第33話 壊れているのは、あなたの方です
ふわりと香る、清潔な教会の匂い。
そして、顔を埋めさせられた豊かな胸の、圧倒的なまでの柔らかさと温もり。
「私が、すべてを癒やして差し上げます……」
聖女セラフィーナの甘い囁きと、完璧な『母性』の檻に囚われ、俺の意識が白く遠のきかけた、まさにその時だった。
「離れなさい、この泥棒猫ぉぉぉっ!!」
ドゴォォォン!! という轟音と共に、相談窓口の木製カウンターが、上段から振り下ろされた木剣によって真っ二つに粉砕された。
「ひぃっ!?」
「ナギに何してるの! そこは私の特等席なのに!!」
鬼の形相で牙を剥くAランク剣士、リゼ。
その後ろからは、杖の先端に致死レベルの雷撃魔法をチャージしたフランが、絶対零度の声で宣告する。
「対象者への十秒を超える密着は、明らかな越権行為よ。直ちに離れなさい、さもなくば神の御許へ強制送還するわ」
「お兄さんから離れろー! ルナ、やっちゃって!」
ルゥの叫び声に呼応するように、天井の梁から黒い影が音もなく降下してきた。
「……私の管理者に手を出した罪、その首で贖いなさい」
夜の盗賊、ルナの冷たい刃が、セラフィーナの首筋スレスレに突きつけられる。
窓口は一瞬にして、極限の修羅場と化した。
だが、セラフィーナは三人の殺気を一身に浴びても、完璧な微笑みを1ミリも崩さなかった。
「お静かに。ナギ様は今、疲労の限界を迎えておられます。あなたたちが喚けば喚くほど、彼の心をすり減らしているのがわからないのですか?」
「なっ……! あんたが無理やり抱きついてるからでしょ!」
「言いがかりね」
フランが杖を突き出し、理路整然と反論する。
「私たちは『淑女協定』によって、週に一日の完全な休養日を彼に提供しているわ。彼の精神的・肉体的な疲労は、私たちの管理下で適切に回復されているはずよ。ぽっと出のあなたが干渉する理由はないわ」
「適切、ですか?」
セラフィーナは、心底哀れむような、冷ややかな瞳で三人を見回した。
「週に一日、彼との接触を断つ。……確かにルールとしては立派です。ですが、その結果どうなりましたか? あなたたちは『一日我慢したのだから』という免罪符を掲げ、残りの六日間で、以前よりも遥かに重く、暴力的な圧を彼にぶつけているではありませんか」
「うっ……!」
「休養日があったとしても、他の日の依存と要求が増大していれば、彼の負担は以前より増しているのと同じです」
痛いところを突かれ、リゼがたじろぎ、フランの表情が険しくなる。
セラフィーナは、聖母のような笑みを深めた。
「ルールで縛らなければ彼に縋り付いてしまうような、未熟なあなたたちでは彼を守れません。……彼を愛していると言うのなら、なぜ自分の足で立ち、早く自立しようとしないのですか?」
正論の刃。
三人の顔が、屈辱と焦燥で歪む。
「私は癒やしているのです。事実、ナギ様は私の胸の中で安らぎを得ていらっしゃいました。……違いますか、ナギ様?」
セラフィーナが、とろんとした目で俺を見つめてくる。
直後、三人の凄まじい怨嗟の視線が、一斉に俺へと突き刺さった。
「ナギ……? 安らぎを得てたって、本当……?」
「弁明を要求するわ。一言でも間違えれば、ここを灰にする」
「……」
ルナは無言だが、ナイフの刃先が微かに俺の方へ向いた気がした。
「ち、違います! 治癒魔法の強制的なリラックス効果で体が動かなかっただけで……ああっ、もう限界だ! 俺は少し外の空気を吸ってきます!」
俺は半壊したカウンターを飛び越え、血みどろの口論を始めた四人のヒロインたちを置き去りにして、ギルドの裏庭へと全速力で逃亡した。
* * *
「はぁ、はぁ……っ」
ギルドの裏手、人気のない資材置き場の陰に座り込み、俺は乱れた呼吸を整えた。
胃が痛い。頭も痛い。
どうしてこうなったんだ。俺はただ、前世のトラウマを繰り返さないために、目の前の傷ついた冒険者たちに誠実に向き合おうとしただけなのに。
自分の限界を無視して、境界線を超えて踏み込みすぎた結果が、あの四つ巴のヤンデレ大戦争だ。
特に、セラフィーナは不味い。
彼女は俺の「無理をして笑う癖」を正確に見抜き、俺を救うことで自分の空っぽな心を埋めようとしている。
「……ナギ様。こんな所にいらしたのですね」
ビクッと肩が跳ねた。
路地の入り口に、純白の法衣を揺らすセラフィーナが立っていた。
あの三人の足止めをどうやって抜け出してきたのかはわからないが、彼女の足取りには一切の迷いがない。
「セラフィーナさん……お願いですから、少し一人にしてください。俺は本当に、大丈夫ですから」
