは、教団の聖女セラフィーナその人だった。
「……なぜ、あなたがここにいるんですか」
俺が疲れた顔で尋ねると、セラフィーナはふわりと花が咲くような笑顔を向けた。
それは以前の機械的な微笑みではなく、血の通った、生きた笑顔だった。
「ナギ様とお約束したではありませんか。『他に目を向けることを忘れるな』と。ですから、私はギルドの皆様を癒やしつつ……最も救済が必要なナギ様のお傍で、専属ヒーラーとして常駐することにいたしました」
「教団の方は……」
「適当に理由をつけて出向という形にしました。ギルドマスター様も、大層喜んでおられましたよ」
俺は頭を抱えた。
確かに、彼女の無詠唱ヒールはギルドの回転率と生存率を爆上げしている。マスターが大喜びで迎え入れるのも無理はないし、冒険者たちも拝む勢いで感謝している。
だが、俺のカウンターへの圧力は数倍に跳ね上がった。
「ナギ様、お茶が入りましたよ。さあ、今日も私がたっぷり癒やして差し上げますからね」
「ナギは私の入れたお茶しか飲まないの! ね、ナギ?」
「私のプロトコルを阻害するなら、聖女だろうと排除するわ!」
「お兄さんの隣は私の場所だもん!」
結果として、三人(四人)のヒロインズによる殺伐とした牽制の輪の中に、最強の盾を持つ『善意の過保護ヒーラー』が加わるという、果てしない四(五)つ巴の修羅場が完成してしまったのだ。
俺は静かに引き出しを開け、羊皮紙に新たなルールを書き足した。
【冒険者ギルド・こころの相談窓口 注意事項(追加)】
・相談員を自分の人生の唯一の目的にしないこと
・(追記)物理的な回復魔法の過剰な行使による、相談員への癒やしの押し売りを禁ずる
「……俺の胃に平穏が訪れるのは、いつになるんだろうな」
騒がしい窓口の喧騒をBGMに、俺は深くため息をついた。
だが、不思議と嫌な気はしなかった。彼女たちがこうして自分の足で立ち、騒いでいるこの日常は、確かに前へ進んでいる証拠だからだ。
――ふと、俺は最近ギルド内で囁かれている、ある『噂』を思い出した。
数ヶ月に一度、魔王討伐の進捗報告にやってくるはずの勇者一行が、ここ最近ぱったりと姿を見せていないというのだ。
一部では「強敵に敗れたのではないか」と危惧する声も上がっているが、ギルドへの報告義務すら怠るというのは、どうにも引っかかる。
「……世界を救う勇者、ね」
俺のようなしがない相談員には縁のない話だが、少しだけ気にはなっていた。
そんなことを考えながら、俺はカウンターの隅にある『目安箱』を開けた。
中には、あの『匿名相談者』からの手紙が入っていた。
俺が「すべてを壊しても孤独は治らない。絶望的な孤独の痛みを、もう少しだけ私に聞かせてくれないか」と返信したものに対する、アンサーだ。
封を切り、中身を取り出す。
そこには、これまでのような長文ではなく、どこか困惑したような短い文面が記されていた。
『あなたの言葉に、少しだけ興味を持ちました。
近いうちに、直接お会いして話をしましょう。
……と言いたいところなのですが、現在、少々厄介なトラブルを抱えており、身動きが取れません。
実は、定期的に私の元へやって来るはずの『勇者』と呼ばれる者が、ここしばらく全く姿を見せないのです。
彼が来ないせいで、私の周囲の者たちが手持ち沙汰になり、無用な諍いや縄張り争いまで起きる始末。彼が来ないと色々と困るのです。
そちらのギルドに所属していると聞いておりますが、もし勇者が今どこで何をしているかご存知でしたら、どうか安否を……動向を教えていただけないでしょうか。
それが片付けば、必ずそちらへ伺います』
その文面を読んだ瞬間、俺の頭の中にいくつもの疑問符が浮かんだ。
なんだ、この手紙は。
以前の「人類を滅ぼす」という絶望的な孤独の手紙から一転して、なぜか行方不明の勇者の安否を気にかけている。まるで、反抗期の息子が帰ってこなくて困っている過保護な親か、あるいは――。
「……いくらなんでも、人類を滅ぼそうとしてる人間が、勇者のスケジュール管理で悩むわけないよな?」
俺は首を傾げた。
対面での面談の予告。
それはつまり、このスケールがでかすぎる『匿名相談者』が、直接このギルドにやって来るということだ。
「……近いうちに、って、いつだ?」
相談窓口の日常は、まだまだ波乱を含んでいるらしい。
俺は手紙を丁寧に引き出しにしまい、来るべき最大のイレギュラーたちとの面談に向けて、静かに胃薬を飲み込むのだった。
【第三部 セラフィーナ編 完】




