第2話 それは恋ではなく転移感情です
「……お願い。私を見捨てないで」
細く、震える声だった。
Aランク冒険者、殲滅剣のリゼ。
ソロでワイバーンを落としただの、群れた魔物を正面から斬り抜けただの、そういう物騒な武勇伝ばかり聞く最強格の剣士が、今は俺の制服の袖を子どもみたいに握っている。
赤く腫れた目。
震える指先。
助けを求めるには、あまりにも切実すぎる声。
前世で臨床心理士をしていた頃の感覚が、頭の奥で静かに警鐘を鳴らした。
危ない。
この「この人だけは離さないでほしい」という縋り方は、向ける相手を間違えると、そのまま依存の沼に落ちる。
だが、ここで突き放すのは論外だ。
「見捨てませんよ」
俺はできるだけ声を平らにした。
優しくしすぎず、冷たくもしない。その中間を探る。
「俺はギルド職員です。ここは相談窓口です。来た人を途中で放り出したりはしません」
リゼの肩が、わずかに下がる。
「だから、今は大丈夫です」
そう言ってから、掴まれていた袖をいきなり振りほどくのではなく、そっと指を外した。
仕事としての線は必要だ。
でも線を引くことと、拒絶することは違う。
リゼは少しだけ名残惜しそうに指先を縮めたが、抵抗はしなかった。
「……ありがとう、ございます」
「どういたしまして。水、もう少し飲めますか」
「はい……少しだけ」
さっきよりは安定した手つきで、彼女はコップを持った。
小部屋の外からは、まだ広間の喧騒がかすかに聞こえる。
依頼書の催促、報酬の文句、誰かの笑い声。
あの騒がしさと、この部屋の静けさは、まるで別の場所みたいだった。
俺は椅子に座り直し、リゼと目線の高さを合わせる。
「さっきの続き、話せそうですか」
「……はい」
「無理なら止めます」
「大丈夫、です。たぶん……今なら」
“たぶん”が付くのは健全だ。
今の自分の限界をまるで無視して「平気です」と言い切るより、ずっといい。
「『私が一緒にいると、みんな、いなくなる』――そう言ってましたね」
「……はい」
リゼはうつむいた。
白銀の髪がさらりと落ちて、表情が半分隠れる。
「私は、ずっとソロでやってきました。でも大きい依頼だと、他のパーティと一時的に組むことがあります」
「ありますね」
「今回も、そうでした。Bランクのパーティが、前衛の火力が足りないからって、私を雇ってくれて」
「うん」
「私が前で引きつけて、後ろから魔法で削る予定でした」
話し方は淡々としている。
でも、言葉を選ぶたびに、肩がほんの少しずつ固くなる。
「最初は上手くいってたんです。でも、洞窟の奥で、予定よりずっと多い群れにぶつかって……」
「……」
「陣形が崩れて、私が前に出すぎて、気づいた時には後衛まで抜けられてて」
そこで、リゼの呼吸がまた浅くなりかけた。
俺は机の上に置かれた彼女の手の少し近くを、指先で軽く叩く。
トン、トン、と二回。
ここにいる。
今の話だ。
あの時じゃない。
言葉にしなくても、それだけで意識を戻せる時がある。
リゼは小さく息を吐いた。
「……結果的に、私だけが無事でした」
「うん」
「他は全員、重傷で。一人は腕を……」
そこで言葉が切れた。
「治癒魔法でも、欠けたものは戻らないから……もう、冒険者は続けられないって」
「……そうですか」
安い同情は言わない。
“かわいそう”で済ませていい話じゃない。
リゼはぎゅっと拳を握った。
「また、なんです」
「また?」
「私、何回も同じです。私と組んだ人が、死ぬか、潰れるか、離れるか……みんな、いなくなる」
「……」
「だから、私が悪いんです」
言い切った。
まるで、もう何百回も心の中で繰り返した結論みたいに。
「私がもっと強ければよかった。もっと早く全部斬っていればよかった。もっとちゃんと周りを見ていればよかった」
「うん」
「でも、できなかった。だから、私のせいです」
「……」
「私が誰かと関わらなければ、最初からこうならない。私がソロでいれば、少なくとも誰かを巻き込まずに済む」
彼女はそこまで一気に言って、唇を噛んだ。
典型的だ、と思う。
――全部自分のせい。
この結論は、苦しいようでいて、実はすごく強力だ。
世界が理不尽だった。
運が悪かった。
敵が想定外だった。
仲間にも判断ミスがあった。
そういう、自分では制御できないものを認めるのは怖い。
怖いから、人は全部自分の責任にしたくなる。
