第27話 その聖女は、空っぽの笑顔で奇跡をばら撒く
建国祭で賑わう中央広場は、色とりどりの天幕と屋台が並び、凄まじい熱気に包まれていた。
本来なら今日は俺の非番日であり、一人で森の散策を終えた後は、自宅のベッドで泥のように眠っているはずだった。
だが、森の帰り道。彼女たちの見えない気遣いによって心が休まりすぎた反動で、つい「誰かと一緒に回れたら」なんて柄にもない誘い文句を口走ってしまった結果――。
「……ちょっと待って、ナギ! 今、私、可愛くない!」
「不覚よ。完全武装で魔物の血の匂いが染み付いたローブで、非番日のエスコートなど非論理的の極みだわ」
「お兄さん! 広場に行く前に、三十分だけ時間ちょうだい! おめかししないと!」
森から飛び出してきた彼女たちは、自分たちの惨状に気づくや否や顔を真っ赤にしてパニックを起こし、俺を祭り会場の前で待たせて嵐のように着替えに戻っていったのだ。
――そして、現在。
「ナギ! あっちの串焼き、すっごくいい匂いがする! 半分こしよ!」
俺の右腕を引くのは、軽やかなワンピース姿のリゼだ。
先ほどまで森で真空刃を飛ばしていた防具姿からは打って変わり、今日は年相応の可愛らしい格好で、花がほころぶような笑顔を見せている。
「こら、リゼ。油の多い肉は胃に負担がかかるわ。ナギ、こちらの果実水になさい。私が毒味……いえ、味見をしておいたから安全よ」
左側からすっと冷たいグラスを差し出してきたのは、上質な私服のローブを着崩したフランだ。
急ごしらえの『洗浄魔法』のせいか、ほんのりと石鹸の香りを漂わせながら、お祭りの空気に当てられたように頬を赤くしている。
「えーっ、お祭りなんだからジャンクなもの食べようよ! あ、ナギお兄さん、このお揃いのミサンガ買ってもいい!?」
そして背中からは、綺麗に髪を梳かし直した元気いっぱいのルゥが飛びついてくる。
右に最強剣士、左に天才魔法使い、背中に双極の盗賊。
すれ違う男たちから「なんだあいつ……」「殺す」「来世で爆発しろ」といった怨嗟の声が聞こえてくる。
(……なんだこれ。普通に楽しいな)
窓口では毎日のように胃を痛めているが、こうして外に出ると、彼女たちが本来持っている「魅力」がこれでもかと伝わってくる。
リゼが串焼きを差し出してくる。
「はい、あーん! ……えへへ、美味しい?」
無邪気に笑うその顔には、血まみれで「私を捨てないで」と泣き叫んでいた頃の面影はない。その健やかな笑顔は、心臓が跳ねるくらいに眩しかった。
射的の屋台では、フランが腕を組んで眉をひそめていた。
「……このコルク銃、弾道の確率計算が破綻しているわ。こんなの詐欺よ。ナギ、私が風魔法で軌道を修正して景品を全部落としてあげるから待っていなさい」
「やめてください、出禁になります。ほら、俺が取ってあげますよ」
俺がまぐれで落としたウサギのぬいぐるみを渡すと、彼女は「……別に欲しかったわけじゃないけれど、あなたが取ったなら適切な管理下におくわ」と、そっぽを向きながらも大事そうに抱きしめた。その素直になれない不器用さが、たまらなく可愛い。
そして、人混みに押されて俺がよろけそうになった時。
ふと、背中を支える手の力が強くなり、耳元に吐息が吹きかかった。
「……隙だらけよ、ナギ。スリが三人いたから、財布をすり替えておいたわ。安心して楽しみなさい」
一瞬だけ表に出たルナの、冷たいけれど確かな庇護。すぐに「あはは、お兄さん大丈夫ー?」とルゥに戻ったが、俺のためだけに裏から回ってくれるその危うい献身に、胸の奥が少しだけ熱くなった。
三人とも、美しくて、強くて、そして真っ直ぐだ。
