第114話 聖女の戦線と、嵐の前夜
大聖堂の審議室は、白い石壁に囲まれた円形の広間だった。
高い天井から聖光が差し込み、中央の壇上を照らしている。壇上にはセラフィーナ。周囲の席には、教団の上層部——枢機卿三名、大司教五名、聖騎士団の代表。
そして、正面の最上席に、ガレリウスが座っていた。
穏やかな微笑み。銀髪。知性と慈愛に満ちた目。
「では、聖女位再審査の議を始めます」
ガレリウスの声が、広間に響いた。柔らかく、よく通る声。
「セラフィーナ。あなたは教団の聖女として、冒険者ギルドに出向しておりました。その間、異教の儀式への参加、魔族との接触、教義に反する活動に関わったとの報告があります」
淡々とした読み上げ。だが、一つ一つの言葉が——鎖だった。
「これについて、弁明をお聞きしたい」
セラフィーナは、壇上に立っていた。
聖母の微笑みを浮かべていた。だが、その下に——鋼があった。
「弁明ではなく、報告をさせていただきます」
「どうぞ」
「私は出向中、人魔和平プロジェクトに参加いたしました。エルフ王国を訪問し、世界樹の衰弱を確認いたしました。原因は魔脈の枯渇——これは全種族に影響する、世界規模の危機です」
広間がざわめいた。
「魔脈は、教義では『女神の血脈』と呼ばれています。ですが、実態は全種族が共有する魔素の循環経路です。女神の血脈が枯渇しているとすれば——それは女神が、全種族に協力を求めておいでなのではないでしょうか」
ガレリウスの微笑みが、わずかに深くなった。
「興味深い解釈ですね。ですが——それはあなた個人の解釈であり、教義に基づくものではありません」
「はい。ですので——教義について、証言を求めたい方がおります」
セラフィーナが、広間の扉の方を見た。
「レティシア隊長。お願いいたします」
扉が開いた。
聖騎士隊長レティシアが、鎧姿で入ってきた。短い銀髪。真っすぐな目。だが——いつもと違っていた。
目に、迷いがあった。迷いがあるのに、足は止まらなかった。
レティシアが壇上に立った。
「聖騎士隊長レティシア。証言を許可します」
ガレリウスの声に、変化はなかった。完璧な平静。
レティシアが深く息を吸った。
「私は——ガレリウス猊下の『魂の対話』を、三年前に受けました」
広間が静まった。
「対話の後、私は変わりました。判断が、できなくなりました。何かを決める時、猊下ならどう仰るかを考えなければ、一歩も動けなくなりました。自分の意見が正しいのか、わからなくなりました」
レティシアの声が、震えていた。だが——止まらなかった。
「私はそれを、猊下のお導きだと信じていました。自分が弱いから、猊下に頼るのは当然だと」
レティシアが、ガレリウスを見た。
「ですが——セラフィーナ様に出会い、気づきました。これは導きではありません。支配です」
広間がざわめいた。
ガレリウスの微笑みが——消えなかった。
消えなかったが、目の奥の温度が、一度だけ変わった。セラフィーナだけが、それを見た。
「レティシア。あなたが苦しんでおられたとは知りませんでした。申し訳ない」
即座の謝罪。完璧な共感。声は温かく、悲しげですらあった。
「私の対話が、あなたにとって重荷になっていたのなら、私の不徳です。今後は、あなたの自立を最優先に——」
「猊下」
セラフィーナが遮った。
「今の言葉もまた、『魂の対話』の技法です。謝罪と共感で相手の怒りを吸収し、主導権を取り戻す。……私は同じ技法を受けた者として、その構造を知っています」
広間が、凍った。
ガレリウスの微笑みが、初めて——ほんのわずかに、固くなった。
「……セラフィーナ。あなたは、随分と変わられたようだ」
「ええ。変わりました。あなたに空っぽにされた私は、もうおりませんの」
静かな声だった。だが、広間の隅々まで届いた。
