第28話 「あなた自身の幸せは?」で聖女が止まった
「なっ……! き、貴様、何をしている!」
俺が聖女セラフィーナの手首を掴み、その治癒魔法を強制的に停止させた瞬間。
天幕の奥に控えていた教団の神官たちが、血相を変えて飛んできた。
「無礼者! 薄汚い手でセラフィーナ様に気安く触れるな!」
「今すぐ離せ! まだ救いを待っている信徒がこれほどいるのだぞ!」
神官たちだけでなく、順番を待っていた怪我人やその家族からも「邪魔をするな」「女神の御遣いになんてことを」と非難の怒声が浴びせられる。
だが、俺はセラフィーナの細い手首を掴んだまま、一歩も引かなかった。
「彼女の指先を見てください。小刻みに震えているでしょう。それにこの尋常じゃない冷や汗と、浅い呼吸。明らかに魔力欠乏の初期症状です」
「な、何を馬鹿な! 聖女様の魔力は女神の恩寵、底など尽きぬわ!」
「人間である以上、肉体の限界はあります! これ以上無詠唱の治癒を連続行使すれば、彼女の命に関わる!」
俺が声を張り上げても、熱狂と信仰に当てられた群衆には届かない。
神官の一人が、顔を真っ赤にして俺の胸ぐらを掴もうと手を伸ばしてきた。
――その腕が俺に届くより早く。
「……ナギに、気安く触らないでくれる?」
ドンッ! と、凄まじい踏み込みの音が広場を揺らした。
俺の前に立ち塞がったのは、その辺で拾った棒切れを構えたAランク剣士、リゼだ。
お祭りの可愛らしいワンピース姿のまま、彼女から発せられる本気の殺気に、神官がヒィッと悲鳴を上げて尻餅をつく。棒切れが聖剣に見えるほどの殺気だ、無理もない。
「そうよ。彼に怪我でもされたら、私の休養プロトコルが崩壊してしまうわ」
続いて、俺の横に並び立ったのはフランだった。
彼女も棒切れを群衆に向ける。杖での増幅がなくとも、足元から青白い冷気を立ち上らせる。
「教団の威光は結構だけれど、生命活動の限界を無視して酷使するなど、非論理的にも程があるわ。ナギの判断を邪魔するなら、広場ごと氷漬けにしてあげる」
「あははー! お兄さんに手出しするなら、教団の金庫の中身、全部スッカラカンにしよっかなぁ?」
背後からは、どこから取り出したのか、神官の懐中時計を指先で弄りながらルゥが笑っている。
見捨てられ不安の最強剣士。
理詰め管理依存の天才魔法使い。
そして昼夜二交代制の双極盗賊。
俺の平穏を脅かす三人の問題児たちが、今はこれ以上ないほど頼もしい防壁となって、俺と聖女を教団員たちから切り離してくれた。
「……助かります!」
俺は唖然とする群衆を置き去りにして、セラフィーナの手首を引いたまま、お祭りの喧騒から逃げるように駆け出した。
「浮気はダメだよ!!」
「飽くまで業務として処理しなさい」
「信じてるからね、お兄さん!」
言われなくても、そうするよ……今日、非番日なんだけどね。
* * *
冒険者ギルド、「こころの相談窓口」の小部屋。
外の喧騒が嘘のように静まり返った室内で、俺は温かいハーブティーをセラフィーナの前に置いた。
「少し魔力回復のポーションを混ぜてあります。飲んでください」
「……ありがとうございます」
セラフィーナは、純白の法衣の袖を揺らし、両手でカップを包み込むようにして一口飲んだ。
一息ついた彼女の顔には、相変わらずあの『完璧で空っぽな微笑み』が貼り付いている。
「なぜ、私を止めたのですか?」
怒りも、疑問すらも薄い、平坦な声だった。
「私は聖職者です。彼らが救いを求めているのなら、我が身を削ってでも応えるのが、私に与えられた使命。……私は、まだ救えたはずです」
「あれ以上続ければ、あなたが倒れていました。俺はあの場にいた一人の人間として、目の前で人が壊れるのを見過ごせなかった。それだけです」
俺が答えると、セラフィーナはカップを見つめたまま、ふっと息を吐いた。
「……あなたは、優しい方なのですね」
まるで他人事のような響きだった。
「ですが、倒れてもよかったのです。壊れてしまえば、女神の元へ還るだけですから」
「セラフィーナさん」
「……私は、欠陥品なのです」
聖女は、静かに告白を始めた。
「昔は、自分の力で誰かの傷が塞がり、笑顔になってくれることが、何よりも嬉しかった。……でも、いつからでしょうか。救っても、感謝されても、涙を流されても……私の心は、何も感じなくなってしまったのです」
