第1話 血まみれAランク剣士が受付で泣き出した
「おい受付! この魔牛の角、査定が低すぎねえか!?」
「根元が割れてます。Bランク素材です。次の方どうぞ」
「昨日出した討伐報告書、俺の名前が三番目なんだが!」
「実際に三番目に戦ってたって証言が取れてます」
「冷たくない!?」
「事実が全てです」
昼下がりの冒険者ギルドは、今日も騒がしかった。
酒の匂い。革鎧の軋む音。依頼帰りの冒険者たちの怒鳴り声。
剣と魔法の異世界に転生したというのに、俺の主戦場は今日も受付カウンターである。
ちなみに本日の俺の業務は、受付に加えて新設されたばかりの謎部署――
**『こころの相談窓口(仮)』**
である。
仮って何だ。仮って。
ギルドマスターいわく、「最近、冒険者の離脱率が高いから、お前なんとかしろ」とのことだった。
前世でもそうやって仕事が増えたんだが? という抗議は華麗に無視された。
まあ、身体の怪我ならこの世界には対処法が山ほどある。
治癒術師も神官も回復薬もいる。
問題は、心が折れた時だ。
そこにだけ、この世界は妙に鈍い。
だからこそ、こうして俺が窓口に座らされているわけだが――
ギルドの扉が、乱暴に開いた。
いや、開いたというより、半分ぶつけるように押し開けられた。
「――っ、は、ぁ……っ」
どさり、と重い音がした。
視線が一斉に入口へ向く。
俺も顔を上げて、まず赤を見た。
血だ。
白銀の髪にも、肩当てにも、黒い軽装鎧にも、派手に飛び散っている。片手には刃こぼれした長剣。もう片方の手は壁に触れていないと体を支えられないらしく、小さく震えていた。
そして、その少女は数歩だけ進んで、受付の手前で膝をついた。
「おい、嘘だろ……」
「あれ、リゼじゃないか!?」
「Aランクの……」
「殲滅剣のリゼだぞ!」
広間の空気が一気に変わる。
名前は俺も知っていた。
Aランク冒険者、リゼ。ソロで高難度依頼を片づける最強格の剣士。強い、美人、近寄りがたい――だいたいそういう評判の人だ。
でも、今の彼女にあるのは強者の圧じゃない。
限界の顔だった。
呼吸が浅い。早い。焦点が合っていない。
肩はこわばり、剣の柄を握る指だけが異様に強い。
ああ、この表情は知っている。
前世で何度も見た。
病院の相談室で。学校の面談室で。仕事帰りのまま椅子に沈み込んだ人たちの顔で。
身体より先に、心の方が限界を迎えている人の顔だ。
「誰か、高位神官を呼べ!」
「いや待て、まず止血だろ!」
「おい受付、ぼさっとするな!」
周囲が一斉に騒ぎ出す。
気持ちはわかるが、全員で慌てるのが一番まずい。
俺はカウンターを出た。
「囲まないでください。空気が薄くなります。野次馬は三歩下がって」
「さ、三歩?」
「ギルドマスター、入口側を広く開けてください。あと水」
「お、おう!」
素直かよ。今日は助かるな。
俺はリゼの正面にしゃがみこんで、視線の高さを合わせた。
「リゼさん、聞こえますか」
彼女の目が、かすかに揺れる。
「ここはギルドです。もう戦闘は終わってます。あなたは今、安全です」
「……ぁ……」
反応は小さい。でも、声は届いている。
近くで見ると、傷そのものは思ったより浅い。血の量は派手だが、全部が本人のものではなさそうだ。
たぶん身体は治せる。問題はこっちだ。
この世界、骨折には即対応できるのに、過呼吸には全員で青ざめるんだよな。
いや、わかるけど。わかるけども。
「水持ってきたぞ!」
「ありがとうございます。そこに」
コップを受け取りつつ、俺は落ち着いた声を意識する。
「今は話さなくていいです。まず息を整えましょう。俺の声に合わせてください」
「……っ、む、り……」
「大丈夫。ゆっくりでいい。四つ数えて吸って、長く吐く。はい――吸って」
彼女の肩が大きく跳ねる。
最初は乱れた。
「……一、二、三、四。止めて。今度は吐く。細く、長く」
もう一度。
もう一度。
横で見ていた冒険者が小声で言う。
「何してんだ、あれ」
「知らん……でも、リゼの呼吸、少し落ち着いてないか?」
「回復魔法じゃないのに?」
「古代の秘術か?」
「ただ一緒に息してるだけだろ」
「静かに。聞こえます」
ぴたりと黙った。よし。
三回ほど繰り返すと、リゼの呼吸は少しだけましになった。
震えは残っているが、さっきよりも目の焦点がこちらに合う。
綺麗な人だと思った。
白銀の髪は血で汚れているし、頬にも泥がついている。なのに、顔立ちそのものは息をのむほど整っている。きっと普段はこの目で睨まれただけで、たいていの男は黙るんだろう。