俺に執着してくる重さは異常だが、こんな風に笑い合えるなら、この騒がしい日々も悪くないかもしれない。
そう、柄にもなく浮かれたことを考えていた。
――広場の中心、教会の大きな天幕が見えるまでは。
「あ、見てナギ。教会の『無料治癒』の列だ」
リゼが指さした先には、怪我人や病人を抱えた人々が長蛇の列を作っていた。
その最前線で、奇跡は起きていた。
純白の法衣を纏い、銀糸の髪を揺らす一人の女性。
彼女が優しく手をかざすと、淡い光が溢れ、大怪我を負った男の傷が瞬く間に塞がっていく。
「おお……! ありがとうございます、聖女様!」
「女神の御遣いだ……!」
治癒を受けた人々は涙を流して地面に伏し、彼女を拝んでいる。
「すごい魔力出力ね……。無詠唱で、あんなに連続で高度な治癒魔法を行使するなんて」
フランが純粋な感嘆の声を漏らした。
聖女の美しさと、無償の愛。誰もがその光景に感動し、称賛の声を送っている。
だが。
少し離れた場所からその光景を眺めていた俺の背筋に、氷のような悪寒が走った。
(……おかしい)
前世で、数え切れないほどの「壊れた心」と向き合ってきた臨床心理士としての直感。
俺は、彼女の『異常なサイン』から目が離せなくなっていた。
魔力を行使する指先が、微かに震えている。
呼吸は浅く、額には冷や汗が浮かんでいる。明らかに肉体の限界を超えている。
なのに、彼女は休もうとしない。
何より異常なのは、その『笑顔』だ。
感謝の言葉を浴び、涙を流す人々を見下ろす彼女の顔には、完璧で慈愛に満ちた微笑みが貼り付いている。
だが、瞳の奥が、決定的に死んでいた。
何の感情も動いていない。
喜びも、同情も、達成感もない。
ただ、「私は救う存在である」という機能だけを実行する、空っぽの機械のような目。
――『先生。私、もう……だめみたいです』
脳裏に、前世で救えなかった相談者の最後の声がフラッシュバックした。
あの時もそうだった。周囲は「彼女は大丈夫」「いつも笑っている」と言っていた。だが、その笑顔の裏で、彼女の心はとっくに死んでいたのだ。
「ナギ? どうしたの、急に顔色が……」
「……ごめん。ちょっと待っててくれ」
リゼの声に短く返し、俺は無意識のうちに足を踏み出していた。
人混みを掻き分け、教会の天幕へと一直線に向かう。
「次の方、どうぞ。女神の御加護を――」
聖女が、今にも倒れそうな青白い顔で、次の患者に手をかざそうとした瞬間。
俺は列の横から割り込み、白く細いその手首をガシッと掴んだ。
「……っ!?」
「な、なんだお前は!」
「聖女様に何をする!」
周囲の信徒や患者たちが一斉にざわめき、怒声を上げる。
だが、俺は手首を離さなかった。
「魔力欠乏の初期症状が出ています。これ以上の治癒は危険だ。休んでください」
俺の言葉に、周囲は静まり返った。
聖女はゆっくりと顔を上げ、俺を見た。
間近で見る彼女の瞳は、遠目から見るよりもずっと、恐ろしいほどの『虚無』に満ちていた。
俺に手首を掴まれても、怒りも、驚きも、恐怖すら浮かばない。
彼女は首を少しだけ傾げ、完璧に貼り付いた、空っぽの笑顔のまま言った。
「……なぜ、止めるのですか?」
鈴を転がすような、美しい声だった。
「私は聖女です。怪我をした人がいるのなら、私はその方を救わなければならないのに」
自分の命が削れていることなど、微塵も気にしていない。
自分がただの『救済装置』になり果てていることにすら、疑問を持っていない。
見捨てられることを恐れた剣士よりも。
自分で止まれない魔法使いよりも。
記憶が断絶する盗賊よりも。
この聖女は、ずっと深く、手遅れに近いレベルで、心が壊れかけていた。




