第29話 何もしない練習がいちばん難しい
お祭りの日から数日後。
冒険者ギルドの「こころの相談窓口」は、凄まじい修羅場と化していた。
「ナギ! お茶淹れたよ! 昨日は一日我慢したんだから、今日は私の淹れたお茶を全部飲んで!」
「リゼ、彼にはカフェインの少ないハーブティーの方が適切よ。一日分の空白を埋めるため、私が徹底的に成分調整を行ったわ。さあ、残さず飲みなさい」
「お兄さん! 一日会えなかった分、ぎゅーってしていい!? ていうか肩揉んであげよっか!?」
バンバンとカウンターが叩かれ、右から左から背後から、三者三様の凄まじい圧が押し寄せてくる。
淑女協定による『週に一度のナギ禁止デー』は、確かに俺に一日だけの完全な平穏をもたらした。
しかし、その反動は恐ろしかった。
「昨日は一日我慢した」という免罪符を得た彼女たちは、禁止デー明けの今日、溜まりに溜まった依存と独占欲を一気に爆発させて俺に群がっているのだ。
一日の休息で全回復したはずのHPが、秒速で削られていく。休んだ分だけ、逆に解き放たれた日の「一日の重さ」が跳ね上がっている……!
「順番にしてください! あと仕事中だから抱きつかない!」
相変わらずの三者三様のアピールを適当に躱しつつ、俺が悲鳴を上げながらペンを走らせていると。
ギィィ……と、重いギルドの扉がゆっくりと開いた。
現れたのは、純白の法衣を纏い、銀糸の髪を揺らす美しい女性。
教団の聖女、セラフィーナだった。
彼女が足を踏み入れた瞬間、ギルド内の空気が一瞬で静まり返った。
無理もない。高位の聖職者が、荒くれ者の多い冒険者ギルドに単身で乗り込んでくることなど、普通はあり得ないからだ。
「ナギ様。……また、お話聞いていただいてもよろしいでしょうか」
セラフィーナは周囲の視線を気にする素振りも見せず、真っ直ぐに俺のカウンターへ歩み寄り、静かにそう尋ねた。
その顔には、お祭りの日と同じような完璧な微笑みが貼り付いているが、どこか迷子のような心細さが滲んでいる。
「もちろんです。こころの相談窓口ですから」
俺が頷くと、背後から「嫌な予感がするぅ」「懸念事項が増えそうね」「これ以上は席が空いてないよぉ」と不穏な声が聞こえてきたが、俺はそっと耳を塞いでセラフィーナを小部屋へと案内した。
* * *
扉を閉め、温かいお茶を出して対面で座る。
「それで、宿題はどうでしたか」
俺が前回の面談で出した宿題。
それは、『誰のためでもないことを、一つだけする』というものだった。
他者のためにしか生きてこなかった彼女に、「自分の幸せ」を見つけるための第一歩として出した簡単な課題のはずだった。
だが、セラフィーナはカップを両手で包み込んだまま、深くうつむいた。
「……申し訳ありません、ナギ様。私には……できませんでした」
「できなかった?」
「はい。……最初は、あなたの仰った通り、ただ自分のために『散歩』をしようと思いました」
セラフィーナは、ぽつりぽつりと語り始めた。
「教団の裏口からこっそり抜け出し、街を歩きました。ですが、歩いているうちに、荷車から落ちて膝を擦りむいた子供を見つけてしまったのです。気づけば、私はその子に治癒を施していました」
「まあ、目の前で怪我をしていたら、放っておけないのはわかります」
「それだけではありません。その後、自分のために甘いお菓子を買って食べようと市場へ行きました。……ですが、路地裏から私を見つめる孤児たちの視線に気づいてしまい、買ったお菓子をすべて彼らに分け与えてしまったのです」
彼女は、ギュッと法衣の裾を握りしめた。
「結局、私はこの数日間、ただの一度も『自分のため』に行動することができませんでした。何かを自分のためだけに消費しようとすると、強烈な罪悪感と不安に襲われるのです」
セラフィーナの肩が微かに震えている。
「『私のような欠陥品が、自分のために何かを楽しむなど許されない』『私は人を救わなければ価値がない』……そんな声が頭の中で響いて、呼吸が苦しくなるのです。だから、また誰かを救って、心を落ち着かせるしかなくて……」
俺は静かに彼女の言葉を聞き終え、一つだけため息をついた。