その方がまだ「次は頑張れば変えられる」と思えるからだ。
でも、そのやり方は、自分一人を延々と処刑台に乗せ続ける。
「リゼさん」
「……はい」
顔を上げた彼女は、少し怯えていた。
責められると思っている顔だ。
「少し言い方がきつくなるかもしれません」
「……」
「でも、あなたが今やってるのは、“反省”というより“自分への処刑”に近いです」
リゼが目を見開く。
「処刑……」
「ええ。失敗を振り返るのは必要です。でも、“全部自分が悪い”で終わらせると、考えるのをやめられる」
「……え?」
「仲間の判断はどうだったのか。敵の性質はどうだったのか。運の悪さはあったのか。次に防げる部分はどこか。そこを見ないで、最後に“私が悪い”だけ置いてきてる」
「そんな……」
「だって、その方が簡単だからです」
俺は少し前に身を乗り出した。
「理不尽な世界を認めるより、自分一人を悪者にした方が、まだ整理しやすい」
「……」
「でも、それは楽になるための整理じゃない。あなた自身を罰し続けるための整理です」
リゼの瞳が揺れた。
刺さっている。
刺さっているが、まだ拒絶ではない。
このまま責める調子にすると閉じる。ここからは落とす。
「あなたのせいじゃない、と簡単に言うつもりはありません」
「……」
「反省点はあるでしょう。次から変えられる部分も、たぶんある」
「はい」
「でも、“全部”は違う」
「……全部、は」
「あなたは神様じゃない。前衛をしながら後衛の安全も運命も全部背負えるほど、万能じゃない」
そこで、俺は少しだけ笑った。
「そんなことができるなら、もうギルドじゃなくて神殿に飾られてます」
「……っ」
リゼの喉が、かすかに鳴った。
笑いそうになったのか、泣きそうになったのか、自分でもわからない顔だった。
「あなたは、強い冒険者です」
「……」
「でも同時に、傷つけば苦しいし、失えばつらい、普通の人です」
その瞬間だった。
ぽろり、と大粒の涙が落ちた。
血と泥の跡が残る頬を、まっすぐ伝っていく。
「あ……」
「ええ」
「なん、で……」
自分でも驚いているみたいに、リゼは自分の頬に触れた。
けれど、次の涙がその指先を濡らす。
止まらなかった。
「ごめんなさ……っ、私……」
「謝らなくていいです」
「でも、私、こんなの……」
俺はそっとタオルを差し出した。
「ここでは、それでいいですよ」
それが引き金になったのか、リゼはタオルに顔を押し当てて泣き始めた。
「ひっ……う、ぁ……っ」
「……」
「ずっと、私が悪いって、思ってて……っ」
「うん」
「そうじゃないって言われても、信じられなくて……っ」
「うん」
「でも、ナギさん、は……っ」
途中から言葉にならなくなった。
Aランク最強剣士が、子どもみたいに泣いている。
外の連中が見たら腰を抜かすだろう。
でも、泣けるのは悪いことじゃない。
ずっと張り詰めていた糸が、ようやく少しだけ緩んだ証拠だ。
俺は余計なことを言わず、ただ待った。
時間にして十分ほどだったと思う。
しゃくりあげる音が小さくなって、リゼはようやく顔を上げた。
目元は真っ赤で、鼻の頭まで赤い。整った美貌がだいぶぐしゃぐしゃだ。
なのに、不思議とさっきより綺麗に見えた。
張りつめていたものが一枚剥がれたからかもしれない。
「……落ち着きましたか」
「はい……その、すごく……お見苦しいところを……」
「ここはそういう場所ですから」
「そういう場所……」
「泣くなって言わない場所です」
リゼが、ゆっくりと瞬きをした。
「……不思議です」
「何がですか」
「こんなに話したの、久しぶりで」
「ええ」
「こんなふうに……最後まで聞いてもらったのも」
彼女は小さく息を吐いた。
「みんな、私には強くあってほしいから」
「まあ、強いですしね」
「でも、今日は……強くなくていいって言われた気がして」
それは少し誤解だ。
正確には“無理に強がらなくていい”なんだけど、今は訂正しない方がいい。
「一人で抱えすぎてたんですよ」
「……そう、かも」
「少なくとも、今日ここに来たのは正解でした」
「……はい」
その返事と一緒に、リゼの表情が少しだけ明るくなる。
よかった。
少なくとも、最悪の底は越えた。
――と、思ったその時だった。
リゼがふいに身を乗り出してきた。
「ナギさん」