若い聖職者たちが、顔を見合わせていた。動揺している。ガレリウスの技法を、今初めて、名前をつけて聞いた者たち。
*
審議は紛糾した。
ガレリウス派と、動揺した中間層と、アリスが水面下で束ねた勇者信仰派の七名。三つの勢力が入り乱れた。
だがガレリウスは崩れなかった。
追い詰められても、声を荒らげない。微笑みを崩さない。一つ一つの反論を、穏やかに、論理的に、吸収していく。
セラフィーナは内心で認めた。この人は——強い。ナギ様と同じ武器を、ナギ様以上に長い年月をかけて磨いてきた人だ。一度の審議では倒せない。
だが——亀裂は入った。
レティシアの証言が、若い聖職者たちの中に、小さな疑問の種を蒔いた。
セラフィーナは知っている。種は、すぐには芽を出さない。だが、一度蒔かれた種は——もう、なかったことにはできない。
審議の最後に、ガレリウスが立ち上がった。
「聖女位の再審査は、保留とします」
保留。剥奪ではない。ガレリウスにとっても、ここで強引に剥奪すれば、かえって反発を招くと判断したのだろう。
「その代わり——提案があります」
ガレリウスの目が、セラフィーナを見た。
「和平が神の摂理に沿うものかどうか。この問いに、決着をつけましょう。全種族会議の場で」
広間が静まった。
「全種族の代表が集まる場で、和平の是非を問う。教団もその場に代表を送ります。神の摂理が正しいか、あなた方の和平が正しいか——全世界の前で、決着をつけましょう」
セラフィーナは、ガレリウスの目を見返した。
穏やかな微笑みの下に——勝算がある目だった。この人は、全種族会議の場で何かをするつもりだ。
「……受けて立ちますわ」
セラフィーナは微笑んだ。
聖母の微笑みではなかった。戦う女の微笑みだった。
*
夜。大聖堂の私室。
ソフィアが息を切らして飛び込んできた。
「セラフィーナ様。学院で——動きがありました」
「何が」
「私が置いていった魔脈データのノートを、旧同僚が三人で検証していました。結果——データの正当性を認める声明を、学院内部で出すと」
「学院が、味方に」
「全面的ではありません。ですが、一部の研究者が。……一人じゃないのは、本当でした」
ソフィアの目が、赤かった。泣いた後だった。追放された場所で、初めて味方ができた。
アリスが紅茶を三つ運んできた。
「お疲れ様です、お二人とも。今日の審議は大変でしたね〜」
「アリス。あなたの根回しがなければ、もっと厳しかった」
「フリルの外交力です♪」
三人で紅茶を飲んだ。
セラフィーナは水晶球を取り出した。
ナギの顔が浮かんだ。草原の夕暮れを背景に、馬車の中にいる。
「ナギ様」
「セラフィーナさん。審議は」
「聖女位は保留になりました。剥奪は免れましたわ。ですが——」
セラフィーナは、ガレリウスの提案を伝えた。
「全種族会議の場に、ガレリウス猊下が乗り込んできます」
ナギの表情が引き締まった。
「ナギ様。あの方は、あなたと同じ武器を持つ人です。ですが——あなたより、ずっと長い時間をかけて磨いている。気をつけてください」
「……わかりました」
「それと」
セラフィーナが、少しだけ微笑んだ。
「私の戦線は、まだ続いています。種は蒔きました。芽が出るには、もう少し時間がかかります。——全種族会議まで、蒔き続けますわ」
「セラフィーナさん。利子——」
「忘れていませんわ。利率は、本日の審議を経て、さらに上昇しております」
ナギが笑った。セラフィーナも笑った。
水晶球の向こうとこちらで、同じ空の下にいる。
通信が切れた。
セラフィーナは窓辺に立った。
王都の夜空に、星が見えた。
翠嶺の空とも、草原の空とも違う、人間の街の狭い空。だが——星は、同じだった。
全種族会議。
全ての戦線が、一つの場所に集まる。
嵐の前の、最後の夜だった。