前世でも、こういうケースは何度も見てきた。
「セラフィーナさん。あなたは、自分が『人を救うこと』に依存していることに気づいていますか?」
「……依存、ですか?」
「ええ。お酒や賭け事に溺れるのと同じです。あなたは、自分の存在価値を確認するため、そして心の不安を打ち消すための『自己鎮静の手段』として、人助けという行為を使っているんです」
セラフィーナは、虚を突かれたように目を見開いた。
無償の愛や高潔な信仰心だと思っていたものが、実は自己防衛のための依存行動に過ぎないと指摘されたのだ。
「だから、自分のために生きようとすると禁断症状が出る。人を助けなければ自分が消えてしまうような気がして、怖いんでしょう」
「……怖い、です。自分が空っぽであることが露呈してしまうのが……恐ろしい」
「大丈夫ですよ。空っぽなら、これから少しずつ、自分の好きなものを入れていけばいいだけです。何もしない練習は、とても難しい。だから、焦らなくていいんです」
俺が努めてフラットな声で告げると、セラフィーナは少しだけ肩の力を抜き、俺の顔をじっと見つめてきた。
その空っぽだった瞳の奥に、ほんの微かな光が宿っているように見えた。
「……ナギ様は、不思議な方ですね」
「不思議ですか?」
「はい。普通の人々は、私の治癒を当然のように受け取り、感謝の言葉だけを置いていきます。私の心が壊れていることなど、誰も気に留めません」
セラフィーナは、身を乗り出すようにして俺を見つめた。
「ですが、あなたは違った。私の異常に気づき、私を止め、そして私自身の幸せを問うてくれた。……あなたは、他人の心に寄り添うために、どれほどのものを背負っているのですか?」
彼女の視線が、俺の目の下にあるこびりついたクマや、わずかに丸まった背中のラインを舐めるように動く。
「ナギ様。あなたは、ひどくお疲れのように見えます」
「……そんなことないですよ、この前リフレッシュしたばかりです」
「いいえ。あなたは、誰に対しても誠実であろうとしすぎている。その身を削って、他者の痛みを引き受けている」
図星だった。
週に一日の休みを得たとはいえ、その反動で重さを増した三人の依存を一身に受け止め、夜はルナの監視網に気を配り、そして今、目の前の聖女の心に踏み込もうとしている。
前世のトラウマから『見過ごせない』という贖罪の念で動いているとはいえ、俺の精神的・肉体的疲労は、結局のところ常に限界付近を反復横跳びしている状態なのだ。
セラフィーナは、そっと俺の手を取った。
白く、冷たい手だった。
「ナギ様。あなたは、誰かに支えられているのですか?」
「俺は……一人で、大丈夫です」
「いけません。そんなふうに自分をすり減らしていては、いつかあなたも壊れてしまいます」
セラフィーナの顔に、再び『完璧な微笑み』が浮かんだ。
だが、それは信徒に向けるような空っぽの微笑みではない。
明確な『標的』を見つけ、自分の存在意義を確信したような、ひどく危うい熱を帯びた笑顔だった。
「わかりました。私が、あなたの疲れを癒やしましょう」
「……はい?」
「誰のためでもないことをするのは、私にはまだ難しすぎます。ですから……これからは、あなたのために祈り、あなたを支えることをお許しください」
俺の背筋に、冷たい汗が伝った。
マズい。
彼女の『人を救わなければならない』という自己犠牲的な依存のベクトルが、今、完全に俺個人へと向いたのだ。
「いや、俺は別に癒やしなんて――」
「我慢してはいけません。あなたは、救われるべき人です」
セラフィーナは、俺の手を両手でしっかりと握りしめ、菩薩のように優しく、そして有無を言わさぬ圧を放って微笑んだ。
――依存先を奪われた人間は、無意識のうちに代わりの依存先を探す。
俺は、前世の心理学の基本を思い出しながら、内心で頭を抱えた。
空っぽの聖女は、どうやら「俺を救済すること」で自分の心を埋めようと決意してしまったらしい。
扉の外から「面談長くない!?」と三者三様に騒ぐ声が聞こえてくる。
俺の平穏は、今日からまた新たなベクトルで削り取られていくことになりそうだった。