彼女は自分の胸にそっと手を当てた。
「喜びも、悲しみもありません。ただ、義務として。機能として治癒を行っているだけ。心から救済を喜べない私は、聖女として、ひどく恐ろしい欠陥を抱えているのです」
それは、彼女にとって誰にも言えない、深い絶望の吐露だったのだろう。
信仰の厚いこの世界で、人を救って何も感じないなどと口にすれば、異端として糾弾されかねない。
前世の言葉で言うなら、典型的な『燃え尽き症候群』、あるいは過剰な他者救済による『共感疲労』の末期だ。
心を擦り減らしすぎた結果、自己防衛のために感情のスイッチを完全に切ってしまった状態。
俺は彼女を否定せず、ただ静かに頷いた。
「それは、欠陥ではありませんよ」
「え……?」
「心が壊れないように、あなたの身体が無理やり感情に蓋をしただけです。それだけ、あなたは自分の許容量を超えて、他人のために生きすぎたんです」
セラフィーナは、わずかに目を見開いた。
自分の「罪」だと思っていた無感情を、俺にあっさりと「疲労だ」と定義されたことに、戸惑っているようだった。
「セラフィーナさん。一つ、質問させてください」
「はい……なんでしょうか」
「あなたは他人のために祈り、他人のために治癒をしてきましたね」
「それが、私の存在理由ですから」
「では」
俺は、彼女の虚無の瞳を真っ直ぐに覗き込んだ。
「あなた自身の幸せは、何ですか?」
「…………え?」
セラフィーナの動きが、完全に止まった。
「他の誰かが喜ぶから、とか、教団のため、とかは抜きにしてください。あなた自身が、個人的に『これをしている時が一番楽しい』『心が満たされる』と思うことは何ですか?」
「私の……個人的な、幸せ……?」
セラフィーナは、瞬きを繰り返した。
空っぽの瞳が、必死に自分の内側を探り回っているのがわかる。
だが、探しても探しても、そこには何もないのだ。
美味しいものを食べたい。綺麗な服を着たい。恋をしたい。ゆっくり眠りたい。
そんな、人間として当たり前の『自己の欲求』が、彼女の中にはすっぽりと抜け落ちている。
他者のためにしか生きてこなかった彼女は、「自分の幸せ」という概念そのものを持っていなかった。
「…………わかりません」
数十秒の沈黙の後。
セラフィーナは、困惑しきった顔で首を振った。
完璧な微笑みが崩れ、初めて彼女の顔に『一人の人間としての焦り』が浮かんだ瞬間だった。
「私……自分が何をしたいのか、何が好きなのか……何も、出てきません。先生、私は……どうしてしまったのでしょう」
「大丈夫です。今はわからなくて当然です」
俺はノートの切れ端を取り出し、ペンで短い文章を書いた。
「次回の面談までの、宿題を出します」
「宿題、ですか」
「ええ」
俺はその紙を、セラフィーナの前に差し出した。
「『誰のためでもないことを、一つだけする』。これがあなたの宿題です」
「誰の、ためでもないこと……」
「散歩でも、一人でお茶を飲むでも、ただ空を見るだけでもいい。誰かを救うためじゃない、誰かに感謝されるためじゃない行動を、一つだけでいいからやってみてください」
セラフィーナは、その紙切れを、まるで未知の魔導書でも見るかのように、おずおずと両手で受け取った。
「……できるでしょうか」
「できなくても、構いません。試してみることが重要です」
セラフィーナは、しばらくその紙を見つめていたが、やがて深く頭を下げた。
「……わかりました。試してみます。先生」
「俺はナギです。ギルドの受付ですよ」
「はい。……ナギ様。本日は、ありがとうございました」
立ち上がり、小部屋の扉へ向かう彼女の後ろ姿は、お祭りの広場で見た「完璧な聖女」ではなく、ただの迷子になった少女のように見えた。
パタン、と扉が閉まる。
「……さて」
俺は、一人残された小部屋で、冷めかけたハーブティーをすすった。
「ナギ! あいつ帰った!?」
「私の休養時間をこれ以上削らせないわよ!」
「お兄さんお待たせー!」
バンッ! と扉が開け放たれ、待機していた三人が雪崩れ込んでくる。
俺は頭を抱えながら、確信した。
――あの日、前世で救えなかった相談者への後悔。
それを拭うかのように、俺は今度こそ、一番手遅れに近い『空っぽの聖女』の心に、自分から踏み込んでしまったのだ。
俺の胃痛と、相談窓口の修羅場は、さらに激しさを増していくことになりそうだった。