俺は立ち上がり、いつもの『相談員としての営業スマイル』を作ろうとした。
だが、セラフィーナはゆっくりと首を横に振った。
「また、そうやって仮面を被って、私から逃げようとするのですね」
「逃げてるわけじゃありません。俺はカウンセラーで、あなたは――」
「誤魔化さないでください!」
かつて聞いたことのない、強い声だった。
セラフィーナは俺の目の前まで歩み寄り、俺の胸ぐらを、震える両手でギュッと掴んだ。
「多くの方を傷を癒してきた私には分かります。あなたは、他人の心には境界線を越えてまで踏み込んでいくくせに、自分の心には強固な線を引いて、誰も入れようとしない!」
彼女の銀色の瞳が、俺を射抜く。
そこにあるのは、空っぽの機械の目ではない。痛いほどの熱を持った、生身の感情だった。
「なぜ、そこまで自分を犠牲にするのですか! 彼女たちの重すぎる感情を受け止め、顔も知らない匿名の手紙にまで心を砕き……ご自身の心が限界を迎えているのに、誰にも助けを求めようとしない!」
見透かされている。
そうだ。俺は、自分がすり減ることを恐れて線を引いた前世の失敗を恐れるあまり、現世では「自分が救われること(他人に寄りかかること)」を無意識に拒絶していた。
「教えてください、ナギ様。あなたをそこまで駆り立てる『呪い』は何なのですか?」
「呪いじゃありません。俺は、ただ……」
「ただ?」
「……ただ、もう二度と、後悔したくないだけです」
限界まで張り詰めていた俺の精神に、ついにヒビが入った。
彼女の100%の善意と、真っ直ぐすぎる共感の圧に耐えきれず、俺の口から、無意識のうちに本音が零れ落ちていた。
「昔……線を引いて、相手の心に踏み込むのを躊躇ったせいで、救えなかった人がいるんです」
前世の、一番暗い記憶。
『先生。私、もうだめみたいです』という、あの電話越しの虚ろな声。
「自分の心を守るために、専門家としての安全な距離を保った。……その結果、彼女は完全に壊れてしまった。俺が手を伸ばさなかったせいで」
俺は、自嘲するように笑った。
「だから、俺はもう逃げたくないんです。自分のキャパシティを超えてでも、相手がどれだけ重くても、絶対に手を離さないって……そう決めたんです。これは、ただの俺の自己満足で、贖罪なんですよ」
沈黙が落ちた。
言ってしまった、と思った時には手遅れだった。
相談員が、相談者に自分の過去のトラウマを吐露するなど、絶対にあってはならないタブーだ。
セラフィーナは、目を見開き、息を呑んだまま固まっていた。
「……ごめんなさい。変なことを言いました。忘れてください」
俺が彼女の手を解こうとした、その瞬間。
「あ、ああ……っ」
セラフィーナの瞳から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
彼女は、俺の胸にすがりつくようにして、声を上げて泣き始めたのだ。
「セラフィーナさん!?」
「なんて、なんてこと……! あなたは、過去のたった一度の過ちを、ご自身の魂に刻み込み、ずっと一人で罰を受け続けていたのですね……!」
彼女の震える両腕が、俺の背中に回り、力強く抱きしめられる。
「痛かったでしょう、苦しかったでしょう……! 誰も、あなたのその血の流れるような後悔に気づかなかった。……あなたが一番、ボロボロに傷ついていたのに!」
「違います、俺は別に……!」
「いいえ! 壊れているのは、あなたの方です!!」
セラフィーナは涙に濡れた顔を上げ、俺の頬を両手で包み込んだ。
その顔には、かつてないほどの強烈な熱と、恐ろしいほどの『救済の悦び』が満ち溢れていた。
「ナギ様……あなたこそ、救われるべきです!」
「……っ!」
「過去の罪から、あなたを解放します。他者の痛みを背負う必要はもうありません。……私が、私のすべてを懸けて、あなたの壊れた心を癒やして差し上げます」
俺の背筋が、総毛立った。
やってしまった。最悪だ。
自分の存在意義(誰かを救うこと)を見失っていた聖女に、『絶対に救済を必要としている、壊れた人間(俺)』という最高級のピースを与えてしまったのだ。
俺を救うことで、彼女自身が救われる。
俺が傷ついている限り、彼女の存在価値は永遠に保証される。
「もう、絶対に放ってはおけません。ナギ様……どうか私に、あなたを救わせてください」
セラフィーナは、恍惚とした笑みを浮かべ、俺の首筋にそっと唇を落とした。
それは、究極の『共依存』が完全に成立した瞬間だった。
俺が前世の知識を総動員して避けたかった最悪の泥沼に、俺は自ら、頭までどっぷりと浸かってしまったのだった。




