第15話 相談員を共有資源として扱わないこと
その日は、待ちに待ったギルドの非番日だった。
ここ数日の、睡眠管理だの、お泊まり会だの、分厚い契約書の攻防だので削られきった俺のHPとMPは、すでにレッドゾーンに突入している。
今日は絶対に仕事のことは考えない。日用品と食材の買い出しを済ませたら、部屋で泥のように眠る。そう固く誓って、俺は街の市場へと足を運んだ。
賑わう市場の空気は、ギルドの血生臭さとは無縁で、とても平和だった。
……平和、だったのだ。
「おはよう、ナギ」
「おはよう、ナギ!」
右から氷のように涼しい声が、左から弾むような元気な声が、見事にステレオで鼓膜を打った。
振り返ると、そこには濃紺のローブを纏ったフランと、動きやすい軽装の私服を着たリゼが、俺を挟むようにして立っていた。二人とも、なぜかバチバチと視線で火花を散らしている。
「……なぜここに。俺、今日は非番なんですけど」
「偶然ね」
フランが澄ました顔で即答する。
「休日のあなたの行動パターンと疲労度を計測しておくことは、今後の私の休養管理において有益なデータになるわ」
「私は偶然じゃないよ!」
リゼが胸を張る。
「私はギルドの専属ソロでしょ! 休日のナギを護衛するのも立派な仕事!」
「二人とも、それはストーカーというのでは」
俺のツッコミは、市場の喧騒と二人の熱気に掻き消された。
買い物が始まると、状況は地獄と化した。
肉屋の店先で。
「ナギ、その肉は脂質が高すぎるわ。消化器官の負担を考慮すれば、こちらの赤身肉にすべきよ」
「えー! 疲れた時はお肉だよ! ナギ、このでっかい骨付き肉買って、一緒に食べよ!」
八百屋の店先で。
「この野菜の栄養素こそが、あなたの回復に不可欠だわ」
「こっちの果物、すっごく甘そう! あーんしてあげる!」
右腕をフランに引かれ、左腕をリゼに引っ張られる。
二人とも、悪気はないのだ。それぞれ「ナギの健康のため」「ナギを喜ばせるため」という善意で動いている。だが、その善意の圧が強すぎるし、何より二人が俺のすぐ背後でずっと牽制し合っているせいで、気が休まる瞬間が1秒もない。
(……息が、詰まる)
ふと。
人混みと、日差しと、両側からの絶え間ない声に晒された俺の視界が、ぐらりと揺れた。
――ピリリリリ、ピリリリリ。
脳裏に、幻聴が響いた。
前世の休日にすら鳴り止まなかった、相談機関からの緊急コール。あるいは、専門家としての境界線を越えて依存してきた相談者たちからの着信音。
『先生、助けて』『あなたしかいないんです』と、昼夜を問わず縋り付かれる重圧。
彼らの心を支えなければという責任感と、決して他人の人生は背負いきれないという無力感の狭間で、自分の心が擦り減っていく『共感疲労』の感覚。
休まらないまま、逃げ場のないまま、心臓が嫌な音を立てて冷たくなっていった、あの日々のトラウマ。
「ナギ……?」
「ちょっと、顔色が……!」
俺は持っていた紙袋を取り落としそうになり、膝の力が抜けてガクンと体勢を崩した。
「ナギ! しっかりして!」
「呼吸が浅いわ! 脈拍も……過労のサインよ!」
咄嗟に、左右から二人の手が俺を強く支え、倒れるのを防いでくれた。
だが、俺の異変を察知した二人は、そのまま俺の頭上で激しい口論を始めた。
「あんたが変な契約書とか持ち出して、ナギを休ませないからでしょ!」
「あなたこそ、四六時中つきまとって彼の精神をすり減らしている自覚はないの!?」
「私はナギの護衛だもん! あんたこそ理屈ばっかりで!」
「事実よ。あなたの感情的な騒音が彼の負担になっているの!」
やめろ。
頼むから、俺の頭の上で言い争わないでくれ。
俺は薄れかける意識を無理やり奮い立たせ、大きく息を吸い込んだ。
そして、二人の腕をそっと振り払い、自力で立ち上がる。
「……ストップ!!」
俺が声を張り上げると、リゼとフランはビクッと肩を跳ねさせ、ピタリと黙り込んだ。
「二人とも、よく聞いてください」
俺は乱れた呼吸を整えながら、二人を順番に真っ直ぐ見据えた。
「ここは相談窓口じゃありません。グループセッションの会場でもありません!」
「「……っ」」
「俺は、あなたたちの『専属』でもなければ、いつでも好きに使える『共有資源』でもない。……ただの、一人の人間です! 俺の休日は、俺のものです!」
静まり返る市場の片隅。
普段は決して声を荒らげない俺のガチギレに、二人は完全に萎縮していた。
リゼは、しゅんと耳を伏せた犬のように肩を落とし、おずおずと俺を見上げた。
「ごめん……。私、ナギの負担になってた……。ナギが倒れちゃうの、やだ……」
フランも、杖を握る手を震わせ、深く目を伏せた。
「……否定できないわ。私の管理への執着が、結果としてあなたというシステムを破壊しかけていた。極めて非合理的で、愚かなミスよ。……ごめんなさい」
二人とも、俺を壊すことだけは絶対に避けたいらしい。
その本質的な優しさだけが、今の俺の救いだった。
「……わかってくれたなら、いいんです。今日は帰って寝ますから、二人とも解散してください」
俺がため息をついて落ちた紙袋を拾い上げると、二人は申し訳なさそうに頷いた。
「ええ。今日は解散すべきだわ」
フランが真顔でリゼを振り返った。
「野良犬。私たちがバラバラに要求をぶつけ、彼の時間を奪い合えば、彼は確実に壊れるわ」
「……うん。ナギがいなくなったら、私は生きていけない」
「ならば、一時休戦よ」
フランは、まるで国境条約でも結ぶかのような厳粛な顔で言った。
「彼の回復時間を絶対的に確保した上で、私たちの『面談権』や『接触時間』を配分する不可侵条項……いえ、『ナギ運用協定』を結ぶ必要があるわ」
「……今回は、特別に賛成してあげる。ナギが倒れたら、私が一番困るから」
二人で深く頷き合っている。
……えっ?
ちょっと待って。
「あの、二人とも?」
「明日、協定の第一版をギルドに持っていくわ。あなたも意見をまとめなさい、野良犬」
「望むところよ、理屈女!」
「いや、だから俺をパイみたいに切り分けるなと……」
俺の静止も聞かず、二人は「ナギを壊さない範囲で、いかに平和的に独占するか」という、斜め上の連帯感を生み出しながら解散していった。
俺は胃のあたりを強く押さえながら、一人で家路につく。
結果的に一番面倒くさい方向へシフトしてしまった気がする。
(明日のギルド、行きたくないな……)
俺の休日は、疲労感だけを色濃く残して終わろうとしていた。