その瞳が今は、怯えで濡れていた。
強い人が見せる怯えは、たいてい深い。
「……すみません」
「謝らなくていいです」
「でも、受付で……」
「床はあとで拭けます」
「え」
「今は私だけを見てください」
一瞬だけ、彼女が目を丸くした。
よし。少し戻った。
「水、飲めますか」
差し出すと、彼女の手が震えてコップを落としかけた。
俺は底を支えて、少しだけ手伝う。
「落ち着いたら、奥へ移りましょう。ここだと人が多すぎる」
「……奥」
「相談用の部屋があります」
正確には、帳簿整理用の小部屋に木札を置いただけだ。
でも今この場に必要なのは、立派な設備じゃない。閉じられる扉と、簡易な椅子と机だけ。
リゼは何か言いかけて、唇を噛んだ。
「……また」
「はい」
「また、私だけ……」
その先が続かない。
でも、その一言だけで十分だった。
“また”だ。
一度じゃない。今回だけの混乱でもない。
「立てますか」
「……たぶん」
「無理なら支えます」
「そこまでは……」
言いながら立ち上がろうとして、案の定ふらついた。
「だから言ったでしょう」
「……すみま」
「謝らなくていいです」
肩を貸すと、彼女の体がびくりと強張る。
人に支えられることに慣れていない反応だった。
厄介だな、と思う。
仕事が、じゃない。ここまで一人で耐えてきたことが、だ。
小部屋に移ると、外の喧騒が少し遠くなった。
椅子に座らせて、俺は彼女の向かいに腰を下ろす。
扉は閉めきらず、少しだけ開けておく。密室感を減らすためだ。前世の癖みたいなものだった。
「改めて言います」
俺は、できるだけ平坦な声で言った。
「ここでは強くなくていいです」
その瞬間、リゼの肩が小さく震えた。
たぶん、今まで一番言われてこなかった言葉なんだろう。
沈黙が落ちる。
俺は急かさない。
この世界では、こういう沈黙を埋める言葉はだいたい決まっている。
気にするな。酒を飲め。寝れば治る。もっと強くなれ。泣くな。
それで立ち直る人もいる。
でも、今の彼女に必要なのはたぶんそれじゃない。
話してもいい、と許されることだ。
「……仲間が、いたんです」
ようやく、リゼが口を開いた。
「今回も、組んでくれて」
「はい」
「でも……だめで」
「うん」
「私だけが、生きてて……」
最後の方は、ほとんど声になっていなかった。
彼女は膝の上で手を握りしめる。
指先が白い。
「私が一緒にいると、みんな、いなくなる」
「今は結論を急がなくていいです」
「でも事実です」
「そう思いたくなるのはわかります」
否定しきらない。
でも、飲み込ませもしない。
リゼは赤くなった目で、俺を見た。
「……わかるんですか」
「少なくとも、そう思うくらいきつかったことは」
「……っ」
そこで、ついに涙がこぼれた。
静かに、でも止まらない。
最強の剣士が泣いている、という事実だけ切り取れば周囲は驚くだろう。けれど今の彼女は、強いとか弱いとか、そういう分類の外にいた。
ただ、もう一人では抱えきれなくなった人だった。
「全部まとめて話さなくていいです」
「……でも」
「整理しながらでいい。話せるところからで」
彼女の目が、少しだけ見開かれる。
前世で何度も見た反応だ。
“ちゃんと聞いてもらえると思っていなかった人”の顔。
胸の奥が、わずかに痛んだ。
前世で救えなかった人のことを、俺はまだうまく思い出せない。
思い出そうとすると、最後の表情だけが先に浮かぶ。
だからたぶん、こういう顔を放っておけない。
「今日は、気が済むまで俺が聞きます」
「……あなたが?」
「はい」
リゼの唇がかすかに震えた。
「全部じゃなくていいです。今日ここまで来た。それだけでも十分です」
次の瞬間だった。
彼女が椅子から少し身を乗り出して、俺の制服の袖を掴んだ。
細い指だった。
けれど剣を握ってきた手だ。力の入れ方が切実すぎる。
俺は息を止める。
その目が、さっきまでの怯えとは少し違って見えたからだ。
ただ助けを求める目じゃない。
ようやく見つけたものに、必死に縋りつこうとする目だ。
……ああ、まずいな。
初回対応としては間違っていない。
たぶん。いや、かなりちゃんとやってる。前世基準でも。
それなのに、嫌な予感だけはものすごくする。
リゼは涙で濡れたままの顔で、俺だけを見ていた。
まっすぐで、弱々しくて、それなのに妙に重い視線だった。
そして、絞り出すように言った。
「……お願い。私を見捨てないで」




