第25話 静かすぎる窓口と匿名相談
冒険者ギルドの朝は、本来なら活気に満ちている。
だが、俺のいる「こころの相談窓口」の周辺だけは、ここ数日、常に殺伐とした空気が漂っていた。
剣が抜かれ、魔法陣が展開され、短剣が宙を舞うのが日常茶飯事だったからだ。
しかし、今日は違った。
「ナギさん、この討伐依頼の報告書なんだけど、書式合ってるかな?」
「ええ、問題ありません。怪我もなかったようで何よりです。お疲れ様でした」
「ありがとよ! いやぁ、今日の窓口は静かで助かるぜ。いつもあの辺の嬢ちゃんたちが睨み合ってて、怖くて近寄れなかったからな」
一般の冒険者が、ホッとしたような顔で笑って帰っていく。
俺は「ご不便をおかけしてすみません」と頭を下げつつ、新しく処理した書類の束を満足げにトントンと揃えた。
平和だ。
あまりにも、平和すぎる。
昨夜、彼女たちが結んだという『淑女協定』。
その第一項である「週に一度、業務日でもナギに一切接触しない」というルールを、リゼも、フランも、ルゥとルナも、本当に遵守しているらしかった。
朝から誰にも右腕をホールドされていない。
栄養素の偏りを秒単位で指摘する小言も聞こえない。
背後から首筋に冷たい刃を突きつけられながら監視されることもない。
「……素晴らしい。これが、本来の事務仕事というものか」
誰にも邪魔されず、自分のペースで仕事が進む。
前世で臨床心理士をしていた頃も、休む間もなく相談者に追われる日々だったため、こんなに静かな環境で実務に没頭できるのはいつ以来だろうか。
彼女たちも、依存心を抑えてルールを守るという大きな一歩を踏み出してくれた。
俺は「これでいいんだ」と深く頷き、滞っていた事務作業を恐ろしいスピードで片付けていった。
* * *
昼下がり。
窓口の客足が途絶えたタイミングで、俺はギルドの隅に設置されている『目安箱』を開けた。
直接対面で相談するのが恥ずかしい、あるいは難しい冒険者たちのために設置した、匿名での相談ポストだ。
中にはいくつかの他愛のない悩み相談が入っていたが、その底に、ひときわ異彩を放つ一通の封筒があった。
上質な漆黒の羊皮紙に、赤い封蝋。
宛名には、ただ一言「こころの相談窓口のご担当者様」とだけ記されている。
「……久しぶりだな、この人から手紙が来るのは」
俺は周囲に人がいないことを確認し、そっと封を開けた。
以前、「人類を滅ぼすべきか迷っています」というスケールが大きすぎる相談を持ち込んできた『匿名相談者』からのものだ。
前回、俺は「誰の、どのような裏切りが一番の原因だったのか対象を絞って整理してみては」と通常業務の範疇で返信しておいた。
その回答だろう。
達筆な文字を、静かに黙読する。
『前略 こころの相談窓口のご担当者様。
対象を絞り、裏切りの原因を整理せよとのご助言に従い、思考をまとめました。
私が最も疲弊しているのは、「絶対に相容れない存在」からの幾度にもわたる拒絶と、歩み寄ろうとした結果の裏切りです。
彼らは私という存在そのものを根幹から否定し、決して理解しようとはいたしません。
改めてお尋ねいたします。
決定的に相容れない性質を持つ者同士が、不信を乗り越えて共存することなど可能なのでしょうか?
互いの存在が相手を脅かす関係において、手を取り合うなどという絵空事が、本当に起こり得るのでしょうか。
私には、やはり一括で消去する方が最も合理的であると思えてなりません。いかがお考えでしょうか』
手紙は、そこで終わっていた。
「決定的に相容れない性質を持つ者同士、か……」
俺は便箋をデスクに置き、腕を組んだ。
相容れない存在。
絶対に理解し合えない、水と油のような関係。
――ふと、俺の脳裏に、昨日の朝までの光景が蘇った。
剣と感情で全てを解決しようとするリゼ。
魔法と論理で全てを管理しようとするフラン。
昼と夜で人格が入れ替わり、実力行使も辞さないルゥとルナ。
彼女たちは、性格も、戦闘スタイルも、俺への執着の仕方も、全てが『相容れない性質』だった。
顔を合わせれば必ず衝突し、俺というリソースを巡って殺し合い一歩手前の喧嘩を繰り広げていた。
だが、そんな絶対に理解し合えないはずの彼女たちが。
昨夜、酒場の片隅で机を囲み、『淑女協定』という一つのルールを作り上げたのだ。
それは、お互いを深く理解し、仲良くなったからではない。
ただ一つ。
「俺を壊さないため」という、共通の目的があったからだ。
俺はペンを取り、真っ白な便箋に向かった。
「……絵空事なんかじゃないですよ。現に、俺の目の前で起きたんですから」
誰に聞かせるわけでもなく呟きながら、俺は匿名相談者への返信を書き始めた。
『お手紙、確かに受け取りました。
裏切りの原因を整理していただき、ありがとうございます。
あなたが言う通り、決定的に相容れない性質を持つ者同士が「完全に理解し合い、一つになること」は不可能かもしれません。
ですが、「共存すること」は可能です。
互いを理解できなくても構わないのです。
ただ一つ、「絶対に失いたくない共通のもの」や「共通の目的」を見つけ意思疎通ができれば、不格好でも、妥協して手を取り合うことができます。
私の身近にも、絶対に相容れないはずの者同士が、たった一つの目的のために、極限の忍耐を強いてまで協定を結んだ例があります。
ですから、一括消去という極端な決断はまだ待ってください。
時間はかかるかもしれませんが、対話の糸口は必ずどこかにあるはずです』
インクを乾かし、俺は封筒に手紙を収めた。
これをギルドの専用掲示板の裏に貼り付けておけば、いつの間にか彼(あるいは彼女)が持ち去っていくのが、いつもの流れだ。
この匿名相談者が一体何者で、どれほどの重圧を背負っているのか、俺にはわからない。
だが、一つの窓口の担当者として、この孤独な相談者のことも最後まで真摯に扱いたかった。
「よし。今日の業務はこれで完璧だな」
窓口を片付け、俺は大きく伸びをした。
ヒロインたちの乱入もなく、事務仕事は完璧に終わり、匿名の相談にも誠実に返信できた。
非の打ち所のない、パーフェクトな業務日だ。
「明日はついに非番日……。協定通りなら、明日も完全に一人だ」
俺は弾む心を抑えきれず、帰り支度を始めた。
明日は、午前中は思いっきり寝て、午後から顔見知りの一般冒険者パーティーに少しだけ同行させてもらい、街外れの森で薬草採取がてら『森林浴』をする予定を立てている。
戦闘力ゼロの俺が一人で森に入るのは危険だが、常識的な冒険者たちと一緒なら安全だ。
ああ、楽しみで仕方がない。
久しぶりに、青空の下で美味しい空気を吸い、魔物にも依存しがちな相談者にも脅かされない、本物の平穏を満喫するのだ。
まさか明日、その森の奥深くで、『見えないストーキング』という名の自然破壊が行われることになろうとは。
この時の俺は、ただただ純粋に、明日の平和な休日を信じて疑っていなかった。