机の上の俺の右手を、彼女の両手が包む。
「え」
「あなたは、最後まで聞いてくれた」
「いや、それは窓口なので」
「私を、最初から弱いって決めつけなかった」
「それも仕事です」
「仕事でも、です」
まずい。
瞳の熱量が変わった。
さっきまでの怯えでも、ただの安堵でもない。
何かを見つけた人の目だ。しかも、うっかりそれを逃がすまいとし始めている。
前世の知識が脳内で赤ランプを回す。
それは恋ではなく転移感情です。
少なくとも、今のところは。
だからそこで瞳を潤ませるのはやめてくれ。こっちは職業倫理が反射で起動するんだ。
「リゼさん、落ち着いて」
「落ち着いてます」
「いや、目が全然落ち着いてない」
「……私、明日も来ていいですか」
上目遣いだった。
声は控えめなのに、圧が妙に強い。
断られたら困る、ではなく、断られるという可能性そのものをまだ知らない顔をしている。
いや、待て。
ここで下手に拒絶すると逆効果だ。
継続的なフォロー自体は必要だし、実際まだ一回で終えていい状態でもない。
「……来てもいいですよ」
「ほんとに?」
「ええ。ただし相談窓口として、です」
「相談窓口として」
復唱した。
なのに、なぜだろう。意味の半分くらいしか入っていない顔だ。
「経過観察は必要ですから」
「じゃあ、約束ですね」
「まあ、はい」
「約束……」
リゼの顔が、ぱっと明るくなった。
さっきまで泣いていたのが嘘みたいだった。
いや、回復の兆候としては悪くない。悪くないんだが、切り替えが早すぎて少し怖い。
「ありがとう、ナギさん!」
「どういたしまし――」
「ううん、ナギでいいよね!」
「そこは急に距離を詰めないでください」
「じゃあ私もリゼで」
「そういう問題じゃ……」
「明日、また来るね!」
立ち上がった彼女は、来た時とは別人みたいに軽かった。
出口まで行って、そういえばと思い出したように振り返る。
「私、ちょっとギルドの訓練所で素振りしてくる」
「え?」
「元気出たから」
「元気の出し方が武闘派すぎる」
「一万回くらい」
「ほどほどに!?」
そのまま、リゼはぱたぱたと小部屋を出ていった。
扉が閉まる。
静かになった室内で、俺はしばらく自分の右手を見つめた。
さっきまで彼女が包んでいた場所だ。
「……いや」
落ち着け、俺。
心を開いてくれた。
それ自体はいい。
むしろ大きな前進だ。
ただ、その開き方が、ものすごく一点集中だっただけで。
「……気のせいだといいんだが」
前世だったら倫理委員会案件、という言葉が喉元まで出たが、飲み込んだ。
まだ早い。たぶん。いや、わからないけど。
* * *
翌朝。
ギルドの開館は朝八時だ。
俺は七時少し前に出勤して、建物の前で足を止めた。
人影がある。
ギルドの分厚い木扉の前。
朝霧の残る石段に、ちょこんと座り込んでいる影がひとつ。
「……」
俺が黙って見ていると、相手がぱっと顔を上げた。
「あ! ナギ!」
立ち上がったのは、昨日まで血と泥にまみれていたAランク最強剣士様だった。
今日は防具も髪も妙にぴかぴかしている。準備がいい。というか気合いが入りすぎている。
「……リゼさん」
「おはよう!」
「おはようございます」
「えへへ」
えへへ、じゃない。
「何してるんですか」
「待ってた」
「見ればわかります」
「ナギが来るの」
「それも見ればわかります」
「えらい?」
「質問の意味がわからない」
リゼはまったくめげなかった。
「一番に会いたかったから」
「……開館までまだ一時間ありますけど」
「うん!」
「知ってて来たんですか」
「うん!」
満点の笑顔で言うことじゃないだろ、それは。
「リゼさん」
「リゼ」
「……リゼ」
「うん」
「それ、相談窓口の利用者としてはだいぶ距離感がおかしいです」
「そうかな?」
「そうです」
「でも、ナギが来るまで帰る理由なかったし」
「理由ではなく常識の問題です」
彼女は少しだけ首を傾げて、照れたみたいに笑った。
「だって、約束したから」
朝の光の中で、その笑顔はやたらと破壊力があった。
昨日泣きはらしていた同一人物とは思えないくらい、まっすぐで、嬉しそうで――そして嫌な予感がするくらい重い。
俺は胃のあたりに鈍い痛みを覚えながら、ギルドの鍵を差し込んだ。
こころの相談窓口、開業二日目。
たぶんもう、俺の平穏は終わり始めている。




